双つの都 10-41 護るべきもの
まるで青と赤に染められた無限回廊を突き進んでいるかのようだ。この世界に転移してから現実感とは無縁だったが、さらに目を疑わんばかりの光景がテロンの目に次々と飛び込んでくる。
切り立った壁面は大陸中央フェンリル山脈の北壁ソルナーンもかくやと思わせるほどに堂々と
テロンは腕のなかに抱きかかえたルシカの導きに従い、奥へ奥へと向かって駆け続けていた。どこか深い場所から轟き渡ってくる大滝か、炎が激しく燃え盛っているかのような音が常に大地を揺るがし、足をつけて進むしかない者たちをひどく不安にさせる。
「信じられねぇ光景だぜ。まるで結晶の標本のなかに、自分が小さくなって紛れ込んじまったみたいだ」
彼らと並んで走りながら、リューナという名の青年が感想を述べた。確かに、鉱石サンプルを集めて作った箱庭にでも放り込まれたかのような印象だ。
彼は背に連れである幼女を背負い、トルテという名の少女の手をひいている。息も乱さず駆けるその体力と健脚、息の継ぎ方と筋力の確かさ、何より身に纏う気配が、闘いに慣れた者であることを雄弁に語っている。
何者なのか。どこまで信用できる者なのか。
テロンは慎重な性分だ。今はルシカの魔力も気力も、体力すらも、生命そのものが危険なほどに消耗された状態である。無益な争いをする余裕はない。だが、彼ら自身が語ったように敵ではなく味方ならば、頼もしい戦力になってくれるのならば――。
「テロン」
呼びかけられた彼はハッと我に返り、腕のなかのルシカと眼を合わせた。
懸念がまたしても顔に出てしまったのだろうか。いや、妻である彼女は、パートナーである彼の想いをどんなときでも正しく見通してくれているのだろう。
ルシカは口もとだけを微笑ませ、真剣な瞳で真っ直ぐにテロンを見上げたまま、しっかりと頷いてみせた。
彼らのことを心配する必要はない、ということか。そう理解したテロンは同じように頷きを返し、また視線を前に戻して走り続けた。今は彼らのことを信じて、目の前の脅威を取り除くことに専念すればいい――言葉はなくとも、ルシカがそう言っているのだと理解する。
「地中の
青年に手を引かれている少女が、首だけをこちらに向けて訊いてきた。少し息を乱しているが、まだまだ余裕がありそうだ。細く小柄な見掛けよりずいぶんと元気があるらしい。丁寧だがはっきりとした物言いと、少々緩慢ではあるが優雅ともいえる所作には、隠しようのない育ちの良さが現れている。
何より目を惹くオレンジ色の大きな瞳は、何故か出逢ったときから幾度となくテロンたちにちらちらと向けられていた。ずいぶんと心配そうな顔をしているのが気になるが……。魔導士であるということもあるのだろうか、ルシカに雰囲気がとてもよく似ている気がする。
少女の問いには、ルシカが答えた。
「
「はい」
トルテの素直な返事に、リューナの切羽詰まったような大声が被さった。
「なッ! そんな簡単にいくとは思えねぇ……思えません! 俺にだって、この下にすっげぇ膨大な魔力の渦が溜まっているのを感じるんだ。いくら宮廷魔導士とはいっても、無茶苦茶ですよ! それでもしあなたやトルテに何かあったら――」
「簡単ではないわ。でも果たさなければ、この世界が終わってしまう」
青年の懸念を、ルシカ自身が遮った。事実だけを述べるときのような静かな声で、淡々と言葉を続ける。
「魔力のコントロールはあたしがするわ。この下に溜まった膨大な魔力を開放すれば、爆発的な勢いになる。純粋な魔力そのもので構成されている世界は崩れ去り、幻獣たちは死を免れない。幻精界だけではないわ。あたしたちの現生界までもが壊滅的な影響を被るでしょう。でも、そうはさせない」
最後の言葉の強さは、言い募ろうとしたリューナが息を呑んでしまうほどであった。
その想いの強さと覚悟の理由を、テロンは知っている。彼女は生まれたばかりの娘がこれから歩んでいく世界を何としても守り抜くつもりなのだ。
「ひとりでは危険です! 魔力のコントロールでしたら、あたしも一緒に――」
トルテが駆け走りながらも、つんのめるように悲痛な声を発したときだ。
ズズズズズズ……! かなり離れた場所から、不安を駆り立てるような衝撃と地響きが伝わってきた。レヴィアタンが『月狼王』を相手に暴れているのだろう。結晶丘のひとつが崩れ去ったのかもしれない。
