双つの都 10-39 護るべきもの
トルテは稀有なる色彩と魔導の力を宿すオレンジ色の瞳を見開いたまま、眼前に迫るアウラセンタリアの地を呆然と見つめた。
信じられないことだが、精神を集中させて何度確認してみても、幻精界の中心の地から感じる気配は変わらなかった。揺るぎのない大地や呼吸する大気のように、生まれたときから当たり前のように彼女の世界に在り続けていたもの――。
「……い、おい、トルテってば!」
肩を掴まれて揺さぶられ、ようやく我に返る。リューナが眉を寄せ、必死の形相で彼女の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんだよ! トルテのかあさんがここに居るはずないだろッ?」
普段取り乱すことのない自分がどんな顔をしていたのか、トルテはリューナの表情で気づかされた。深く息をついて呼吸を落ち着け、それでもまだ震えている唇でなんとか言葉を紡ぐ。
「はい、でも……間違いないんです。この魔導の気配は、ルシカかあさまのものです」
「そんな――だって俺たちが出発したときに、宮廷魔導士は王弟殿下と外交で出掛ける直前だったじゃんか。どんなに早く帰ってきてもこっちがフルワムンデに着くくらいになるだろうってハイラプラスのおっさんが言ってたよな。一番近くて到達できそうな扉ってのが、俺たちの通ってきたやつなんだぞ」
「でも」
トルテは口ごもった。幻精界への扉は、どこにでもあるわけではない――それは間違いない。だからこそ自分たちは、大陸中央を分断する絶壁と高峰の並ぶフェンリル山脈を海路で迂回し、危険な山岳地帯と遺跡を越えて閉ざされていた扉に到達したのだ。混乱する思考を振り払うようにトルテは首を真横に振った。
リューナの言いたいことはわかっている。母がこの幻精界へ入り込んでいるはずがない。
そういえば、現生界に居るはずの母は無事なのだろうか。『千年王宮』の東区域にある図書館棟で、いまも魔導書の分類に追われているのか、それとも――トルテはぎゅっとまぶたを閉ざした。
脳裏に思い描かれたのは、銀色の髪をさらりと流し、穏やかなオレンジ色の瞳でいつもにこにこと人好きのする笑みを浮かべた端正な顔立ちの魔導士だ。
ハイラプラス・エイ・ドリアヌスシード。古代魔法王国の末期から現代に渡ってきた『時間』の魔導士は、トルテとリューナのもとを訪れ、トルテの母であるルシカが近いうちに生命を絶たれるであろうことを告げた。原因と助かる手立ては不明であったが、間違いなくそのどちらもが幻精界にあるというのだ。
その話はあまりに突然で突拍子もないものだったが、ふたりは信じた。それが他でもないハイラプラスの言葉だったからだ。
「そう……ハイラプラスさんはこうも言っていたんです」
トルテは言葉を続けた。
「物事は早すぎても遅すぎても意味を成しませんが、
「トルテ、おまえの記憶力ってホントすっげぇよな……」
リューナは一瞬ぽかんとして彼女を見つめたが、すぐに表情を引き締めた。ニヤッと微笑み、彼女を元気づけるためにわざとらしいほど陽気な声を張りあげる。
「だったらさ、気にすんなよ! どうせすぐにわかることだろ。今まで驚くことばかり連続だったんだからさ、俺は今さらなにがあったって絶対に驚かねぇったら」
ガゥルルルルルッ! リューナの言葉が切れたタイミングで、スマイリーが唸り声を発した。
「それみろ! スマイリーだってそう思うだろ。だからトルテは気に――」
「違います! これは警告ですッ」
トルテは叫んだ。「なにッ」とリューナが前に向き直ると同時に、岩山のように巨大な影が『月狼王』の前に現れる。
スマイリーは『
すぐ目の前で、怒りに歪んだ醜怪な頭部に眼球が燃え上がった。ぞっとするほどに鋭く長い牙をもつ口蓋がかぱりと開く。
スマイリーは急制動をかける代わりに、無機質な大地を思い切り蹴りつけた。突進していた勢いを跳躍力に変え、回避しようと試みる。背の上を気遣う余裕すらなかった。
「うわッ!」
「キャアァッ」
あまりの負荷に、全員が転がり落ちかける。トルテの腰をかっさらうようにしてリューナがスマイリーの背に伏せた。同時に宙に浮いたナルニエの小さな腕を掴み、ピュイの翅の付け根に足首を引っ掛けて落下を防いだのだから、リューナの反応は素晴らしかった――彼の体の下にかばわれたトルテは素直に感心した。
押しつけられるような圧迫感と同時に、肌を突き刺すほどに冷たい空気が掠め過ぎる。まるで氷属性をもつ生き物が呼吸するときに発する冷気のようだ。
ぐるぐると切り替わる視界と姿勢に翻弄されながらも、トルテはまぶたを押し上げた。なんとか後方を振り返る。
自分の目が信じられぬほどに、巨大なものが背後に迫っていた。スマイリーは次々と壁を蹴って跳躍を繰り返し、背後に迫る追っ手をなんとか振り切ろうとしている。
