第4話 ひとまず記憶喪失のふりをすることにしました
咳をしてもひとり。いや、ほんとに一人だ。私。
部屋にぽつんと一人になって、とりあえず、この先どうするかを考えることにした。
私はこの世界のことを何も知らない。神を名乗るあの少年は、私がやっていたゲームによく似た世界なのだと言っていたけれど、ここはゲームの中ではない。だって、血の匂いがした。鉄の匂い。むせかえるような、血の赤。流れていく命の色。ああ、私、あれを見たのは初めてじゃなかったな……。
重く昏い記憶に落ちそうになったので、ぺちんと頬を叩いた。そしてサイドボードに置いてあった眼鏡を手にとって、かける。これはスイッチみたいなものだ。私が私であるというスイッチ。暗い記憶に落ちないようにするための、命綱。
(よくよく考えなくちゃ)
多分、直感を信じるならばウルフィーナさんとアルさんから敵意は感じなかった。私が何者なのかを詮索する気配もなかったし、ひとりでこの部屋に残してくれたところからもそういう気配はなんとなく分かる。
(これはやっぱり、あの手しかないかな)
記憶喪失、ということにする。何も知らない、という体で情報を集めて、これからの指針にする。
これしかない。
善良そうだったウルフィーナさんを騙すのは気が引けるけれど、それでも私はここで生きていかないといけない。我が儘を言うことにする。出来るだけ楽に生きるために。まぁ大体元々はのんびりと引きこもって生きていたんだし、楽をして生きたいという気持ちだけは他の追随を許さないくらいには持っているつもりだ。偉ぶれるところではないんだけど。
そう決めてしまえば、あとは気持ちが楽だ。どうせ何も知らないのは本当だし、変に偽ることもない。
「マーヤちゃん?」
こんこん、と扉がノックされた。外からウルフィーナさんの声がする。
「は、はいっ!」
「入っても大丈夫かしら?」
「はいっ! だ、だいじょぶ、でっすっ」
噛まないようには喋れたけれども、今度は声が最後裏返った。残念。
「今日はね、お豆のスープだったんだけど、食べられそうかしら?」
扉が開いてふわわっといい香りがして、私は思わず生唾をごくんと飲み込んだ。急にお腹が減ったことを意識した。きゅるるるぅ、とお腹が鳴る。この感覚は久しぶりだ。
「ふふ、おなかが先にお返事したわね。ベッドの上で食べられるようにしましょう」
部屋にあった小さなテーブルをベッドの横に寄せてくれて、私が起き上がるのを手伝ってくれる。ふわふわのお耳が私の鼻のかすめた時は、ちょっと触りたい気持ちが沸き上がって困ったけれど、不審な動きをするわけにはいかないので気合で封じ込めた。
「ふわぁ」
思わず、ものすごい気の抜けた声が出た。お豆のスープといって出されたそれは、見た感じどうやらトマトベースのスープっぽい茶色い液体の中にいろんな種類の豆が入っている。申し訳程度にベーコンとかも入っていて、質素な見た目のわりにものすごくいい匂いがする。
「いただきます」
見た目がちょっとアレだなーと思ったことはことにお詫びしたいと思います。噛みしめた瞬間、ベーコンの旨みと豆の甘みとトマトの酸味がほどよく合わさって口の中に広がる。ああ、あたたかいものを食べたのはいつぶりかなぁ。こればっかりだな。
「おいしいぃ」
思わず口からそう零れてしまって、落ちそうになった頬をスプーンを持っているのとは逆の左手で支えていると、はっと気づいた。そう。ウルフィーナさんの視線に!
「良かったわ」
ニコニコしてらっしゃる。なんていうか、すごく慈愛に満ちた微笑みをなさってらっしゃる。ううう。だって本当に美味しいんだもの。うまうま。すごくシンプルで塩の味と、あとは素材の味くらいしかしないんだけど、それがいい。おいしい。一生懸命食べていたら、何故かぽろりと涙がこぼれた。
「あれ?」
ぽろぽろぽろぽろ。涙がとまらない。おかしいな。何でだろう。
あったかいご飯、久しぶりだったから? 誰かがにこにこしながら食事をしているのを見ていてくれるから?
どうしてかな。どうして涙が止まらないのかな。
「大丈夫か?」
不意に男の人の声がして、現実に引き戻された。そうだ。今はここが現実。
固いベッドと薄い上掛けの布団。ほんの少しの塩味がするスープと、銀色の髪のイケメン。ん? イケメン?
「えっ?!」
「なんでスープ食べながら泣いてるんだ? まずかったのか?」
そう言って指先が頬に触れた。ごつごつした男の人の指先だ。驚いて、涙が止まった。しぱしぱと何度かまばたきをして、それからじっとその顔を見る。
「どうかしたか?」
「うちの宿屋の食事をまずいとは失礼ね。あなたの分、出さないわよ。アル」
ごちん、と音がして、彼は頭を抱えてうずくまった。どうやらウルフィーナさんの鉄拳が、その頭上に降り注いだらしい。
「だって、泣いてたから」
「本当に油断も隙も無い。いつの間にこの部屋に入ってきたの」
「え? ウル姉が中に入ってくる時にいっしょに来て、気配消してた」
……こわ。
「自己紹介まだしてなかったな、と思って。俺はアルフレッド。アルでいいよ」
「アルフレッド、サン」
声が固い。いや、イケメンの顔面の眩しさもどうでもよくなるくらい、この人、多分ひとの話聞かないタイプだ。そして私が一番苦手なタイプだ。
「君の名前を教えてほしい。命の恩人だ。ぜひ、恩を返したい」
「マーヤ、ト言イマス」
私の表情が硬くなっているのをウルフィーナさんはまじまじと眺めながら、アルさんの動向を警戒している。
「マーヤ! いい名前だ。君にぴったりだね。どこから来たんだい? あんな森の中にいるなんて」
「……分かりません」
そう。分からない。この世界のひとたちには。
「名前以外、何も思い出せなくて……」
ぐすっと鼻をすすって、握りしめていたスプーンを木製のトレイの上に置く。そっと、そのトレイをウルフィーナさんにお返ししながら、俯いて顔を隠す。おっ! 我ながら演技派では?!
「気付いたら、あそこにいて、血まみれのアルさんがいたので……」
そう言って、両手で顔を覆う。どうだ。この迫真の演技!
「なんてこと!」
返却されたトレイをテーブルに戻したウルフィーナさんはアルさんが何かしゃべるのよりも先に、私をぎゅむっと抱きしめてくれた。おおう。胸の弾力がすごい。
「……神の落とし子かと思ったんだけどな」
ぽつり、とアルさんがつぶやいた言葉は、私の耳を右から左に通り抜けてよく分からなかった。
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるウルフィーナさんの腕が存外あたたかくて心地よくて抜け出せなくなってしまった私は、見つめてくるアルさんの視線がなんとなく怖くて、見ないように目を瞑ったのだった。
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