オジサン、マジ天使
早く朝にならないかな……。
僕はただひたすら耐えて時間が流れていくのを祈っていた。
今夜は、とあるお金持ちのオバサンの家で『お仕事』に励んでいる。
「あ、そこ良い……。あなたホント上手ね」
「気持ち良くなってくれてうれしいな」
オバサンはうっとりした様子で僕にしがみつく。
彼女の耳元に優しくキスをするとゆっくりと腰を動かす。
「あっ……、もっと長く入っててね」
ホントにタフだな。底なしの性欲に脱帽だよ。
日が変わる頃から、何度も何度も相手をさせられていて疲れ果てていた。
けれど、まだまだオバサンが満足してくれる気配がない。
僕としても心情的にはできる限りここには来たくないのだけど、いつも料金の他にも結構な額のお小遣いをくれる。
お客さんとしては上客といえるし余計な事は考えないように、誠心誠意ご奉仕することに専念した。
無心だ、心を石にしろ。
「ふふ、若い子って本当にいいね。まだまだできそう?」
「うん、お姉さん綺麗だから全然いけるよ」
「可愛いこと言ってくれるじゃない。お小遣いもいっぱいあげるからね」
もちろん、これはリップサービス。
もうすぐ
だけど、『お仕事』である以上は、一切手を抜かないのが僕のモットーだ。文字通り、自分を奮い立たせる。
こうして、週末はこのオバサンに最後の一滴まで搾り取られるハメになった。
やっと迎えた月曜日、オバサンの家を早朝に出たは良いけどやたらと体がだるい。
部活も朝の練習は参加せずに、授業が始まるまで教室の机に突っ伏して休んでいた。だけど、体調が良くなることはなくて、二時限目の授業中に教室を抜けて、保健室に行く羽目になってしまった。
保健室で体温を測ると、三八度を超える熱が出ていてそのまま寝かせてもらう。
無理がたたって風邪をひいてしまったみたいだ。
ガッポリ稼げたのは良いけど、これじゃ割に合わないな。体力的にも精神的にもギリギリすぎる……。
悪夢の二日間を思い出すと寒気が走ったけど、熱のせいなのかオバサンに植えつけられたトラウマのせいなのか、ハッキリしない。
結局、午前中に早退して自宅のマンションに戻って眠る事にしたのだった。
食欲もなくて学校から帰るとずっと眠っていたら、部屋のドアをガンガン叩かれる音で目が覚める。
枕元のスマホを見てみると夜の八時を少しまわった頃になっていた。
ちょうどクソ親父が仕事を終えて、会社から帰ってくる頃だった。
「オイ、出てこい!」
クソ親父が部屋のドアを叩きながら喚いていた。
眠っている間に部屋に入ってこれないように、僕の部屋には内鍵をつけている。
「……なに?」
ドアを開けずに、返事をする。
「明日のシャツの用意はどうしたんだ!」
えらい剣幕で怒鳴っている。
どうしたんだって、なんなんだ。
「ちゃんと洗って、いつも通りクローゼットに入れてるでしょ」
「あんなシワだらけのシャツを俺に着ろと言うのか?」
「シワだらけって、形状記憶シャツだしそんなに目立たないじゃん」
返事のかわりに、ドアを足蹴にする音が響く。
はあ……、心の中で大きくため息をつく。
うちでは、僕が一週間分のシャツをまとめて洗濯している。
そのときに、クソ親父のカッターシャツも一緒にアイロンにかけている。ちなみに僕のアイロンの腕前はなかなかのものと自負していて、パリッとした仕上がりにこだわりを持っている。
ただ、今日は体調も悪い事もあって洗濯までが精一杯でアイロンはしていなかったのだけど、クソ親父はそれが気に食わなかったらしい。
形状記憶シャツだし別に良いじゃんと思うのだけど、会社勤めでスーツにも拘ってるっぽいクソ親父は、アイロンをあててないシャツは許せないみたいだ。
「わかったよ……。これからアイロンあてるから」
そういって、部屋のドアを開ける。