トルテはスマイリーとの心の繋がりに意識を集中させ、乱れる心を押さえ込んだ。上位幻獣である『月狼王』のスマイリーでさえ恐怖と焦りを感じている。
背後に差し迫る追っ手がなんと呼ばれているものなのか、トルテはすぐに思い至った。
「……レヴィアタン……」
震える喉からその名が滑り出る。聞きつけたリューナが、目を見開いて聞き返した。
「あれがそうなのかッ?」
『
縄張りに侵入してきたものたちを喰らおうとしているのか、彼らの目的を見通して戦いを仕掛けてきたのかはわからない。だが、執拗に彼らを追い続けている。スマイリーがいかに巧みに身をかわそうとも、このままでは逃れられない。
「そ、そんな、どうしよう」
ナルニエの声は震えていた。
リューナが悔しそうな声で「いまは逃げ切るしかない」と答えながら、肩越しに背後を振り返る気配があった。
「すっげぇ。あれが始原の存在かよ……現実離れしすぎて実感がないくらいだ。大きさは古代龍とケタ違いだぞ。――っとピュイ、怒るなって。別に莫迦にしてるわけじゃないだろ!」
リューナの口調は余裕げだが、本能的な危険を正しく感じ取っているのだろう。トルテがちらりと見上げた彼の顔は、緊張のために蒼ざめていた。
「う……!」
ふいにズキリと重い痛みと熱を感じ、トルテは目を押さえた。
「瞳が……この下は膨大な
魔導を宿した瞳は、文字どおり閉じることのできない眼であった。スマイリーの背に顔を伏せていても、眼下に渦巻く凄まじいまでの
「ラウミエールのおっさんが言ってた、地上へと噴き上がるはずの
「はい」
言ってたというのとはちょっと違いますけれど――トルテは心のなかでつぶやいた。『影の都』の統治者ラウミエールは、幻精界に住まう種族の常として、肉体という殻を持たぬ存在なのだ。現生界に生きるトルテたちとは存在している『状態』が異なっているゆえに、大気の振動による音声として言葉を伝えることがない。
「そういえばナルちゃんは、どうしてこんなにあたしたちと同じなのかしら……」
それは、とても重要なことである気がした。スマイリーの毛並みの艶やかさとリューナの腕の温かい重みとを感じながら、トルテが思考を巡らせようとしたそのとき。
ジャアアァァァッ!
威嚇とも怒りともつかぬ大音響が背後から叩きつけられた。同時に凄まじい悪寒が背筋を駆け抜ける。思わず振り返ったトルテの瞳に、相手の長大な体躯を駆け上がっていく
「来ますッ、スマイリー!」
「やばいぞ! みんなしっかり掴まって伏せてろッ」
トルテの叫びと同時にリューナの緊迫した声があがる。彼自身は跳ねるように上体を引き起こし、素早く背後に向き直った。激しく揺れるスマイリーの背の上で姿勢を保ちながら、両腕を虚空へと振り上げる。
スマイリーとレヴィアタンの間に駆け奔ったのは『
「いけない、それでは防ぎきれません!」
トルテは思わず叫んだ。展開された魔法陣は確かに、魔法攻撃を防ぐための障壁を作り出すものだ。けれどレヴィアタンの喉奥から駆け上がってきた凄まじい光量は、リューナの障壁だけで吸収できるものではなかった。
トルテは飛び起き、自身も魔導の技を行使しようとした。空間が爆発したかのごとく白熱する。視界が
「ばかやろっ」
リューナがトルテに覆い被さり、強引に押し倒す。同時に、凄まじい衝撃が彼らの居る空間に叩きつけられた。
鼓膜を殴られたかのような内耳の痛みと、肌の粟立つような不快感。けれど背後の気配を読んでいたスマイリーが素早く位置を変えていたおかげで、青白い破壊光の奔流の直撃は避けられた。
だが駆け抜けた光と衝撃は、前方にあった結晶の壁を一撃で粉砕していた。方向転換をする間もなく、スマイリーは破片の飛び散る空間へ突入せざるを得なかった。
「――クソッ!」
結晶の破片が、微細な刃となってトルテたちを襲う。ナルニエの悲鳴とピュイの啼き声がトルテの耳に届いた。無意識に展開したのだろう、『生命』の温かみをもつリューナの魔導の力が、スマイリーの背に伏せたトルテたちを護るように包み込んでいる。
だが、スマイリーが体勢を崩した。加速による重圧が消え、突然の浮遊感がトルテの体に押し寄せる。ぞくりとする感覚と不安のあまり身が
落ちているのだ。
トルテは知らず閉じていた目を開いた。赤に染まって遠ざかってゆくスマイリーの背が見える。自分たちの血だろうか。だがそこに仲間たちの姿はない。
「トルテ!」
呼び声が聞こえた。首を真横に向けると、リューナがトルテに向けて必死に片腕を伸ばそうとしているのが目に映った。痛みに頬を引きつらせながらも、彼女に向けて真っ直ぐに――。
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