双つの都 10-38 護るべきもの

 裂帛の気合いとともに彼女が解放した魔導の力は、光り輝く魔法陣となって友である幻獣の眼前に展開された。いつもの魔法障壁かと思ったが、やや斜めに傾いて見えるのは気のせいか――。


 ズドオォォンッ! 先ほどと同じ衝撃が空間を震撼させ、爆風が地表にまで達した。


 光の奔流の突き当たった魔法障壁は、粉々に砕かれたように一瞬で霧散した。けれど凄まじい威力をもった光の奔流は障壁に突き当たったことで折り曲げられ、『飛行海鷂魚ソアリングレイ』はからくも直撃という最悪の事態を避けることに成功していた。先ほど魔法障壁が傾斜して具現化されていたのは、これを狙ってのことだろう。


 幻獣は無事だ。ふらつきながらも飛んでいる。


 胸を撫で下ろすテロンの視界の端で、ルシカが魔導行使のために振り上げた腕を下げることなく連続して動かすのが見えた。今度は白い輝きが虚空に出現し、幻獣を包み込んだ。一瞬で美しい魔法の紋様を織り成す。


「癒しの魔法か」


 彼にとっても馴染みのある魔法陣を見て、テロンは得心した。


 ルシカの放った魔導の光が海鷂魚エイの体躯に穿たれた裂傷と火傷を癒すと、幻獣のぎこちなかった飛び方が真っ直ぐなものになった。海中を飛ぶように泳ぐ海鷂魚エイそのものの動きで幅広いヒレを打ち羽ばたかせ、迷うような動きを見せつつも、彼の還るべき場所へと戻ってゆく。


「ありがとう! あとは必ずあたしたちが何とかするわ」


 遠ざかる幻獣の背に向け、ルシカがつぶやくように言った。彼女らしい、優しい眼差しと笑顔がテロンの瞳に好ましく映る。空へ差し伸ばすように振り上げていた腕を下ろしたあと、『万色』の魔導士はようやく深い息をついた。張り詰めていた空気が和らぎ、魔導の気配が解けるように薄らいでゆく。


 カクリと膝を折りかけたルシカが倒れそうであることに気づき、テロンは慌てて彼女の体を受けとめた。


 ホッとして眼を向けると、ルシカはテロンを見上げるようにしてなんとも申し訳なさそうな表情になっていた。テロンは何も言わず、ただ彼女を抱く腕に力をこめて自分の胸に引き寄せた。


「……ごめんなさい、テロン」


「いいんだルシカ。俺だって魔導が遣えたならば、同じことをしたと思う」


 その言葉に、ルシカがきゅっとテロンの衣服を握った。彼女を抱きしめ――そして表情を引き締めてテロンは顔を上げた。


 レヴィアタンは遠ざかってゆく幻獣を追おうとはしなかった。巨大な頭部を巡らせ、彼の領域にいまも残っているであろう不埒な侵入者たちを捉えようと、殺意のこめられた眼球をぎらつかせながら振り返った。巨大な頭部をじっと空中にとどめたまま地表の気配を探り、胴体のほうを移動させて体勢を整えているかのようにみえる。


 テロンは自分の気配を押し殺し、ルシカを抱き上げたまま素早く駆け出し、その場を離れた。


「……考えが足りなかったわ」


 彼女にしては珍しく、しょんぼりとルシカがつぶやく。


「ごめんなさい……テロン。ウルのように魔獣であっても、上位種というものはほとんどが高い知能を持っているから、生きているうちに言語や魔導の知識を習得しているはずだと思ったんだけど……この世界ではそんな環境はなかったのよね。幻精界は現生界とまったく違うから……」


「ウルが可愛く思えるな」


「え?」


 突然のテロンの言葉に弾かれるように、ルシカが顔を上げた。彼女はすぐさま、真面目な面持ちで考え込んだ。


「えっと……ウルは可愛いと思うけれど」


「あの大きさだ。ウルが可愛らしくみえてしまう、そうは思わないか? ということさ」


 緊張や暗い雰囲気を良いほうへ転じさせたいとき、兄クルーガーはよく軽口を叩いている。それを思い出しつつ発した彼なりの言葉だったのだが――普段あまり冗談を言わないテロンであったがゆえに、ルシカを本気で考え込ませてしまう結果になってしまったようだ。