と同時にコブシが飛んできた。熱っぽくて少しボーっとしていたのもあって、まともに右目に食らう。
倒れたところを胸ぐらを掴まれて無理やり引き起こされた。
クソ親父がコブシを振り上げる。僕はそれを見ると、子供のころからの癖で思わず体を丸めて頭を守ってしまう。
「へっ、そのみっともない癖は治らないなあ」
半笑いでそう言うと同時に、足をかけて僕を床に転がすと頭を踏みつけた。
グッと体重をかけて右の側頭部を押しつぶすようにして、足を離すと背中をボールをける様に思い切り蹴りつけて転がされる。
衝撃とあまりの痛みで息が出来ない。全身をくねらせて痛みに悶えている所を
これはクソ親父の得意技で子供のころから良くされてきた。
プロレスラーでも多分しないであろう、踵でのストンピングが全身に降ってくる。頭や首を狙われると本当に殺されるので、両手で必死にかばう。
終わった後は全身アザだらけだ。次の日に血尿が出ることもある。
ようやく収まった時には、かなり体力を削られて立ち上がる気力もなくてグッタリと床に伏して動けない。
「なに寝てるんだ? さっさと起きろ!」
まだ気が収まらないみたいで、僕の髪を掴んで無理やり立たせると、風呂場まで引きずるように連れて行かれる。
風呂場の床に放り出されるように転がされて、冷たいシャワーを全身に浴びせかけてきた。
鼻血が冷水と一緒に排水溝に流れていく。すさまじい寒気に襲われて全身が震えだす。
「これから風呂入るから、湯もためとけよ」
気が済むまで冷水を浴びせてから、そう言い捨てるとクソ親父は風呂場から出て行った。
一人になってもしばらく体を動かせなくて、鼻血が水と混じって排水溝に流れていくのをぼうっと眺めることしかできなかった。
なんとか体を動かしてシャワーを温水にして、冷え切った体を温めようとしたけど寒気は止まらない。風呂場の鏡で自分の顔を見ると、口の端が切れていて右目のまぶたが腫れてきている。目の方は青アザになるな……。とにかく濡れた服を代えないと。
その後、風呂に湯を張ってクソ親父のシャツになんとかアイロンをあて終わった頃には、視界がぐるぐる回って歩くこともままならい有様になってしまった。壁にもたれる様にして、ズリズリと体を引きずるように歩く。
クソ親父はリビングでジャックダニエルの水割りを飲みながら、そんな僕の様子を楽しそうに眺めている。
口元を歪めて笑ってるクソ親父を無視して自分の部屋に戻った。
固いパイプベッドに転がり込んで、体温計で熱を測ると四十度直前まで上がっている。
熱が上がりすぎて眠れなかったけど、スマホを見てみると吉本さんが早退した僕を心配してくれているメッセージを送ってくれていた。
『風邪、大丈夫? 体冷やさないようにしてゆっくり寝るんだよ?』
これだけで癒される思いだ、マジ天使か。
痛みと熱に苦しみながらも、このメッセージだけでなんとか持ちこたえる事ができた。
火曜日。熱はほとんど下がってなくて、おまけにクソ親父に蹴られたせいだろう血尿も出る始末。グッタリとベッドから動けなかった。
看病してくれる人が誰もいないのは仕方ないにしても、僕を痛めつけてくる同居人がいる分だけ独り暮らしよりもタチが悪い。
寝てるだけじゃ全然良くなりそうな気配がない。病院に行かなきゃないけないのは分かってるけど、手に入れないといけないものがある。不本意ながらも、クソ親父の帰りを待つしかなかった。
夜になるとクソ親父が帰ってきた。
「あ、あのさ、ちょっと話があるんだけど」
リビングで酒を飲み始める前に声をかける。まだ、シラフだからいつもよりはまだ会話が出来そうな雰囲気だ。
とは言っても、かなり険のある目つきをしているのだけど。
「なんだ」
テーブルについてグラスにジャックダニエルを注ぎながら、面倒くさそうな返事をしている。
