双つの都 10-40 護るべきもの

 彼の腕は赤に染まっていた。腕だけではない、脇腹や首、脚も。先ほどの破片の雨から仲間たちを守ろうとして魔導の力を発動させたが、自分自身は大変な怪我を負ってしまったらしい。


 傷ついたもう一方の腕にナルニエを抱え、ぐるぐると目を回してしまったピュイが彼の傍に浮いている。いや、彼らとともに落ちているのだった。


 トルテは蒼白になった。時が歩みを遅くしたように彼女には感じられた。


 赤い光を放つ大地は遥か下にある。『浮遊レビテーション』の魔導か、『治癒ヒーリング』か、他に必要なものは――トルテは咄嗟の判断を迷った。魔導の技は一瞬で魔法陣を構築する。ただし、相応の精神集中と心構えが必要になる。


 トルテの魔導の名は『にじ』――必要に合わせた複数の魔法を重ね合わせて行使することができる力だ。けれど、ソサリア王国の誇る大陸最強の宮廷魔導士ルシカそのひとのように、複数の魔法陣を同時展開できるわけではない。


 一瞬の迷いが命取りになる。それはトルテが常におそれていたことだった。


「リューナ――」


 そうだ、まず彼らの落下を止めなければ。複数の相手を対象とするには、『遠隔操作テレキネシス』は不向きだ。トルテはなんとか腕先を動かして魔法陣を紡ごうとした。間に合わないかもしれないというヒヤリとした考えが彼女の胸を突き上げる。


 涙のにじむ視界のなか、トルテが『浮遊レビテーション』の魔導を行使しようとしたそのとき、やわらかな衝撃に包まれた。落下したときのものではない。ひと呼吸遅れて、空中で誰かの腕にすくい上げられたのだと理解する。


 トルテは目を見開いた。視界に飛び込んできたのは懐かしい父の顔――現生界のソサリア王宮に居るはずの彼女の父、テロン・トル・ソサリアそのひとであった。


 驚きのあまりトルテは叫ぶことも忘れ、呆けたように父の顔を見つめた。


 秋空のように涼やかに澄んだ青色の瞳。意志の強そうな口もとは迷いなく引き締められている。鍛えられて鋼の強靭さとしなやかさをもつ腕は、包まれているだけで彼女にこの上ない安心感を与えてくれる。


 幼少の頃にはどんなに泣いていても、父の腕に抱き上げられれば必ず泣きやんでいたと母から聞かされていた。


「テ――」


 危ういところでトルテは言葉を呑み込んだ。呼び掛けられたと思ったのか、父はちらりとトルテに目を遣ったが、すぐにまた視線を前方に戻した。


 テロンは結晶の壁の傾斜を次々と蹴って落下速度を緩めたあと、彼女を抱えたまま危なげなく地面に降り立った。


「リューナ、ピュイ、ナルちゃん!」


 トルテは急ぎ顔を上げ、彼らの姿を探そうとした。


 その必要はなかった。リューナたちは強大な魔導の輝きに包まれ、安全に地上に降ろされるところであった。『浮遊レビテーション』の魔法による力場が、彼らを取り巻くように光り輝いて見える。仲間たちの無事を確認し、トルテはホッと胸を撫で下ろした。


「怪我はないか」


 問われた父の声に視線を向けると、いつもと変わらぬ穏やかな眼差しがあった。だが、トルテは気づいた。目の前の父には決定的な違和感があったのだ。歳が――若すぎる!


 ぽかんと呆けたように目を見開き、問われても反応を見せなかった彼女を心配したのだろう、父がもう一度同じ言葉を発しようとして口を開きかける。


「あ、あの――」


「トルテ! 無事だったんだな、良かった。それにしてもいまの魔法、いったい誰が」


 着地すると同時に彼女に向けて走り寄ってきたリューナは、幼なじみの傍に立つ丈高い男を見上げ……「あ」というかたちに口を開いた。


 リューナはたっぷり五呼吸分ほど動きを止め、相手を見つめていた。さらにその背後から歩み寄ってきた女性を目にしたことで、完全に固まってしまう。


 小柄で細やかな姿、肩をふわりと覆うやわらかそうな金色の髪、すべらかな肌、そして明るく快活そうなオレンジ色の瞳。そしてなにより、まばゆいほどに光り輝く魔力の内なる流れと、濃い魔導の気配。


