早く帰ってこないかな

 僕はじんの部屋を一心不乱に掃除をしていた。

 仁の部屋は六畳ほどの広さの和室で、勉強机や本棚、テレビにゲーム機、それにエレキギターが置いてある。壁には茶色い帽子をかぶったBeckのポスターが貼ってあって、ジッと僕を見つめてくる。ベッドは置いてないから、物はたくさんあるけどそれほど狭くは感じない。

 基本的にはいつも部屋は散らかり放題で、勉強机の上にはマンガ本が山のように積んであって、勉強をしている形跡は残っていない。うちの高校ってそれなりに入るの難しいはずなのに、こんなに勉強してなくて授業によくついていけているな。

 昨日、吉本さんと決別した後からここに泊めてもらっている。一人でいるのは辛すぎた。

仁には彼女と何を話したかを全部伝えた。


「しゃーなしだな」


とだけ言うと、この件についてそれ以上は何も口にしなかった。

 今日は土曜だから水泳部は温水プールに出向いての練習があって、仁はそれに参加している。もう退部を決めた僕は練習に行くわけもなく、こうして留守番だ。

 ただ、何もしないでいると後悔の念で頭の中がいっぱいになったり、涙が止まらなくなってしまうから仕事が欲しかった。そこで仁の部屋を徹底的に綺麗に片付けて掃除をしているというわけだ。

 仁の部屋の前にも、時東家の掃除できるところはあらかた掃除をさせてもらった。

 少し年季の入った二階建ての一軒家である時東家は、いつもおばさんが綺麗にしているのだけど、それでも普段の掃除では手が回らないところはあって、そういうところを全部させてもらった。トイレ掃除や風呂掃除では、カビの一つも残さない。キッチンの油汚れも根こそぎ取り除いてやったし、廊下の雑巾がけもばっちりだ。できればワックスがけもしたいところを我慢した。

 入ってもいい部屋の窓は、全部磨かせてもらった。冬の弱い日差しがぴかぴかになった窓を通って、綺麗になった部屋の中を優しく照らす様子は見ていて気持ちがいい。


「悠ちゃんの掃除は相変わらず凄いねえ。もう大掃除するところ残ってないわね」


 おばさんはそういってカラカラ笑っている。

 仁のお母さんだけあって、面倒見が良くて、思い切りがよくて、優しい人で僕は大好きだ。

 子供のころから何かと気にかけてくれていて、この人のおかげで僕はここまで生きてこられたところがある。

 小学生のころクソ親父の暴力のせいで母親が何日かいなくなって、おまけに夏休みで給食もないしで何も食べらない日が続いたことがあった。しばらくの間は、水だけで我慢していた。だけど、そのうち腹をえぐられる様な空腹に耐えきれなくなって、大泣きしながら食べるものを探し歩いていた僕を見かねた仁がここに連れてきてくれてたのがきっかけだった。

 おばさんは、初めて会った僕にご飯を食べさせてくれて「毎日、来ていいからね」そう言ってくれた。実際に次の日からも、毎日ご飯を食べさせてくれたのだった。間違いなく、この出会いは僕の生死を分けた大きな分岐点だったと思う。

 初めて会った時に、何日も着替えもしていなくて臭くて薄汚れた僕を優しく抱きしめてくれた事をよく覚えている。おばさんには、いつか必ず恩返しをすると誓っている。


 そういうわけで、あらかた掃除できるところは済ませてしまった僕は、最後の戦場である仁の部屋を本腰いれてやっつけている所なのだった。

 それも、もう少しで終わってしまう。部屋中に散らばっていたスイミングマガジンをバックナンバー順にそろえて本棚に収めたらする事が無くなってしまった。

 ただ、もうすぐ仁も戻ってくるだろう。吉本さんは、いつものように公民館で勉強したのかな? ……それこそ益体がない考えってやつだな。首を横に振って、頭の中を空っぽにする。

