ふたりの想い出
ふたりの想い出 12-1 きっかけ
世界は深く、夜闇に沈んでいた。天空にさんざめくように輝いているはずの星の
ここは魔の海域。昔、『三日月列島』へ向かう唯一の航路となっていたグリエフ海南東域である。
「生命を削るほどに無理はしない、そう約束してくれたのはいいが」
テロンは、安堵のため息とともに言葉を発した。
「
ウルルルゥゥゥルル。
彼の足下で、『
テロンの腕のなかで眠り続けるルシカは、彼への信頼ゆえに無防備であどけなく、幼い頃の記憶をよみがえらせる。
夜明けまではまだ時間がある。最愛の相手の寝顔を見つめながら、いつしか、テロンの想いは遥か過去に
ソサリア王国の王都、『千年王宮』の中庭。
母が好きだったという
「おうじさま。こんにちは」
声をかけてきたのは、三歳の女の子だ。お日さまに透けるとキラキラと光るやわらかな金の髪、あどけない笑顔。少々舌足らずながらも、発音はしっかりしている。
七歳の少年テロンは、薔薇のアーチのかかる通路の先からひょっこり出てきた女の子に、穏やかにあいさつを返した。
「こんにちは。フィーナは一緒じゃないの?」
「ママは、パパと、おしごとなの。おうじさまも、おなじなまえのおうじさま、いっしょじゃないの?」
テロンはたっぷり呼吸ふたつ分ほどかかって考え、笑いながら口を開いた。
「あのね、おうじさま、って名前じゃないんだよ。それだと、おなじ名前がふたりいることになっちゃう」
「みんな、おうじさまって呼んでる」
「ふふっ。それはね、違うんだよ。いや、違わないけど、うーん。なんて言ったらいいんだろ」
どう説明したらよいのか困ってしまい、テロンは疑問を吹き飛ばすように明るい声で言った。
「とにかく、おれのことはテロンって呼んで欲しいな」
「うん、わかった。テロン!」
内面から輝くような、可愛い笑顔。空に昇ったばかりの太陽を思い出させる、明るいオレンジ色の大きな瞳。人間族だけでなく、五種族すべての中でも大変に珍しい色彩なのだそうだ。
けれど、少年にとっては馴染みのある瞳の色だった。
「優しい色だ。ファルメスと同じだもの」
彼の話をいつも真剣に聴いてくれる、王宮の書記官長。小言ばかりで厳しい剣術の師範ルーファスや、礼儀にうるさい教育係メルエッタから、何度も何度もかばってくれた恩人。女の子は、その書記官長の娘なのである。
しかも、昔々、この国を救ったという偉大な大魔導士ヴァンドーナの孫娘なのだ。初めて見せてもらった赤子のときの印象から、すべてが彼にとって特別だった。
名は、ルシカ。愛らしい容姿は、彼女の母フィーナによく似ていたと思う。
テロンは、先王の時代から王宮に仕えている庭師バルバから聞いたことがあった。彼女の父ファルメスは、絵姿でしか母を知らず、その絵姿と瓜二つであった女性フィーナに運命を感じたのだと。どちらの女性も端正な顔立ちであっただけでなく、内面の優しさが微笑みとなって表面にもあらわれているという。
テロン自身も肖像画でしか母の顔を知らなかったので、その話をよく覚えていた。
ルシカも同じように、美しい娘に育つに違いない――過去を知るバルバはそう語りながら、双子の王子に本気なのかからかっているのかよく判らない視線を向けていたものだ。
「どちらか将来、嫁に迎えたらよろしいのでは? 魔導の血を伝える、由緒あるメローニ家の娘ですよ」
兄のクルーガーはいつも決まって、まるでおとなみたいに肩をすくめて答えるのだ。
「まだちびっこじゃないか。ヨメとか決めるのおかしいぞ。そうだよなァ、テロン?」
「え、あ、うん。……かな、もちろん」
