忘れるなんて、できない
ときどき階下から、おばさんとアヤちゃんの笑い声が聞こえてくるほかは静かなものだった。
僕たちは向かい合って座っているけど、さっきから一言も発していない。
吉本さんは正座でいるから足が
「足、崩したら?」
僕がそう促したら、うん、とだけ言って横座りの格好になった。
相変わらず、うつむいてる吉本さんは唇をとがらせてアヒル口になっている。
気まずい空気が流れる中、ようやく吉本さんから口火を切った。
「ねえ」
「なに?」
なんだか、不満いっぱいといった口調でやっと吉本さんから話しかけてきた。
僕の事を上目づかいに睨んでいる。
「本当にブロックしてるよね。信じらんないんだけど」
吉本さんと別れたあと、全ての連絡手段をブロックした。
どうも、それがご不満らしい。
「だって、新しく付き合いだした彼氏とのラブラブな様子が流れてきたりしたら嫌じゃん。そんなの見たくないし」
「っな、バッカじゃないの!」
彼女は泣き出しそうな声で真っ赤になって怒りだした。
バカとは酷い、大真面目なのに。
「吉本さんのそういうのはなるべく見たくないの。自衛だよ、自衛」
「ねえ……なんで、私のそういうのは見たくないの?」
そうたずねてくる声は少し震えている。
彼女は赤くなった目元をハンカチで押さえて、睨むように僕を見つめていた。
それは怒っているというよりも、必死さの現れに感じてしまう。
「なんでって……。この間、最後に言った事覚えてる?」
彼女はコクン、とうなずく。
なんか空気が変わったような気がする。
「もう一回言って」
「えぇ……」
「言って」
何というか有無を言わせてもらえない感じだな。
吉本さんってわりとそういうところある。
「もう、僕から吉本さんに話しかけたりはしないし……」
「それじゃないっ!」
恥ずかしいし、わざと外してみたらお怒りを頂いた。
めっちゃ睨んでる。めっちゃ怒ってるな。
だって、最後のつもりだから言えたんだし……。
でも、このままじゃ進まないし、諦めて覚悟を決める。
「吉本さんの事、ずっと好きだったよ」
吉本さんの目を見つめながら気持ちを伝える。
吉本さんは涙ぐみながら、うんうんとうなずいて、それから少し深く息を吸って何かを僕に伝えようとしている。
今度は、逃げないであの時の続きを待つ。
「うれしい。私も、一之瀬君のことずっと好きだよ。一之瀬君しか好きになれない」
涙声でそう言うと、ハンカチで目元を拭っている。
幸せだった。吉本さんに好きと言ってもらえただけで世界が輝いて見えるようだった。
このまま、素直に恋人になれたら良いのにな、そう思う。
「さっき、新しくできた彼氏とか言ったけど、そんなのありえないから」
下の唇を噛んで僕を睨んでいる。
僕にとってうれしい言葉だったけど、だからこそ言わずにはいられなかった。
「でもね、吉本さん。僕は今は付き合ったりできる状況じゃないんだ。それに、ウリをしてた事実は消えないしね。吉本さんなら、もっとまともな彼氏を作れるし僕の事は忘れた方が良いよ」
でも、彼女はそんな事あらかじめ考えていたみたいだった。
「忘れるなんて、できない。それにね、一之瀬君がそうやってどこかに泊まり歩いたり、その……ウリをしてたのだって安心して住めるところがないのが原因だよね? それが解決したら、私たち付き合えるようになるよね?」
「それは……そうだけど」
「だから、私が一之瀬君が安心して住めるところ探すの手伝うよ。そうしたら、もう他の人の家に泊まったりしなくても良くなるでしょ?」
「でも、それって難しいんだよ? 僕もずっと探してきたけど、やっぱり高校生だけじゃ部屋は貸してもらえないからね……」
「それでも、何か手はあるはずだよ。先生に相談したりだってできるはずだよ」
一瞬、生活指導の先生のねちっこい取り調べが頭をよぎって気が重くなったけど、今はいったん置いておく。
「一之瀬君がちゃんとしたところで住めるようになるまでは、他の女の人のところに泊まっても……」
そこで、彼女は一呼吸して、二呼吸して、しばらく間を作った。
「我慢するから……だから、お願い。考えてみて」
でも、それとは裏腹に吉本さんの膝の上に置いてある手は強く握りすぎていて震えている。仮に僕と吉本さんの立場を置き換えてみて、考えたら全然平気ではいられない。きっと、気が狂いそうになると思う。
「……吉本さん。それ本気なの?」
僕の目を見つめたまま、コクリとうなずく。
「一之瀬君が危ない目に合ってほしくないし……。だから、私は待つよ」
彼女にそこまで言わせてしまったら、根性見せるしかないじゃないか。
「吉本さん、分かったよ。僕も本気でなんとかできる方法を考えてみるよ」
吉本さんの顔がぱあっと輝く。僕の好きなこの表情、久しぶりに見れたな。
「本当? 私、頑張る! 頑張るから!」
目をキラキラと輝かせた吉本さんがグッと近づいてくる。
吉本さんの良い匂いを感じられるくらい近いから、思わず抱きしめたくなったのをなんとか我慢する。
「それに、女の子の家に泊まらないようにもするよ。なんとかするからさ」
「でも……そんなことできるの?」
前々から考えていた手はある。いつか泊まった安宿をひと月とか長い期間貸してもらう。
光熱費がいらないから、普通にワンルームを借りるよりは安く上がるかもしれない。
当面は『お仕事』でためたお金で当分は何とかできると思う。
これから、まともなバイトだけで生計を立てるとしたら、余裕はないし不安はあるけど。
それでも吉本さんを安心させるように、自信あり気な表情を意識して言った。
「お金がいるから、あまり長い間はできないかもだけど……。その前にどこか住めるとこを見つけたらいいしね」
「……わかった。私きっと見つけてくるから」
吉本さんは僕の手を取ると、決意に満ちた力強い表情で、任せて! と言ってくれる。
彼女の手は小さくて、少し冷たくて、やわらかかった。
きっと、彼女は現実の厳しさをまだ知らないだろうけど、その気持ちが何より嬉しくて今はそれに浸りたかった。
それでも、言わないといけないこともあって。
「でもね、吉本さん。もし、僕たちが付き合うようになってもね」
「うん」
「僕が自分を売ってたこと、気にならない? やっぱりつらくなる時はきっとあると思うよ?」
吉本さんは今まで見たことないような、悲しさと、優しさがないまぜになった笑みを浮かべる。
「それも、考えたんだ。きっと、つらくなる。というか今でもつらい。一之瀬君と楽しく過ごした後とかに、一人でいるときに考えて悲しくなったりすると思う。でもね」
吉本さんの両手が、僕の手をまるで宝物かのように優しくそっと包む。
「一之瀬君が、これから、私だけを好きでいてくれて、私と一緒にいてくれるなら、私は全部を受け入れられる」
そうまで言われたら、引き下がれないな。
僕は覚悟を決めた。正しく生きていけるように、胸を張って吉本さんと付き合えるように、精一杯やってみよう。
今まで親に奪われたり、自分から他人に売り飛ばしてきたから、僕自身の大切な何かはスカスカになってしまっている。
もし、吉本さんとお互いに愛し合えるのなら、スカスカになったところを暖かいもので埋めることができるかもしれない。
「私が、一之瀬君を守ってあげるから!」
そう言って、自分の胸をドンとたたく吉本さんを見て敵わないやと天井を仰ぐのだった。
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