双つの都 10-43 織り成された虹

「これは、いったい……?」


 闘いの場を迂回してたどり着いた先で、トルテは眼前にある物体を呆然と見つめていた。


 重苦しい気配を感じる。吸い込んだ大気はひどく冷たく、視界の閉ざされた背後から伝わってくる凄まじい闘いの振動が背筋を震わせ、どきどきと鼓動が早まってくる。


 胸に生じた圧力の原因がなんであるのか、トルテには皆目見当がつかなかった。だが少なくとも、目の前にある球体に理由があるのは明白だ。


「まだわからないわ。でも、結晶の魔力マナの流れがこの球体を中心に構成されているみたいだから……。これがレヴィアタンにとって大事なものであることに間違いはなさそうだけれど」


 トルテのつぶやきを、問われたものと思ったのだろう、ルシカが肩ごしに振り返るようにして彼女に答えた。


 球体はいまだ結晶の内に包まれていたが、隣接している周囲の結晶には大きくひび割れている箇所がある。ルシカはその部分に触れて慎重に指先をすべらせ、小さな魔法陣を表面に描いた。


 パンッ、という破裂音と同時に結晶が剥がれ落ち、球体の一部が露出する。球体の表面には傷ひとつない。


 トルテは目を見張った。


 破壊や攻撃のための魔法は、力加減がとてつもなく難しい。例えば、魔法で金属を溶かし柱を断ち切ることは出来ても、美しい細工物や彫刻を作り出すことはできない。それと同じで必要な部分に必要な分だけの魔力を集め、望みどおりの事象を具現化することは、魔術師など常人には不可能に近いことなのだ。


 もし可能とするものが存在するならば、それは自身の意志の力によって魔導の技そのものを変容させ、膨大な知識と叡智によって万物の流れを視識みしることで魔力を操ることができる者、魔導士をおいて他にない。


 ただでさえ御しにくい魔力マナを目の前でかくも自在に操ってみせる母。トルテが見てきた限りずっとルシカは優れた魔導の遣い手であり先達せんだつであり、あこがれそのものであった。


 自分も成長すれば、年月を重ねれば、母のような熟練者になれる――漠然とそう思っていたトルテであったが、目の前の歳若い母はすでに手も届かぬほどの高みに存在しているように思えた。


 どうしてこの幻精界に居るのだろう。いったい何が……あったのだろう。


「あ、あの……」


 トルテがおずおずと声を掛けようとしたそのとき。球面に触れ、深く瞑目していたルシカが、ふいに顔をあげた。


「……ここに凄まじい魔力が集められた訳が、わかった気がするわ」


「え?」


 別のことを訊こうとしていたトルテは、ルシカの言葉の意味をすぐに理解することができなかった。ぱちぱちとまばたきをして、ようやく我に返る。そう、今はそれどころではない状況なのだ。トルテは素早く深呼吸をひとつして、なんとか気持ちを切り替えた。


「あ、えと……レヴィアタンがこの場所に魔力をとどめている原因が、その球体なのですか」


「あたしはそう思うわ。蓋をされてこの地下にとどめられた魔力が、この球体に注がれるようになっているの。これは……そっか、この物体は『卵』なのかもしれない。ほとんど生命の気配が感じられないけれど……」


「たま……ご? もしかして、レヴィアタンの卵だというのですか?」


 ルシカはもう一度、瞑目するように球体に額を寄せて目蓋を閉じ、内部を探ろうとしているように息をひそめた。ふた呼吸ほどで目を開き、トルテに向けて口を開いた。


「ええ。これはあたしの想像だけど……レヴィアタンはこの卵を孵化させようとして、魔力を集めて増幅させるための力場を造ったんじゃないかしら。『巣』みたいなものかな……あたしたちの常識では考えられないほど大きな規模だけれど」


「巣……?」


 トルテは目を見開いた。ここへ到達する直前、トルテ自身がリューナに向けて語ったことと同じだったからだ。


 脳裏に浮かぶのは、遥かな未来――実現せずに崩れ去ってしまった時代ではあったが、そこで古代龍が築いていた『夢幻の城』とその背後にあった巨大な結晶体が屹立していた、あの光景だ。色も形状も異なってはいるけれど、全体から受ける印象が古代龍の作っていた結晶体とよく似ている。


 彼女が考えを巡らせている間にも、ルシカの言葉は続いていた。


「そう考えた根拠はあるの。かつて始原世界にあふれるほど存在していた魔力マナは、様々な生物が爆発的に増えたとき、その濃さと量を大きく減じた――そんな仮説を唱えた生物考古学者の魔導士がいたのよ」


 ルシカはオレンジ色の瞳を狭めて遠くを見つめる眼差しになりながら、頭のなかの記憶を探るように説明を続けた。


「グローヴァー魔法王国中期に名を残したリフティアという魔導士の論文によれば、それまで繁栄していた大型の生物たちの存続が危ういものになったらしいわ。万物の源である魔力マナが減ったことで身体を保つことができなくなり、新しい生命の誕生すら叶わなくなった……伝説に残っている始原の生物たちが地上から消えてしまったことへの有力な仮説のひとつね」


 話すうちに、ルシカの声の調子は落ち着いたものに変わっていた。やはり母は、知的好奇心に衝かれているときには、他の雑多なことが見えなくなる傾向にあるようだ。それが原因でつまずいたり転んだり、道を間違えて迷子になったりすることもあるが、これは好影響のほうだろう。


