第5.5話 天才の弱音(了)
才はなぜ、今自分がここにいるのか。思い出してみた。
淡雪が刺された事件から、約十年。
才は、研究室で淡雪の砂の復元作業をしていた。背後で扉が開かれた音がしたが、顔を上げずに開けたであろう人物に声をかける。
「修、用がない限り開けるなと言っただろう」
「こんにちは、才くん」
「ん?」
予想とは違う返事が返ってきて、才は驚いて顔を上げた。入ってきたのは竜胆だった。どうして竜胆がここにいるのか。
「堪忍な、修やなくて」
「いや、修ならいいというわけでもない。何の用だ」
「はなのさとで新しく出そうと思うてる料理の試食をして欲しいなあと思うて」
「俺がか?」
意味が分からない。はなのさとによく行くやつは他にもたくさんいるだろうに。
「試食がいつも同じ人やったら偏ってしまうんよ。頼まれてくれへん?」
「俺は忙しいから、修とか、双子を連れていけばいい」
何も自分が行く必要性はないだろう。
これで話は終わりである。才は再び竜胆に背を向け、作業に戻った。放っておけば勝手に帰るだろう。
「そないなこと言わんと来てくれへん?」
帰るどころか、覗き込むように竜胆がこちらを見てきた。目が据わっているような……。
「いや、俺は――」
「うちの誘いを二回も断るんは、感心せえへんな」
笑顔のまま、あまり聞かない低い声でそう言う竜胆には、逆らってはいけない何かを感じた。思わず手を止めたその隙に、竜胆に腕を掴まれてしまった。そしてそのままずるずると部屋から引っ張り出された。
「うわ、ちょ、あんた力強いな」
「こら、女性にそういうことを言うんはだめやよ」
「事実だろう」
竜胆はまたしても笑顔のまま、空いている方の手で才の頭に手刀を落としてきた。動作は軽くいたずらのようだったが、かなり痛かった。
「いてっ」
そして、なんだかんだとそのまま、ここ、はなのさとに連れて来られてしまった。
はなのさとは、スナックと言っているが、外観は木製の格子の引き戸に、薄黄色の暖簾。こじんまりとした小料理屋という形容がしっくりくる。
カウンター席に座った才だったが、こんなところで時間を取っている場合ではない。淡雪の砂の復元を一刻も早くしなければならない。
「今から作るから、ちょっと待っててな」
「……」
どう言ってここから帰るか、才は考えていた。
「無理やり連れて来られてむくれてるん?」
子どものわがままのように言われて、少し苛立った。そんな風に言われる筋合いはないはずだ。
「俺にはやることがあるんだ」
「……才くん、一体何日部屋から出てへんかったか分かってるん?」
そう聞かれて、才はいつから研究室にいたのか、記憶を遡ってみる。正確に思い出せない。
「二日? いや三日か」
「五日や。そんなん皆心配して当たり前やわ」
「心配には及ばない。俺は天才だ」
「はいはい、天才なんやったら自己管理ちゃんとせな」
なぜか流されたような気がする。事実を言っただけなのに、どうしてそんな反応をされるのか、才には不思議だった。
話しながら竜胆の手元では、食材がダンスをするように調理されていた。トマトとタコがリズミカルに一口大に切られ、続けてモッツアレラチーズが立方体になっていく。竜胆は慣れた手付きで調味料をボウルに入れて混ぜている。
見事な手付きだった。少し、何が出来るのか気になってきた。
「もうちょっとやよ」
ボウルに塩コショウが加えられ、具材がその中に飛び込んでいく。下から掬いあげるように混ぜ合わせている。
「何を作っているんだ」
「あら、気になってきたん?」
「目の前で作るのを見せられたら少しはな。だが」
才は料理道具がずらり並んだカウンターの中に視線を向けてから、腑に落ちない表情で続けた。
「俺たちは付喪神なのだから、そもそも食べなくても問題ないだろう。料理に何故手間をかけるか、理解しがたいな」
竜胆は、うーんと頬に手のひらを当てて何やら考えている様子。彼女と一対一で話すこともあまりなかったが、こうして見ると所作の一つ一つが上品である。
「確かに食べへんでも、うちらは消えたりはしやん。でも、美味しいものを美味しいと思う心の余裕くらいなかったら、周りなんも見えんくなるよ」
「だが」
反論しようと口を開こうとしたら、竜胆が、むうっと少し頬を膨らませた。じれったい、という気持ちが滲み出ている表情だった。
「もう、つべこべ言わんと食べてみ」