スマイリーと呼ばれた『月狼王』は、ここから離れた場所を逃げ回りながらレヴィアタンの関心を惹きつけているとのことだ。けれど、いつまでもつのか。始原の魔獣と少女たちの友である幻獣の体格差は、比べ物にならないほど歴然としていた。獣が羽虫を追いかけているようなものだ。
「……スマイリー」
祈るように案ずるように、トルテがつぶやく。
「見えたわ、あそこよ!」
腕を伸ばし、ルシカが叫んだ。彼女の指が指し示していたのは、まるで記念碑か何かのように真っ直ぐにそそり立った結晶の塔であった。真っ赤な輝きが下から燦然と空間を染めあげ、周囲の影を完全に奪い去っている。
結晶塔の周囲は、『
その広場に踏み込んで足元を見ると、下から照らされる光のあまりの強さに結晶本来の色が失せ、不気味なほどに強烈な真紅の光ばかりが透かし見えていた。まるで煮えたぎる溶岩の火口の真上に立っているかのような錯覚に陥ってしまう。
下は巨大な地下空洞になっているらしい。そこに渦巻いている魔力の膨大さに圧倒され、魔導士たちは息を呑んで硬直した。
魔導に疎いテロンにも、常軌を逸した量のエネルギーが大地の下に封じ込められているのが理解できた。背筋を冷たいものが駆け抜ける。今にも足元が爆ぜ割れて爆発し、噴き上がってきた光の奔流に呑み込まれてしまいそうだ……思わずテロンは腕の中のルシカを見つめた。
これほどまでに破滅的な状況に、ルシカが挑むというのか? ルシカは神ではない、魔導士である以外は皆と同じ人間だというのに?
扱う魔力の限界を超えることは
「……ルシカ……」
渦巻いている魔力の状況を確かめていたルシカが、テロンの視線に気づいた。夫の頬に手を添え、「信じていて」と囁きながらにっこり微笑む。この上もなく優しい笑顔だった。
リューナの背から降ろされた幼女は、
「すごい……見てるだけで、溶けちゃいそう……」
リューナはかがみこみ、ナルニエと目の高さを合わせて小さな頭をぐりぐりと撫でた。幼女の不安そうな瞳に、ニッと笑って口を開く。
「ナル、ここからは俺たちがやる。どっか分厚い結晶の壁の背後にでも隠れていろ。――おい、ピュイ!」
リューナは後方からようやく追いついてきた子龍に幼女を託した。
「いいかピュイ。なんかあったら声をあげて俺たちに聞こえるくらいの位置にいろ。安全に隠れているんだぞ。もし地面が割れたり抜けるようなことがあったら、ナルを抱えて空中に飛んでやってくれ。それくらいはできるだろ」
当たり前だ、とでも言うように子龍は反り返るようにして胸を張った。トン、と自らの腹を叩いてみせる。「叩くならそこじゃないだろ」とすかさずリューナがツッコミを入れ、トルテがくすりと微笑んだ。
テロンはその光景を見てルシカと目を合わせ、頷きあった。確かに彼らなら大丈夫だろう。自分たちは為すべきことを完遂するまでだ。テロンは刹那、思いを込めて妻を抱きしめた。
「無理はするな、ルシカ」
「テロン、あなたも」
ルシカはテロンの腕から結晶の地面に降り立った。深く瞑目する。魔導行使のため、精神集中を始めたのだ。
その様子に気づいたトルテとリューナも彼女に
テロンは二歩だけ後方へ下がり、魔導士たちの様子を見守った。
「まずは目の前の結晶を破壊するわ。結晶はかなりの厚さだから、すぐには壊れない。連続で破壊の魔導をぶつけましょう。亀裂を生じて弱くなった部分を探りながら、そこへ攻撃を集中させていきます」
ルシカの凛とした声が響き渡る。
「魔力の渦が露出したら、あたしが
それぞれが腕を振り上げ、虚空へと滑らせる。ルシカは片足を軸に細やかな体を回し、両の腕で次々と魔法陣を描き出していった。
リューナとトルテが感嘆の表情で目を見張るように彼女の動きを追ったが、すぐに自分たちの魔法に集中を戻した。
トルテという少女の描き出した魔法陣は、ルシカの魔導の技を見慣れているテロンにも見覚えのあるものではなかった。虹色の魔導の光が描き出したのは、まるで魔法陣が幾重にも重ねられたかのように複雑で立体的な光の紋様――。
次の瞬間、テロンは具現化された魔導士たちの魔法に驚嘆した。
「なんという光景だ……!」
まるで低い位置で数十の花火が咲き開いたかのごとく豪華絢爛な光の紋様、そして耳を
類稀なる魔導の技による、魔法陣の複数同時展開だ。
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