 苦笑したテロンの顔を間近で見上げ、ようやくルシカはそのことに思い至ったらしい。気遣いを嬉しく感じたのか、ぽかんとした表情のまま頬を赤らめるものだから、テロン自身もつられて頬が熱くなるのを感じた。


「これからは俺も気の利いた台詞せりふのひとつやふたつ、言えるようにならないとだな」


 そうつぶやいてみせると、ルシカの瞳に力が戻った。


「そうねテロン。娘もできたんだし、そのくらいはいいよね」


「そうだな。ルシカ……何があっても無事帰るぞ、ふたりともだ」


「うん、約束する」


 頷いたルシカに向けてテロンは素早く顔を近づけ、やわらかな唇に自らのそれを強く重ねた。


 ルシカの瞳が一瞬だけうるんだが、彼女はすぐに表情を引き締めた。類稀なる力を宿した眼差しに力を籠める。オレンジ色の虹彩が明るく澄み渡り、白き魔導の輝きが燃え立つように現れた。


 テロンに抱き運ばれている利点を活かし、深い精神集中を済ませたルシカは、魔導の知識と力をフル回転させた。周囲を流れ過ぎてゆく光景に織り込まれている魔力マナの構造を片っ端から見極めていく。


 アウラセンタリアの地の中心――『みなもと』の位置を探り、ここへ来たそもそもの目的を完遂させねばならないのだ。


 テロンはそんな彼女の様子を見守りながら、巨大結晶の造りあげている迷宮の内部を移動していた。


 直立しているかのごとくそそり立つ断崖絶壁にも似た結晶の高い壁は、繋がり、別れ、また繋がって、凄まじく複雑な構造を成している。まるで巨人たちが考えに考え抜いて建造した巨大迷路のようだ。


 方向感覚には自信があったはずのテロンの感覚でも、星も太陽のないこの状況下では果たしてどちらの方向を向いているのかすら定かではなかった。


 背後に聞こえている物音は、どんどん大きくなってくる。まさに蛇が腹板と呼ばれる鱗で移動しているときの音そのものであり、うつろに反響するほどに長く、長く尾を引いて幾重にも重なって耳に届く。全長が測れるものならばいったいどれほどあるというのだろうか。


 それにあの動きの速さ――ルシカを抱えたままでは、まともに正面から遣り合うことは不可能に近いだろう。


 まずはルシカの為さねばならぬことを実行できる場所を確保し、充分に彼女の安全を確保した上で挑まねばならない。このように入り組んだ場所で闘うことになれば、彼女が危ない。冷たい焦りに心臓を掴まれ、思考が乱れる。


「ルシカ、どちらへ向かって進めばいい?」


「待って……もう少し。あちこちへ向いている魔力の重なりが複雑すぎて、読み解くのが難しいから……」


 ルシカも焦っているようだ。普段は優しげな弧を描いている眉を上げ、魔導の瞳をせわしなく動かしている。


 あちこちに守護や環境維持のための魔法陣が設置されている『千年王宮』では、幾重にも重ねられた薄い透かし織りのカーテンが張り巡らされているかのように、ルシカたち魔導士の瞳には映るのだという。注視してひとつひとつを読み解くのは、大変な作業になるとルシカが以前話していたことをテロンは思い出した。


 ましてやここにあるものは、魔法で創りあげられたものですらないのだ。


「とりあえず動き回り、レヴィアタンを一度振り切らなければ――」


 ふいに押し潰されるような圧力が生じた。肌を刺し貫くほどに凄まじい気配を感じたテロンが、真上を振り仰ぐ。


「見つかったか……!」


 怒りに白熱する眼球、凄まじい形相。心弱いものが目にしたならば、即座に昏倒してしまうほどに怖ろしい頭部がそこにあった。


 ルシカも蒼白な顔色で頭上を仰いだ。障壁を展開しようとした彼女の腕先がぴくりと動く。けれどルシカは何かに気づいたかのように動きを止め、驚いたように目を見開いた。弾かれたように首を向けた先を見つめ、ルシカはつぶやいた。