僕は親父の席の向かいに立って話しはじめる。
「ちょっと、風邪の具合が酷くってさ。病院に行きたいから僕の保険証を貸してくれないかな?」
一応、クソ親父の扶養に入っているから保険証はクソ親父が持っているはずで、これまでも学校行事なんかで保険証のコピーが必要なときは渡してもらっていた。
保険証なしだと、とてもじゃないけど治療費は払えない。本当はクソ親父なんかと話すのは御免だけど背に腹は代えられない。
だけど、クソ親父の返事はつれない物だった。
「だめだな」
驚愕で一瞬言葉に詰まる。
「えっ……」
クソ親父はグラスにソーダを注いで、コンビニ弁当についていた割り箸でグラスを混ぜ始めた。
小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら僕を見る。
「お前が病院に行くたびに、役所か児童相談所か知らんがうっとおしい奴らが来る」
まだ、母親がいたころは病院に連れて行ってもらう事もあった。風邪で連れて行ってもらっても、体に残ったアザを見た医者の先生が通報してくれることがたまにあったのだった。
ただ、通報を受けて児童相談所の人が来ても、だいたいは親が対応して何もしないで帰って行くだけだった。
「まったく、人が親切で病院に連れてやったと言うのに、お前は恩を仇でしか返さない奴だからな。虐待されたとか、ある事ない事を言いふらしてるんだろう?」
クソ親父は、一気にグラスの半分ほどのソーダ割りを流し込む。
だからか、と納得がいった事がある。僕の事は生活費もほとんど渡さないくらいにほったらかしのくせに、保険証だけは僕に渡さないし必ず回収する。
「だから、病気は気合で治せ。できなかったら死ね」
そういって、冷たく言い放つ。
「いや、もう通報なんかさせないし親父に面倒かけないからさ。約束する。だから頼むよ」
それでも食い下がってみるけど、取りつく島もない。
おまけに酒が回ってきたのか目が危険な座り方になってきた。ガタッと音を立てて急に椅子から立ち上がると、僕の胸ぐらをつかみかかる。そのまま壁に体を叩きつけられた。
「ゴチャゴチャうるせえんだよ!」
そう言って、思いっきり腹を殴られる。
思わず腹を押さえて崩れ落ちてしまう。もともと高熱を出して弱っていたところにこれは耐えられず、吐いた。朝から何も食べてないから、胃液だけが床を汚す。「きったねえなクソガキ!」とさらに激昂した親父に足蹴にされ、途中で意識が飛んだ。
目の前に広がっている胃液のすえた臭いで目が覚める。どれくらいこうしていたのか分からないけど、親父はリビングにはいなかった。体は冷え切っていて、しばらく起き上がる事もできなかった。
頭を少し動かすと、頬が床に張り付いていて軽くパリパリと音がする。鼻血が床と頬の間で乾いて張り付いていたようだ。
なんとか体を起こすと、また強烈な吐き気に襲われてその場で吐いてしまう。床に両手をついて吐き気がマシになるまでジッと耐えた。今なら体温計も振り切ることが出来そうな気がする。雑巾で胃液と鼻血で汚した床を簡単にふいてしまうと自分のベッドに戻った。
ひどい臭いが体からするけど、気にしていられない。
死をひどく身近に感じる。それこそ、同じベッドにいて寝返りを打つと抱き合えるのではないかと思うくらいに。
眠りに落ちる寸前に、明日必ず家を出ようと決心した。
水曜日、風邪をひいてから三日。昨夜、決心した通り家を出る準備を始める。
このまま家にいたら今夜あたり死にかねないぞ。
駅前のビジネスホテルは宿泊費が高いし、身分証を求められて高校生だとわかると面倒な事になるのでNG。ネットカフェも夜には追い出されるし、補導員が来るから使えないだろう。だいたいの大人は味方にはなってくれない。
という訳で、電車にのって少し離れた安宿を目指すことにした。