「絶滅への道をたどることになった始原の生物たち……現生界ではその運命から逃れるすべはなかった。生命を維持することができなくなってたおれてしまったものがほとんどで、生き残ったものたちも永く深い眠りについた――そう書かれていたけれど」


「それであのレヴィアタンは、この幻精界にのがれてきたのでしょうか」


「きっとそうなんだわ。ここならもともと存在している魔力もあたしたちの現生界よりも遥かに多いし、時間的な滅びの概念とは無縁であるから。これだけ魔力を必要とするなら、現生界では存続が叶わなかったのも無理ないことなのかも知れない」


「それでこちらの世界に渡ってきたのでしょうか」


「そうね。でも……レヴィアタンは離れた場所で眠っていたとあたしたちは聞いていた。それが今になって眠りから覚めた理由がわからないわ」


「無理矢理、眠りから起こされてしまった可能性はありますか?」


「誰かが……あるいは何かが目的をもって、ということ?」


「はい。思い当たることはあるんです」


 トルテは、いつの間にかぎゅっと胸の前で握りしめていたこぶしを解き、背筋を伸ばして言葉を続けた。


「おか……ルシカさんなら知っていますよね。『封魔結晶ふうまけしょう』という品があることを。普通は幻獣や魔神を封じ、呼び出して意のままに操ることのできる魔道具マジックアイテムですけど、確かひいおじ……いえ、先々王の時代にあった戦争で使われたもののなかには、魔獣を封じ込めることのできる特殊なものもあったとか」


「あったらしいわね。戦時中の記録がほとんど焼かれてしまっていたから詳細なことまではわからないけれど、当時魔導士として生きていたあたしの祖父や祖母とは別の魔導士が作り出したものらしいの。それがもとで取り返しのつかない悲劇が起こって、ラシエト聖王国は今でも魔導そのものを憎んでいる。でも、そのことがどうして――」


 ルシカはそこまで言葉を続けたあと、はっと息を呑んだ。


「ここでその品が使われた可能性があるというのね」


 トルテは頷いた。やはり母の理解力と洞察力はさすがといえる。話が早い。


「この幻精界がこんなふうに変わってしまう前は、『光の都トゥーリエ』と『影の都ランティエ』が天と地を繋いだひとつの場所に存在していたそうです。その『双つの都』の中心にあったアウラセンタリアの地は厳重に監視されて維持されていたのだと、『影の都』の統治者のひとに聞きました」


「レヴィアタンは都から離れた場所で眠っていた……アウラセンタリアの地にもともと居た訳ではなかった。誰かがレヴィアタンを『封魔結晶』の中へ隠して運び込んだ――あなたはそう考えているのね」


「はい」


 トルテは、自分を見つめる真っ直ぐなオレンジ色の眼差しから視線を逸らさないよう瞳に力を籠め、言葉を続けた。


「護られていたはずのアウラセンタリアの地に、その特殊な『封魔結晶』を使ってレヴィアタンを持ち込んだひと――。ここまで来る前に、そのひとはあたしたちを狙って攻撃を仕掛けてきたんです」


 ルシカが驚いたように息を呑んだ。次いで表情を引きしめ、「ではまさか、この気配……」とつぶやきながら頭上を振り仰ぐ。


「そのひとは警備する側のひとみたいでしたけれど、都の体制に不満を募らせていたか、この世界そのものに恨みを持っていたのかも知れません。手にしていた武器が普通じゃなくて――」


 トルテがそこまで語ったとき、ドクンと心臓が鳴った。背後の高みから凄まじい敵意が自分たちに向けられていることに、今さらながらに気づく。


「……え?」


 振り返ろうとしたときにはすでに、視界のほとんどが黒の光に染め上げられていた。


 避けることもできぬほどの至近距離。バチバチと爆ぜる雷電が、襲い掛かってくる数百の毒蛇のようにせまる。時が歩みを狂わせ、黒い嵐の中心から突き出した矢の先端までもがはっきりと瞳に映った。


 死、そのものの気配。まごうことなき破壊の力――。トルテはせめて母を護ろうと両腕を広げ、その場に立ちはだかろうとした。


 そのときトルテの横を、ふわりと金色の髪がやわらかな風のようにすり抜けた。


 ルシカだ。トルテの前に踏み出した彼女は、素早く腕をほぼ真上へと突き出していた。一瞬で展開されたのは、煌めく『完全魔法防御パーフェクトバリア』の魔法陣。


 ズンッ!! 凄まじい衝撃が周囲を圧し、渦を巻いた。


 『黒雷矢』の攻撃を、魔法障壁が受け止めたのだ。残る禍々しい雷の断片は、同時に繰り出されていた『衝撃波』によって完全に吹き散らされている。


「ルシカ!」


 地響きを立てるレヴィアタンの首上から、テロンの声が発せられた。妻たちの危機を察した彼が『衝撃波』で援護したのだ。


「真の敵がいるわ! 『無の女神』ハーデロスの力を感じる。おそらくは矢そのものが鍵だわ!」


「ハーデロスだって!?」


 テロンの声音が変わった。


 いつも穏やかな父からは想像できなかったほどの激しい怒りが含まれているのを感じ、トルテは驚いて頭上を振り仰いだ。


「トルテ! 無事かッ?」


 どこからかリューナの声が聞こえた。周囲は砕けた破片や土煙のようなもやで視界が利かず、彼がどこに居るのかは見当もつかない。


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