「何かしら、この気配……あたしの他にもこの幻精界に魔導士がいるの? まさか!」


 ルシカと同時に、レヴィアタンも何かの気配を感じ取ったようだ。同じ方向へ首と視線を向けている。苛立たしげにシュウシュウと鋭い音を立て、こちらと、新たな気配を感じた方向とを往復するように頸が動く。





 『月狼王』のスマイリーが薄闇にも鮮やかな白銀の前脚を虚空へと伸ばし、黒紫の体毛を冷気になびかせて飛ぶように上空高く舞い上がる。穏やかなタッチダウンを決めたあと、雪原を渡る風のように再び走り出す。


 アウラセンタリアと呼ばれる領域へと続く闇の地平の、最後の亀裂を飛び越えたのだ。


「なんだか、これまたすっげぇことになってんな……。古代龍といい、環境を変える魔法でも使えるのかな。有り得ないだろ、こんなでっかい結晶なんて」


 漆黒の髪をはためかせ、瞳を真っ直ぐ前方に向けたまま、リューナは傍らの少女に言った。


 ツインテールに結い上げた金色の髪をさらさらと鳴らしながら、トルテが顔を上げ――くしゅんっ、とひとつくしゃみをしたあと、リューナの言葉に応えた。


「『巣』……なのかも知れませんね。ひとが居城を建造して、地位を誇示し自身の安全を確保するように、始原の生き物たちも自分たちの縄張りを主張するものなのかも……ッ、くしゅん!」


「寒いか、トルテ。なんか冷えてきたもんな。それにしても……俺たちが何日もかけて乗り越えてきたフルワムンデの周りの山岳地帯と同じくらいあるぜ」


「だいじょうぶですよ。スマイリーの脚なら、タマゴサラダのサンドイッチを食べて温かい紅茶を一杯いただくくらいの時間で着きますから」


「……おまえ、腹減ってんだろ」


 リューナは呆れたように肩を落とし、いつもと同じのんびりとした表情で微笑んでいる少女の顔を見た。けれど、幼なじみとして長年付き合ってきたリューナは気づいている。余裕げに構えているが、類稀なる魔導の力を宿した瞳――母譲りのオレンジ色の虹彩をもつ眼差しだけは真剣な光を湛えていることを。


「もしかしたら、『増幅』の働きをもつ魔石の結晶を創り上げることで、外敵が侵入してきたときに有益となるよう備えているのかもしれません。遥か未来の世界で古代龍シニスターの作っていたエターナルのお城、背後にあったものと魔力マナの流れが似ていますから」


「それって、相手が強敵だってことだよなぁ。……って、おいこら!」


 ぼやくリューナの背にずどんと体当たりをかまし、小さな手を伸ばして自分より背の高い青年の頬をむにむに引っ張ろうとしてきたのは、水宝玉アクアマリン色の瞳をした幼女だ。その肌は抜けるように白くなめらかで、白銀色に輝くすずやかな髪と、薄闇にぼんやりと光を放っているように見える体は、幻精界の光の領域の住人であることを示す特徴らしい。


「ごちゃごちゃ言ってないで、世界を救いにいくんだから! もっとしっかりしてよね、おにいちゃん!」


「ピピピュ!」


 賛同するように啼き声を発したのは、ずんぐりとした胴と昆虫のごとく透けた美しい翅をもつ幼龍だ。


「ナルちゃん、ピュイ、おはようございます」


 青年と幼女と幼龍の遣り取りを眺め、トルテが首を傾げて笑った。ふと、その表情が強張る。


「この気配、まさか――」


 片手でナルニエの襟首を掴み、もう一方の手でピュイの噛みつき攻撃を押さえ込んだリューナは、少女の震える声に気づいた。何事かと弾かれたように振り返った視線の先でトルテのただならぬ表情に気づき、騒いでいた一同の表情が真顔に戻る。


 揺れるスマイリーの背の上で、トルテは真っ直ぐにアウラセンタリアの地に視線を向けていた。震える唇がかすかなつぶやきを発する。


「まさか、ルシカ……おかあさま?」


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