第4話 小さな両手ー3(了)
淡雪にははっきりと聞こえないので分からないが、深呼吸をしているらしく、あさひの声が一度止んだ。
『ごめん、大丈夫。閉園した幼稚園から引き取った木馬があったよね。それがついさっき開化した』
「え、あれは開化まで半年以上あるんじゃなかったっけ」
『記録に誤差があったみたい。来週同じ種類の木材が届いてから正式な修理をする予定だったから修理が不完全なのと、開化のときにパニックになってあちこちぶつけちゃったらしいから、破損が大きい』
あさひの声は時々遠ざかっては、また戻ってきている。状況を誰かに、おそらくは院長に聞きながら通話をしているのだろう。
「分かった。すぐに戻る」
通話を切ろうとしたゆうひの右手を、淡雪が両手で掴んで待ったをかける。
「待って、その開化した子はどこにいるの?」
「あ、そうでした。あさひ、開化した付喪神は今どこに?」
『パニックになってそのまま病院を飛び出したらしいんだ。じっちゃんが、周囲を探してみてほしいって。特徴は、えっと、じっちゃんもう一回……』
一度声が離れていき、そしてまた戻ってきた。
『四歳くらいの男の子の見た目で、水色のボーダーのTシャツに短パン、紺色の。あとはキャップを被ってたらしい』
「分かった」
横で聞いていた淡雪も頷く。飛び出したのはついさっきだと言う。開化したてで道も分かっていないだろうから、そう遠くへは行っていないはず。じっと辺りに目を凝らす。
「淡雪さん、病院を出て右の道に走ったのを見た人がいるそうです」
引き続き通話をしているゆうひから、そう新たな情報がもたらされた。
「じゃあ、こっちの道まわってみましょう」
「はい」
角を曲がり、視線を左右にゆっくりと振りながら、しかし気持ち早足で歩く。右手には公園が見えてきた。公園入口あたり、男の子がきょろきょろと不安そうに行ったり来たりしているのが見えた。
紺色のショートパンツ、ボーダーのTシャツ。キャップは被っていないが、探している木馬の付喪神だろう。淡雪は驚かせないようにそっと近づき、声をかける。
「こんにちは」
「淡雪さん! 待って――」
後ろからゆうひの焦った声が聞こえたが、少し、遅かった。
「うぎゃああああああああああああ」
男の子は、悪夢に襲われたかのような、亡霊に手を掴まれたかのような悲鳴を上げて、淡雪の腕を引っ掻き、暴れ回った。その状態のまま公園内に突入した。石に躓いて転んだ。痛みで少し落ち着きを取り戻したらしく、ジャングルジムの中へ身を滑り込ませ、籠城の形を取った。
「淡雪さん、大丈夫ですか!?」
「ええ、大丈夫よ」
駆け寄ってきたゆうひに頷いて返し、まるで手負いの獣のようにこちらを威嚇してくる男の子に目を向けた。
「ついさっき、あさひから言われたんです。もしかしたら、木馬の付喪神は――大人を怖がっているんじゃないかって」
「大人を、ね。幼稚園の木馬だったらしいし、その推測は当たっていそうね。私を見て逃げたもの」
「すみません。もっと早く止められていれば」
「これくらいの傷なら問題ないわ。本部に帰ってすぐに修理治療するわ」
「でも……」
「今は、私よりももっとひどい怪我をしているあの子のことよ」
開化した途端、苦手な大人たちに囲まれた恐怖はどれほどのものだっただろう。何が何だか分からないまま、自分自身に傷を作りながら、必死の思いで逃げ出したのだろう。
パッと見て、打ち身と擦り傷、切り傷が多数。指を気にしているところから突き指の可能性もある。が、淡雪には治療どころか、近づくことも出来ない。
「どうしよう……淡雪さん、は危ないし、でも治療はあさひじゃないと……でも、早く治してあげないと」
ゆうひの足がおろおろと公園を出たり入ったり、せわしなく動いている。おそらく病院にいるあさひも同じような状況になっていると容易に想像出来る。治療が得意なあさひの目の前には破損がひどい木馬が、修理が得意なゆうひの目の前には怪我をした付喪神が。状況とそこにいるべき人物が逆である。
「どうすれば……。――!」
ゆうひがまた弾かれたように右手に手袋を付け、応答した。淡雪も耳を寄せる。
「あさひ、どうしよう。木馬の子は見つけたけど、淡雪さんじゃ治療出来ない……」
『こっちも、大人が怖いなら物そのものにも大人は近づかない方がいいって、じっちゃんが』
「ぼく急いで戻ろうか? あさひもこっちに」
『いや――つなごう』
「! 本気で言ってるの?」
あさひのつなぐ、という言葉には決意のようなものが宿っていて、それを聞いたゆうひの動揺もかなりのものだった。しかし、淡雪には何のことか検討が付かない。つなぐ、とはこの通話のことではないのか。
