双つの都 10-37 護るべきもの

 生まれたばかりの現生界において、最初に個として確立した始原の存在のひとつ――レヴィアタンと呼ばれる魔獣。


 始原の存在とは、古代魔法王国より遥か昔から伝説として語り継がれ、いまなお世界のどこかに眠っているかもしれぬと言われている大いなる脅威でもある。


 テロンとルシカは、緊張した面差しで空を飛ぶ幻獣の背からレヴィアタンの威容と想像を絶する光景の細部に眼を凝らした。


 白く凍てついた湖面の切れる場所から山脈のごとく屹立きつりつしているのは、脈動する赤い光を発している大地を覆い隠した天青石セレスタイトさながらに青く澄んだ結晶の集合体だ。牡丹ピオニーの花弁のごとく幾重にも折り重なった外殻が、溶けかけてもう一度固まり、薄く幾千もの薄い断面にひび割れたかように複雑な構造を成している。


「なんという光景だ……まるで結晶でできたとりでのようにも見えるが、規模がまるで違う。俺たちの世界では在り得ない大きさだぞ」


「厳密にいうと結晶ではなさそうだけれど……わからないわ。どんな鉱物でも、あれほどの大きさのものが存在しているなんて考えられない。それに、魔獣と呼ばれているものがあそこまで育つなんて」


 ユラリと鎌首をもたげたレヴィアタンは、夜闇に染まる湖のごとく捉えどころのない蒼の体表を波打たせ、急速に近づきつつある彼らに敵意のある凝視を向けていた。巨大なあぎとをかっぱりと開き、鋭い威嚇音とともに凄まじい冷気を発する。まだ距離があるにもかかわらず、肌に感じる温度が急激に下がる。


 あまりにも規模が大きすぎる周囲の光景ゆえに錯覚を起こしてしまいそうだが、相手は凄まじくでかい――おそらくはその長い体躯で王都そのものをすっぽりと囲んでしまえるほどに。そんな相手が身を隠すことのできる結晶の塊は、驚異の創造物なのであった。  


「間違いないわ……あの青い透明な物質が蓋になって、本来地表に噴き出して巡るべき魔力マナを地下へ封じ込めている」


 ルシカが魔導の力を宿した瞳を狭めながら、テロンの腕のなかで囁くように言葉を続けた。


「魔導の技によって造られたものではないのに、構造があまりに洗練されている……まるで幾重にも重ねられた立体魔法陣みたいだけれど、明らかにひとの生み出した技術ではないわ。でもこのままでは」


 その昇りゆく太陽を宿した眼差しには、待ち構えている破滅の兆しが捉えられているのだろうか。テロンの胸に添えられた彼女の細い手の指先が、はっきりと震えている。


 どれほどの脅威を直視しているというんだ――ルシカ。


 テロンは発しかけた問いを危ういところで呑み込んだ。かわりに自身の大きな手で、ルシカの小さな手を包み込むように握る。


 闘うための技には長けているつもりだが、魔法にうとい彼には、魔導士である彼女の感じている恐怖や不安の片鱗すら窺い知ることはできない。だが危険そのものを分かち合うことはできる――テロンは青く燃え立つほのおを宿した瞳で、眼前の凄まじく強大な存在をめつけた。


「あれがアウラセンタリアに巣食う諸悪の根源というわけか。奴をあの場所から移動できれば、破滅は防げるんだろう、ルシカ」


「そうね。あの結晶を取り除かなければ、本来地中から噴き出して世界を巡っていた魔力マナの流れを復活させることはできない。要所を破壊するしかないわ。でもこのままではおそらく、レヴィアタンはそれを阻止しようと向かってくるでしょうね……」


 ルシカはそこで言葉を切り、テロンを見上げた。


「テロン……上位魔獣と称されるものたちのほとんどは人語を解し、なかには魔導を操るすべを習得している個体もいると聞くわ。もしレヴィアタンと話し合うことができたら、状況は良いほうへ変わらないかしら?」


「話し合うだって? あれほどに大きな存在に、俺たちの言葉が届くのか」


「莫迦な考えかも知れないけれど、やってみたいの」


 ルシカの言葉の意味することを理解し、テロンの胸に嫌な予感が込み上げた。「危険すぎる」と口に出そうとして、ルシカの蒼白な顔色に気づく。彼女はもちろん、それがいかに危険なことかを承知しているのだ。


 そうか――テロンは納得した。和平の道を探してまずたゆまず話し合うこと、それは双子の兄クルーガーの信念であり、王国の基本概念のひとつである。王という立場で宿敵ともいえたロレイアルバーサに対峙したとき、心の迷いを断ち、平和を実現し維持してゆく方法として見出した理念でもあった。


「俺たちはソサリアの護り手、だからだな」


 ルシカは王国に属する宮廷魔導士、そしてテロンは外交の担い手でもあるのだ。


 テロンがつぶやくと、ルシカは安堵したようにホッと小さく息を吐いた。微笑みながら、彼に信頼の眼差しを向ける。迷いなく差し伸ばされた彼の手を借りて真っ直ぐに立ち、小さなおとがいをグッと持ち上げ、凛とした表情で背筋を伸ばす。