立っているのも辛いから、何か杖になる物が欲しい。外は快晴だったからちょっと迷ったけど、ビニール傘を杖代わりに使うことにした。いつもなら駅まで歩いて十五分くらいだけど、四十分くらいかかってしまう。
平日の日中の車内は、空いていて穏やかな雰囲気だ。
外回りのサラリーマンや、お年寄り、小さな子供をつれた若いお母さんといった人たちがまばらに座っているだけで、平和そのものに見えた。
家を一歩でたら、こんなにも穏やかなんだなあ。熱で目が回りながらも外の空気にホッとした。
顔のアザを隠すために大きなマスクをつけているけど、なんとなく異様な風体だからかチラチラとまわりの人の視線を感じてしまう。
昨日の夜も吉本さんが心配してくれてメッセージを送ってくれていた。今日の放課後、お見舞いに来てくれようとしていたみたいだ。もし、彼女が本当にお見舞いに来てくれたら風邪ぐらいすぐに治りそうだな。ちょっと、そんなシーンを夢想して楽しくなる。
でも現実は非情である。僕は避難している最中でそれは叶わない。「まだ、風邪がひどくってうつすといけないから」と泣く泣く断りを入れる。チキショウ、なんてことだ。
ふと、スマホで写真をみる。こないだ吉本さんと学校帰りにファストフードに寄ったときに一緒に撮ったやつだ。僕と吉本さんが、顔を寄せ合って楽しげに笑っている。彼女のきらきらした笑顔を眺めていると元気が湧いてきた。この時の吉本さんも可愛かったなあ。撮る時にけっこう顔が近くになったんだけど良い匂いして密かにドキドキしてしまったりして最高だった。はあ、癒される。会いたいなあ。
電車で西の方に向かうと、外国から来た船のコンテナを荷揚げする港がある。その港の周りの港湾労働者向けの安宿がたくさんあって、その一角を目指す。
どことなく殺伐した町並みに、いわゆる『ドヤ』と呼ばれている安宿がちらほらと建っている。
他にもやたらと安い食堂や、立ち飲み屋があって早朝や夕方以降は労働者たちでにぎわうのだけど、真昼間の今は閑散としていた。
最近は、労働者以外にも外国人のバックパッカー達も良く見かけるようになってきたな。
冷や汗をダラダラかいて、膝はガクガクでビニール傘に寄り掛かる様にしないと歩けない。やっぱり無謀だったかと、後悔したけど一度立ち止まると歩けなくなりそうだから、歯を食いしばって座り込みたいのを我慢する。
そろそろ、体力の限界が近くなってきたところで、ようやく目的地が見えてきた。一見すると、ただの戸建て住宅のように見える宿が目当ての場所だ。玄関のガラス戸に目立たないように「ホテル」とシールが張っている。
ここには何度か泊まったことがあって、僕みたいなちょっとワケありっぽく見えるはずの高校生も、何も聞かずに泊めてくれた。震える手でガラス戸をあけて受付へ。
「今日から、月曜まで泊まりたいんですけど」
もう、限界だ。もう、頑張れない。ここを断られても次の宿を探す気力はない。頼む! 祈るような気持ちでいた。
受付にいたオジサンは、アザだらけな僕の顔をちらっと見ると「ウチは前払いだよ」とだけ言って部屋を貸してくれた。
料金もかなり安い。やったあああ! 心の中で
最後の力を振り絞り、手すりにしがみ付く様にして二階の部屋にたどり着く。
おそらく三畳はない狭い部屋だ。
窓は小さく外の光はあまり届かなくて、弱々しい蛍光灯だけが頼りの薄暗さ。壁に沁みついたヤニとカビの臭いが混じりあった空気。ベッドとその横に小さなゴミ箱が置いてある以外には何もない。
でも、この殺風景さは自分の部屋に似ている気がして少し親近感を覚えてしまう。
布団が少し湿っているベッドに潜りこむと気を失うようにして眠った。
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