 エレキギターを手に取ってみる。しばらく触ってなかったから、すっかり錆びついてるけどやっぱり良いな。アンプシミュレーターも使わない、生音だけだけど楽しい。たどたどしい指をもどかしく思いながらも、しばらく好きに音を出す時間を楽しんだ。

 ギターを戻して、部屋を見渡す。片付けが終わってガランとした部屋は妙に寂しかった。

 仁、早く帰ってこないかな。




 夜になると気持ちが落ち込んでしまって、どうしようもなかった。

 大人だったら酒を飲んで気を晴らすんだろうな。

 部活から戻ってきた仁はバカ話をしたり、ゲームをしたり、ギターを教えてくれたりと付き合ってくれる。よけいな事は何も言わない、親友の優しさは本当にありがたかった。

 今日の部活に吉本さんは来てたのかとか、どんな様子だったのかとか思わず聞きたくなったけどグッと堪えた。

 ひとしきり遊んで、あとは寝るだけとなった頃だった。隣の布団の上でマンガを読みながら、ごろごろしていた仁のスマホが鳴り出す。


「おう、アヤか。どうしたんだよ? ……あん、悠人ゆうと? 俺ん所に昨日から泊まってるぞ。……うん、うん。……はあ?」


 話しながら廊下に出て行った。

 僕の名前が出てるから吉本さんがらみなのかな。でも、今さらどうしようない。ウリをしてることまで話したんだから、修復なんてありえないだろう。

 どうすれば良かったんだろうなあ。そもそも自分一人でなんでも解決しようとしすぎたのかな。もっと保護施設とかを頼って真っ当な暮らしを送ったら良かったんだろうか。でも、結局は自力で何とかしようと、同じような事をしてそうな気がする。生きるの下手だなあ、僕って。

 そんな事を考えていると仁が戻ってきた。仁を見てみると何とも言えない顔をしている。


「変な顔してるけどどうしたの?」


 何か言いたげに口をモゴモゴ動かして、結局あきらめたのか、


「いや……、なんでもない。部活で疲れたし、そろそろ寝ようぜ」


 そう言って電気を消した。

 僕も一日を掃除に費やして結構疲れていたから、すぐに寝入ってしまった。




 翌朝、冬晴れの良い天気だった。

 昨日の掃除で僕が磨きぬいた窓から、柔らかな朝の日差しが差し込んでいる。

 もう、時東家の掃除を済ませてしまった僕としては、ジッとすることは避けたかった。


「なあ、仁。気晴らしにどこか遊びに行かない?」

「ああ……そうだな。ただ、行くのはもうちょいしてからにしようぜ」


 いつもなら、二つ返事でOKするはずの仁が煮え切らない。

 なんか変だなと思いつつも腹でも痛いのかもしれないし、そっとしておくことにした。


「なら、家の前のドブさらいでもしてこようかな。仁はゆっくりしといてよ。スコップ借りるから」


 そう言って立ち上がろうとした時、インターフォンがなった。

 下でおばさんが応対しているようだった。

 なんだか、聞き覚えのある女の子の声も聞こえる。


「仁! 悠ちゃん! あんた達の彼女たちが遊びに来たよー!」


 おばさんの楽しげな声が階下から響いてくる。

 『彼女たち』ってどういう事だ? 仁を見ると目を背けやがった。

 仁の奴め、ハメたな……。

 トントントン、楽しげに昇ってくる足音と、なんだかおずおずと昇ってくる足音の二種類。


「おっはよー!」


 ドアが開く前から、底抜けに明るい声色の挨拶が聞こえてくる。

 ノックもなしに勢いよく開いたドアから、ニコニコ顔のアヤちゃんが飛び込んでくる。


「二人とも元気してた? あ、トッキーは昨日会ったばっかやなあ」


 そう言って、アハハハと笑う。

 私服姿のアヤちゃんはなんか新鮮に見えるなあ。レース衿のピンクのセーターに、ファーのついたホットパンツの下に、黒いタイツを履いてて、活発だけど女の子らしいアヤちゃんぽい服装だなと妙に感心してしまった。