兄の言葉に合わせて頷いてはみるものの、テロンの頬は熱くなってしまう。嫁、の意味は知っていた。父にとっての特別なひと、世界で一番大切な相手であった母の想い出話を聞かされていたから。嬉しそうな笑顔を見るだけで、幸せな気持ちになれる相手――目の前の女の子は、まさにそんな相手だったのである。
だからこの日、中庭で逢えたのは幸運だったとテロンは思った。
「おはな、きれいね。とっても大切にされてるんだね」
ルシカはとても嬉しそうに言って、くるりと体ごと回して周囲の薔薇たちを眺め渡した。あ、と思う間もなくコテンと転んでしまう。だが、テロンが助け起こすよりも早く立ち上がり、何かを見つけたときのように勢いよく駆け出してしまう。
広く入り組んだ薔薇の園の、さらに奥へ。
「あんまり先に行っちゃ駄目だよ。
外とまったく隔離されている訳ではないから、昆虫も鳥も多くいる。外敵から護られている王宮内とはいえ、気をつけたほうがいい。植物の葉の作り出す陰に消えてしまいそうな後ろ姿を追い、テロンは慌てて走り出した。
「テロン、こっち、すごいの!」
魔導士には、日常的に
中庭の最奥で、不可思議な事象が起こりつつあったことに。
常日頃からルーファスに鍛えられていたおかげで、出遅れたとはいえ、自分より幼い子どもの足に追い付くのは簡単だった。さまざまな色彩のあふれる薔薇の園の奥には、明るい場所を駆け抜けてきた目には少々薄暗く沈んでみえる一角が隠されていた。
狭くもなく、広くもない空間だ。光あふれる白亜の『千年王宮』にはそぐわない、いわば
テロンは驚いた。普段からよく知っていると思っていた中庭に、こんな場所が存在していたとは。
「ここは――何も植えられてない花壇だね。黒っぽい土ばかりだ」
花壇として整えられ、花を咲かせようと試みられた形跡はある。けれど、固く乾いたように変色した土には、花の芽どころか雑草の一本も生えてはいない。
「なんだか、首筋がゾワゾワする。わかんないけど、はなれたほうがいいと思う」
本能的な危険を感じ、テロンはルシカの手を掴んで戻ろうとした。
「なにかいるの、あそこ」
するりと手を解いたルシカがトトッと走っていって、何も植えられていない花壇の傍にしゃがみ込んだ。珍しい昆虫でもいるのだろうか。
ちょっと付き合ってあげて、すぐに戻ろう――テロンがそう思い、小さな背に向けて一歩近づいたときだ。気味の悪い地響きとともにくぐもった音を立て、花壇の土が信じられぬほどの勢いで盛り上がった……!
「あぶない!」
花壇いっぱいに出現した『それ』は、身を乗り出していた小さな体ごと一気に宙へ弾き上げた。テロンは咄嗟に腕を伸ばし、見定めた落下地点に向けてダッシュした。
彼の腕は成長期ゆえにまだまだ細く、支えきれなかった。降ってきたルシカを全身で受け止め、尻餅をついてしまう。
だが、それで終わりではなかった。ふたりの上にのしかかってくるかのような、すさまじい圧迫感。
「え……うわッ!」
現れたものが倒れ込んできたのだ。危ういところで真横に転がり、逃れる。幼女のやわらかい頭部を抱え込んでかばうのが精一杯だった。視界がめまぐるしく変わり、腕や脚を鋭い痛みが襲う。低木の根元に突っ込み、ようやく身体の回転が止まった。
「な、なにがいったい。ルシカ、だいじょうぶ?」
返事がない。気を失ったのだろうか。だが、腕のなかの彼女の無事を確かめる余裕はなかった。たった今ふたりに向かって倒れ込んできた巨大な何かが、ずるりと向きを変え、凄まじい勢いで突っ込んできたのだ!
眼前に迫る口蓋に、ずらりと並ぶ無数の牙歯。馬車もすっぽりと入るほどの大きさに広がった。血色の闇の奥底に、揺れる
「ミミズ……でもまさか、こんな……?」
テロンは呆気に取られ、悪い夢でも見ているのだろうかと一瞬、考えた。けれど腕のなかの温もりと重み、そして視界いっぱいに迫る頭部と口蓋の生々しさが否定する。これは現実だ……呑まれる!