 万能魔導の遣い手である『万色』の魔導士ルシカ、そのひとであった。ただし、父であるはずのテロンと同様、かなり若い印象だ。魔導士としての先達であるトルテの母の、自信にあふれた落ち着きのある面差しとはまるで違う。


 女性はさっと片腕を宙に滑らせた。白い魔導の輝きが煌き、一番の重傷者であったリューナを含めた全員の傷が、心地良いぬくもりとともに癒されてゆく。


 描かれた魔法陣の美しさと正確さ、無駄のない動きと確実な魔法効果。歳若くとも相当な実力を有していることが、トルテにもはっきりとわかった。


 凄い――トルテはごくりと唾を呑んだ。憧れと焦燥というふたつの感情に引き裂かれてしまいそうになる。


 トルテとリューナは驚きのあまり呆然と動きを止めていたが、父と母も目を見張るようにして魔導士の少女と青年、そして幼女と子龍の一行を見つめていた。特に注視されていたのは、父譲りのクセのないまっすぐな金髪、母譲りの魔導の力を宿した稀有なる色彩の瞳――他でもないトルテであった。


「あなたたちはいったい――」


 ルシカのつぶやきは、ここに集った全員の疑問を代表したものであったように、トルテには感じられた。





 テロンはルシカと顔を見合わせた。口にせずとも、疑問は互いに同じであることがわかる。


 魔導を宿している瞳にオレンジ色の虹彩をもつのは現在、ルシカだけであったはずだ。いや――テロンは自身の考えをすぐに改めた。生まれてきた彼らの娘が、ルシカの瞳の色を受け継いでいるのであった。


 魔導の血とともに受け継がれてゆくというのならば、目の前の少女は遠い血縁なのかも知れない。そう考えれば、面差しがルシカと似ているのも頷ける気がした。


 ルシカが先ほど示唆したとおり彼らが魔導士であるのならば、考えられぬ可能性ではないだろうとも思われた。相当の実力をもつ魔導士のはずである。テロンとルシカが対峙していたレヴィアタンは攻撃の対象を新たに現れた気配に転じ、彼らの眼前から移動したのだから。まるで、彼らより警戒すべき敵が現れたかのようにあっさりと。


 移動したレヴィアタンを追いかけた彼らが見たのは、月狼の上位種である『月狼王』のしなやかな体躯と恐るべき跳躍力、そして敏捷な動きであった。


 確かに強敵であると判断されたかもしれなかった。さらに、上位幻獣の背に乗っていたのが、現生界では数えるほどしか存在していないはずの魔導士がふたりという驚異的な一行であるからだ。


「ね、あなたたち、だいじょうぶ?」


 突っ立ったまま動きを止めていた彼らに、ルシカの心配そうな声が掛けられた。まるで金縛りでも解けたかのように、金色の髪をツインテールに結い上げている少女のほうがビクリと反応する。


「お、おか――」


 少女が急き込むように何かを言いかけたとき、傍らに立っていた黒髪の青年が疾風のように動いた。少女の口を手のひらで覆い、言葉を止めたのだ。


 テロンとルシカは驚いて青年を見つめた。いかにも歳相応の、元気がありあまっていそうな様子、けれど若さだけでは語れぬような芯の強さを眼差しに感じる。


 ふたりが身に纏っている長旅向きの衣服は質が良く、テロンたちが現在着ているものより技術の発達したものであるように見受けられる。


 だが、全体の印象といい布のりといい、ソサリア王国で着用される衣服であることに間違いはない。テロンはあまり被服学には詳しくないが、他国に赴くことが多いゆえに敏感に気づいたのだった。


 青年はもごもごと口ごもりながらも、背筋を伸ばして言葉を発した。


「あ、い、いや。えぇっと……おか、おかしな場所に出てしまったなと思ったんだ。だよな? そ、それよりさっきの魔法、助かりました。俺たちはこの世界を破滅の危機から救うために『影の都』に頼まれてきたんだ。けど、あんなにでっかい奴がいたんで驚いてしまって」


 あはは、と青年が笑い、「そうだったよな?」と金色の髪の少女に念を押すように言葉を向ける。


 少女のほうはオレンジ色の大きな瞳をぱちくりと瞬かせたあと、うんうんと肯定するように首を縦に振った。青年が少女の口から手を離す。


 テロンの後ろで、ルシカがハッと息を呑んだ。ふいに何かに気づいたかのように。テロンが背後を振り返ると、ルシカは何でもないというように首を振り、優しげな弧を描く眉を下げて穏やかに微笑した。