竜胆はボウルの中身を小鉢に盛り付けた。その小鉢は箸と共に才の目の前に置かれた。食べてみなさい、という無言の圧力に押し負けて、才は箸を手に取り、小鉢の中のタコを口の中に放り込んだ。
弾力のあるタコは酢との相性が良く、口がさっぱりとした旨みが通り抜けていった。
「……美味い」
無意識のうちにそう呟いていた。
「才くん、お酒は?」
「あまり飲んだことはないが、飲めないわけじゃない」
「じゃあ、ワインでも飲もか。そのマリネとよく合うんよ」
竜胆は二つのワイングラスにワインを注ぎ、片方を持ってもう片方にカツンと当てた。才はその片方を手に取り、ワインを口にした。久しぶりに口にしたそれは体の中に溶け込んでいくようだった。
いつの間にか、マリネの他に生ハムがつまみに増えてワインが進んだ。飲むたびに体が軽くなるような気がして、グラスが空になったらすぐワインを注いだ。
「才くんけっこう飲めるタイプなんやね」
竜胆にそう話しかけられて、才はワインが美味いからだ、と答えようとしたが何故か思う通りに言葉が出ない。
「んー、ああー。美味いな」
竜胆が何やら驚いた顔をしている。ワイングラスを下げられてしまった。
なるほど、このふわふわした心地のいい状態が酔っているということか。才は真顔で頷いた。酔っても顔に出ないタイプのようだ。
「少し水飲み。無理に飲んだら体に良くないわ」
「んんー」
才は首を振って水を飲むことを拒否した。水を飲めばこの心地よさが失われてしまう。今だけは、解放されたい。どこから? ――あの研究室から。苦しい作業台から。
「…………だめなんだ」
「え?」
誰かに言うようなことでなはい。分かってはいたが、勝手に独り言を吐く口を止められなかった。
「何度やっても歪が見えるんだ。早く淡雪の記憶を戻してやりたいのに。修も苦しんでいる」
竜胆の返事はなかったが、気にする余裕もなく、才は続ける。
「早く作らなくてはならないことは、分かっている。でも、出来ないんだ。出来たと、これで完璧だと思っても、必ず歪がある。何度も何度も何度も、繰り返して、それでも、出来ない」
体に溶け込んだワインのせいにして、才はその言葉を、弱音を口にした。
「もう……やめたい」
「やめても、ええんと違う」
ずっと聞き役に徹していた竜胆がそう返した。
なんと無責任なことを言うのか。バッと顔を上げて竜胆を睨もうとしたが、そう言わせたのは、言ったのは自分ではないか。
「いや、だめだ」
否定する言葉は思った通りに言葉に出来た。
「俺は天才なんだ。俺が出来ないと言えば、終わってしまう。それだけはしてはいけないし、したくない。淡雪は絶対助ける」
才は、自分が天才であることを自覚している。自分が最後の砦であることも理解している。才が匙を投げればそれはすなわち不可能を意味する。だから彼は諦めない、諦められない。それが天才の責任、である。
酒に呑まれてつまらないことを言ってしまった。
「よう頑張ってるよ。すごいわ」
竜胆は包み込むような声音でそう言ってくる。それに寄りかかるわけにはいかない。
「努力したところで、結果が出なければ意味がない。努力していないのと同じだ」
「確かに、努力したからいうて結果が出るとは限らん。でも、才くんが努力したことは事実やし、うちがそれに対してすごいと思うたことも事実や」
竜胆に頬を両手で包み込まれ、視線を合わさせられた。その言葉にも行動にも驚いたが、それよりも瞼が重く下りてきた。
「あんた、催眠の能力でもあるのか」
「あらへん。きっとお酒やね。才くんお酒飲んだら眠くなるタイプみたいやね」
「寝たら時間がもったいない」
そう言いながらも、才は眠気に抗えていない。促されるままに店の大きめのソファに腰を下ろした。
「人の姿をしてるんやから、真似事でもヒトの生活をした方が、動きやすくなるんやよ。年上からのアドバイス」
子どもをあやすように、頭をぽんぽんと撫でられた。才は竜胆の手を払いのけたが、うとうととしてしまう。
「うちはここにおるから、少し寝たらええよ」
「……ああ」
才は、電池が切れたかのようにソファに倒れ込んで眠った。
数時間後、目が覚めると頭がすっきりしたような気がした。睡眠にも一定の効果があるらしい。店を出ようとして、才は立ち止まって竜胆をじっと見た。
「眠りたくなったら、また来てもいいか」
「ええ、いつでもかましまへん。どうぞ、おこしやす」
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