「ちょー、一之瀬君こそ元気してたん? みんな心配しとったで?」


 全く白々しいなあ。


「元気じゃないし、水泳部も明日辞めるから気にしないで良いよ」


 素っ気なく突き放す。

 そんな僕を見て、これまたわざとらしく大げさな仕草で肩をすくめるアヤちゃん。


「しゃあないなあ。そんなら元気でるようにしたるわ」


 そう言って、ドアの向こうにいるもう一人をこの部屋に引きずり込もうと、腕を引っ張っている。

 えーから! えーから! というアヤちゃんと、ちょ……、やだ! とか聞き覚えのある声のやり取りがちょっと可笑しかった。

 水泳部女子のエースであるアヤちゃんに敵うわけもなく、程なくして吉本さんが部屋の中に引きずり込まれる。

 レースの入った白いブラウスをインナーに長めの紺のワンピース姿の吉本さんは、ガーリーな雰囲気でこれまた良いな。レースの可憐さが吉本さんに良く似合ってる、うん。

 一瞬、見惚れてしまったけどこの状況どうしたら良いんだ。

 

「まあ、まあ、とにかく一旦みんな落ち着こうや」

「そうだな、アヤも吉本ちゃんも座ってくれよ」


 仁が珍しく、押し入れから座布団を出して二人に促す。

 はーい、と言ってポンと座るアヤちゃんと、しぶしぶと言った感じでチョコンと座る吉本さん。

 誰もしゃべらないから、気まずい沈黙が続く。


「はー、これがトッキーの部屋かあ。イメージと違ってめっちゃ綺麗にしてるやん」

「ああ、これは悠人が片付けてくれたからだわ。いつもはもっと汚い」

「ええ……やっぱりイメージ通りなんやん」

「安心しただろ?」


 場を持たせるように、二人が雑談している。

 吉本さんは、頬をふくらまして僕の方を向かないよう顔をそらしてる。

 僕だってあんなにカッコつけて別れたのに、どんな顔すれば良いんだよ。思い出したら恥ずかしくて、顔が赤くなってくる。吉本さんと同じようにそっぽを向いてやる。


「う~ん、困ったなあ。二人ともせっかく会ったんやし、もうちょっと仲良くせえへん?」


 仁とアヤちゃんは、僕たちの様子を見て苦笑いをしてる。 


「昨日、真希ちゃんウチに泊まったんやけどな、ずっと一之瀬く~ん言うてメソメソ泣いとったんやわ」


 アヤちゃんがそう言うと、「ちょっと、アヤやめてよ!」と吉本さんは慌てて止めようと、アヤちゃんにしがみついている。

 この流れ、当然……


「んで、悠人も俺んちでずっと落ち込んでるわけじゃん。そうなると……おっと」


 仁を止めようと飛び掛かろうとしたけど、先を読まれていて仁にするりとかわされてしまう。

 仁もアヤちゃんも、にまぁと意味ありげな笑顔をしているのがムカつく。


「二人ともそんなに後悔してるなら、もう一度やり直せるんちゃう?」


 アヤちゃんは、吉本さんの体を引き寄せてそっと抱きしめている。

 吉本さんは、やっぱり僕とは目を合わせようとはしないけど、この間のような拒絶してる感じではないみたいだ。


「まあ、真希ちゃん、何話したか全部は教えてくれへんから、アタシが知らないどうにもならない事もあるんかも知れんけど……。でも、二人このまま終わっちゃうの勿体ないと思ってなあ。トッキーと相談したんよ」


 仁は、アヤちゃんの言葉を引き継ぐ。


「まあ、おせっかいとは分かってんだけど。アヤの話聞いてな、今回ばかりは俺もまだ話し合えるなら、そうした方が良いと思ってよ」

「それに、真希ちゃんも言いたいことあるからここまで来たんよ。せっかくやから聞いてあげてや」


 そう言うと、仁とアヤちゃんは立ち上がって、あとは若い二人で、とか言い残して部屋を出ると下の階に降りて行った。

 こうして、なぜか仁の部屋で吉本さんと二人だけで再び向き合うことになってしまうのだった。

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