「うわああぁぁぁあッ」
自身の喉から発せられた拒絶の叫び声とともに、テロンの意識は暗転した。
時間にして、それほど経ってはいない――テロンは目を開いた。
周囲はひどく暗かった。空も地面も塗り込めたように真っ黒で、何も見えない。けれど、温かいものが自分の上に載っているのがわかる。やわらかな感触、花のような甘いにおい……ぼんやりとしていたテロンの意識がふいに覚醒した。腕に抱いているのはルシカだ。
「ね、ルシカ。だいじょうぶ……?」
「……ん、うぅん? テロン……?」
「そばにいるよ。ケガは、痛いところはない?」
「うん。……まっくら」
体がぴたりと触れ合っているはずなのに、ルシカの顔すら見えなかった。首にかかるくすぐったい吐息、はっきりと感じられる鼓動――彼女は無事だ。声の調子からして、たいしたケガもないようだ。テロンはホッと息を吐いた。
「ここはどこだろう。中庭じゃないみたいだ」
空気はよどんでいなかったが、ひどく重かった。背に当たっている地面からは奇妙な振動が伝わってくる。
ふわふわとやわらかいものがテロンの頬に当たった。ルシカの髪だ――おそらく周囲を見回したのだろう。魔導士の血を継承している者は、魔力そのものを見ることができるというから、テロンには見えないものが見えたのかもしれない。
「あ……」
「どうしたの?」
「うん、あのね……ぐるっとまわりに、いっぱいいるみたい」
戸惑いと恐怖がにじんだ声で、ルシカが言った。けれどなんだか好奇心でワクワクしているような気もする。幼すぎて危険な状況を分かっていないのかもしれない。
テロンは気を引き締めた。素早く起きあがる。
「さっきのミミズがいるの? 大きい?」
ルシカの小さな体を左腕で引き寄せるようにして支えながら、右手を前へ突き出すようにして構える。せめて、ルーファスとの稽古で使う剣が今ここにあればいいのにと切に願ってしまう。
「どこだ。見えない……」
ならば、音と気配を感じ取るしかない――テロンは深く息を吸い込んだ。ゆっくりと吐きながら、ドキドキとうるさく鳴っていた自分の鼓動をなだめる。
ガリッと割れ砕かれる大地の悲鳴、ぎちぎちと革同士がこすれるような異音。ひとつやふたつではない。破砕音とともに近くに出現した気配にルシカがビクリと反応した。同時にテロンは彼女をかばいながら素早く位置を移動した。
すさまじい風圧とともに、固いものが二の腕を掠める。衣服が裂かれ、鋭い痛みが生じる。直後、地面を
痛みをこらえながらルシカの肩を支え、襲われた場所から距離を開ける。乱れる呼吸を整えながら周囲を見回すと、ぼんやりと見えるようになっていた。暗さに目が慣れてくれたのはありがたかったが、おかげでとんでもない危機的状況に陥っていることがわかった。
「さっきのミミズみたいなやつが……すごい数だ。大きさはそれほどでもない……けど」
なだめていた鼓動が再び激しくなる。ふいに引っ張られ、ガクン、と視界がぶれた。ルシカがつまずいたのだ。テロンが支えていたので転びはしなかったが、驚いたことで張り詰めていた気持ちが切れたのだろう、ルシカは喉をひきつらせたようにしゃくりあげた。
「ママ、パパ……!」
「泣かないで! だいじょうぶ、ちゃんと帰してあげるから」
はっきりとささやかれた彼の言葉に、ルシカの呼吸が落ち着いたものに変わる。次いで、手をぎゅっと握られた。温かい体温とともに彼に向けた信頼が伝わってくる気がして、テロンは胸の内が熱くなるのを感じた。怖がっていてはだめだ、しっかりしなければ――小さな手を握り返しながら、少年は覚悟を決めた。
「よし。今はとにかく、安全だと思える場所までいこう」
「うん」
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