『木馬も、体も、早く処置をしないといけない。たぶんその子の体力が限界に近い』
「でも、今のぼくたちは逆」
『だから、つなぐんだ』
「……分かった。準備が出来次第、すぐに」
通話を切ったゆうひは、右手を自分の胸に当てて深呼吸をしている。そして、ジャングルジムに立て籠もる男の子においで、と手招きした。ゆうひが治療をする、ということだろう。淡雪は怖がらせないように距離を取った。男の子は警戒しながらもジャングルジムから出てきてくれた。ゆうひはベンチを指さして言った。
「怪我、痛いよね。手当してもいい?」
「……うん、いいよ」
あどけなく、こくりと男の子は頷いた。ベンチに座らせてから、ゆうひは淡雪に応急処置のセットを借りに来た。コンパクトなものはいつも持ち歩いている。砂時計も渡すか迷ったが、大人の気配のするものは念のため近づけない方がいいだろう。
「はい。焦らず、ゆっくりね」
「淡雪さん、ぼく頑張りますから」
ゆうひはぎゅっと唇を結んでそう言った。何かを決めたその表情に、少し肌がざわついた。
ベンチに駆け戻ったゆうひは、右手を電話の形にした。ここからではゆうひの声は聞こえても、向こうのあさひの声は聞こえない。
「あさひ、いいよ」
ゆうひは手袋をしたまま、胸の前で両手を合わせた。手の皺一つ一つをぴったり合わせるように、ぐっと力を込めて。
ほんの数秒。だが、ゆうひの周りの空気が変わったような、そんな気がする。
「じゃあ、治療していくね」
ゆうひが男の子の状態を見ながら、治療をしていく。男の子が一番気にしていた指はやはり突き指のようで、中指を人差し指と一緒に固定した。案外、落ち着いている。
しばらく治療の様子を窺っていた淡雪は、ほのかな違和感を覚えた。ゆうひの利き手ではない左手がテキパキと、まるで右手を誘導しているかのように動いているのだ。
その後も擦り傷や打撲への応急処置をこなしていく。一つ一つ、確かめるように慎重な手つきだが、危なげな様子はない。
「はい、終わったよ――」
応急処置が終わったその途端、ゆうひの体がぐらりと揺れた。地面に引きつけられるように、前に倒れていく。
「ゆうくん!」
思わず叫ぶと、ゆうひはわずかに肩をビクッとさせて意識を取り戻し、ベンチに腕をついてなんとか衝突は避けたようだった。
「ゆうくん、大丈夫?」
駆け寄ってゆうひの体を支える。弱々しく、それでも嬉しそうに笑ってみせた。
「あさひと、練習したんです。共有できる、ように、何度も」
「今は少し休んで」
ゆうひは頷いたそのまま気絶するように眠った。
後から聞いた話だが、あさひとゆうひは練習を重ね、あさひは左手、ゆうひは右手をそれぞれ相手に共有させることを習得したという。手が覚えている知識と技術を、相手にも。そうすることで、離れた所にいても、不得意な分野でも、対応することが可能になる。二人の能力である〈手をつなぐ〉をさらに高めた結果といえる。が、それはかなり負担が伴うものであった。
「おにいちゃん、どうしたの? 病気?」
治療を終えた木馬の男の子がおそるおそるそう淡雪に問いかけた。落ち着いたらしく、大人に対してパニック状態にはならないようだ。苦手意識が健在のようだが、それはこの子の性質なのだから仕方ない。
「大丈夫よ、眠っているだけ」
「じゃあ、目が覚めたらありがとうって伝えて、おにいちゃんに」
「ええ、分かったわ」
淡雪の腕の中で眠るゆうひが、この子にとってはヒーローのように映っているのだろう。ゆうひを見つめるキラキラした瞳を見せてあげたかった。
ふと、端末が音を発した。相手は院長。
「はい、淡雪です」
『あさひくんが修理を終えた途端、倒れてしまってのう。もしかしたらゆうひくんもと思ったんじゃ』
「ええ、ゆうくんもです。とても頑張って、疲れてしまったようです」
『そうか。木馬の子をスタッフに迎えに行かせよう。どこにおるかの』
「公園です、青空公園。あっくんは、本部に連絡して迎えを頼みます。私はこのままゆうくんを連れて戻りますね」
『うむ、承知した』
ゆうひをおんぶした状態で、本部への帰路につく。夕焼けが道を橙色に染め上げていて、とても綺麗だった。写真を撮ってゆうひにも見せてあげたい気持ちはあったが、今は両手が塞がれている。
「んんー」
背中でゆうひが身じろぐ声がした。
「起こしちゃったかしら」
「もっと、頑張ら、なきゃ……あんな思いは、もうしたく、ない、から」
寝言、だった。締め上げられるような、切実で苦しくなるような声音だった。
「…………ごめんなさい」
淡雪の声は橙色の道に落ちていった。
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