 少なくとも、目の前の者たちは敵対するような人物ではないらしい。テロンは彼らに向き直った。


「君たちは、俺たちと同じ現生界からこの世界へ来たのか? とにかくここは危険だ。話せば長くなるが、とりあえずあのレヴィアタンが戻ってくる前に、この結晶のかなめたる場所を突き止めなければならないんだ」


「要たる場所?」


 リューナとトルテの声が重なる。ルシカが微笑み、テロンの言葉を継いだ。


「あなたたちがこのアウラセンタリアに来たのは、あたしたちと同じ目的なのでは? この幻精界本来の魔力マナの流れを取り戻すためには、どうしてもこの蓋のように被さっている結晶を取り除かなければならないの。魔導士であるあなたたちにはわかると思うけれど、この結晶は自然のものではないわ。ここにあってはいけないものなの」


「そうなのか?」


 リューナの言葉に、トルテが頷く。「リューナは魔力の流れを感じることができませんものね」と微笑みながら。


 少女はテロンたちのほうを向き、戸惑ったような面持ちで言葉を発した。


「でも、これを全て壊さなければならないとしたら、かあ――いえ、あたしたち魔導士が魔法を遣っても、この規模ですもの、何週間もかかってしまいそうです。その間に膨れあがった魔力の渦が爆発してしまったらどうしましょう」


「そうね。だからこそ、かなめになっている場所を探っているの。どんなに堅固に積み上げた要塞であっても、基礎を破壊されれば全体が揺らいで崩壊するわ。ここも『増幅』という魔力の流れをもった魔法陣のような構造をしているから、その場所を突き止めて壊すことができれば――」


「そうか! 魔法陣は一部を断ち切られれば効果が消えてしまう。この結晶の蓋も同じことがいえるって訳なんだな。すっげぇ! それなら何とかなりそうだよな、トルテ!」


「はい。みんなで力を合わせれば、きっとうまくいきますね!」


「俺はテロン、彼女はルシカ。リューナ、トルテ、ふたりともよろしく」


「え、ど、どうして俺たちのことを」


「先ほどから、互いに呼んでいたぞ。何か困ることがあるなら名は聞かなかったことにするが」


「い、いえあの、それでも別に構いま――」


 リューナがへどもどと答え、トルテが彼を見てくすりと微笑んだときだ。ふたりの背後から、緊迫してはいるがひどく可愛らしい声があがる。


「ねぇ、それより狼さん、だいじょうぶなのかな?」


 それまでおとなしく成り行きを見守っていた幼女ナルニエが口を開いたのだ。傍らでピュイも心配げな顔をして、首を周囲に巡らせている。


「スマイリーはレヴィアタンをあたしたちから引き離して、連れ回してくれているんです。あたしたちが攻撃の魔導の技を遣わなければ、注意を惹きつけていられるだろうって言っています」


 まるで仲間のひとりであるかのような話しぶりと、意思疎通のできているような内容の言葉に、テロンは内心驚いた。スマイリーというのが上位幻獣の名なのだろう。


「ならば彼が頑張ってくれているうちに、我々も目指す場所を突き止めよう。――ルシカ、その場所はわかったのか?」


 声を掛けると、彼女はにっこりと微笑んでテロンに応えた。確信に満ちた眼差しと指先で進むべき方向を指し示す。


「こっちよ。このまま真っ直ぐ。奥にひとつ、何処とも隣接していない尖った場所があるの。その真下がアウラセンタリアの中心――『みなもと』よ」


「よし、急いで向かおう」


 テロンの言葉にルシカが頷き、移動しようと駆け出した。だが、その脚は危なっかしげにふらついている。連続して遣い続けている魔導は、確実に彼女の気力と体力までをも削ぎ続けているのだ。テロンは妻を追い、腕を伸ばした。


「――ん? あ、ちょっと待って。あたしは平気だから」


「ルシカの『平気』だけは心配なんだ」


 テロンは有無を言わさず彼女を抱き上げ、頬を染めるような表情でぽかんと見上げてきた青年と少女に向けて言った。


「彼女は魔力マナだけでなく、ひどく体力をも消耗しているんだ。無理をさせるわけにいかない――お産のあとだからな」


 囁くように付け足した最後の一言に、少女が息を呑む。けれど少女は何も言わず黙って頷き、青年のあとに続いて走り出した。


 地響きのような振動が急速に近づいてくる。テロンもすぐに彼らを追い、かなめたる場所へ向けて急いだ。


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