 レヴィアタンの攻撃に入るか入らぬかの位置で、『飛行海鷂魚ソアリングレイ』が旋回するように方向を転ずる。海鷂魚エイの背がひどく傾斜したので、ルシカが滑り落ちてしまわぬよう、テロンは彼女の危なっかしげな姿勢をしっかりと抱き支えた。


いて!」


 ルシカの言葉は、幾つもの音が重なったように不思議な響きを持っていた。


「この場所は、とても危険な場所なの。あなたの足元にある結晶の蓋が邪魔をして、地中から噴き出して幻精界を巡るはずの膨大な魔力が、何もかも吹き飛ばしてしまう。いますぐにその蓋を取り除かないと大変なことになるの……!」


 ふいに、レヴィアタンの動きが止まった。


 ルシカの言葉が届いたのだろうか――テロンは注意深く相手の様子を見守った。対象がでかすぎるゆえに表情はわからないが、少なくとも凄まじい形相をしている。蒼闇に沈みゆく世界にあって、下から溶岩マグマのごとき赤い光に照らされた体躯のほうはどこまで続いているのか計り知れぬほどに長大かつ巨大な胴体をしており、蛇というよりは竜に近い形状の頭部を持っていた。


 ぎらぎらと光る蒼白い眼球の大きさは、人間族のなかでも長身であるテロンの背丈の倍以上ある。ソサリア王国の大森林地帯を流れる大河ラテーナをも飲み干してしまいそうなほどに巨大な口蓋からは、背筋の寒くなるような蒼白い光がちろちろと見えていた。


 なんて大きさだ――テロンは改めて驚嘆した。魔導船を軽々とくことができるほどに長大な体躯を誇っている『海蛇王シーサーペント』のウルでさえ、レヴィアタンの大きさには敵わない。


「……明確な反応がないわ。この距離では、『使魔』の魔導の技で直接イメージを語りかけるわけにもいかな――」


 落胆したルシカの言葉は、終わりまで続かなかった。


 ゴアゥアアァァァアアアッ! 大地が震撼し、天空が悲鳴をあげた。視界が真っ白に塗り上げられる。


 咄嗟にルシカを抱きしめたテロンが幻獣の背に伏せると同時に、ルシカが何かを叫んだ。幻獣の背が急激に傾く。激しく押しつけられるような勢いが幸いして虚空に放り出されることはなかったが、一瞬後、凄まじい衝撃が彼らを襲った。


「……う、クッ!」


 ビリビリと空気そのものが激しく震え、鼓膜を揺さぶる。肌が燃えあがるのではと思えるほど急激に温度が上がり、凄まじい烈風が渦を巻く。必死に伏せたからだの下で幻獣の皮膚が痙攣するように波打った。


 大気を震撼させた衝撃が通り過ぎ、今度は肌が粟立つような感覚が押し寄せる。


 テロンは顔を上げた。


「落ちるぞ!」


 急速に迫る、凍りついた湖面。アウラセンタリアの地に照らされて赤く茫洋と続く、どこまでも平らかな天蓋。ふたつの光景が目紛めまぐるしく入れ替わっている。


 けれど『飛行海鷂魚ソアリングレイ』は必死に体勢を立て直し、どうにか落下速度を緩めることに成功したらしい。視界の傾きが水平になる。と、同時に周囲の光景が変わった。深海のごとき深い蒼と、赤く胎動する光の洪水が視界を染めあげる。墜落したとき、アウラセンタリアを覆い尽くしている結晶体の間隙かんげきへ突入したのだ。


 結晶体の隙間は複雑に入り組んでおり、透き通った結晶の壁面からは内側からの光が放出されてあちこちの断面を煌めかせ、ひどく距離感を狂わせた。


 レヴィアタンより遥かに小さな体躯とはいえ――それでもかなりの大きさであったが――『飛行海鷂魚ソアリングレイ』は姿勢を水平に保ったままの移動にかなりの苦労を強いられているようだ。背に乗せているふたりを振り落とさぬよう気遣っているからだ。


 このままでは、幻獣はいずれどこかの壁面へ衝突してしまう。


「ルシカ」


 テロンが声をかけると、彼女はすぐに彼の胸にぴたりと寄り添った。指先で魔導の印を紡ぎだし、素早くテロンへ向けて強化の魔法をかける。何を言いたいのか正しく理解してくれているのだ。


 覚悟を決め、着地の場所を見定めるために前方に眼を凝らす。かなりの速度だ――下手なタイミングで飛び出したら、切り立った壁面に激突してしまう。幻獣の速度と姿勢を見極め、やや後ろへ向けて大胆に跳躍する。


「…………!」


 浮遊感が押し寄せた一瞬、腕のなかのルシカが身を固くしたが、悲鳴をあげることはなかった。ルシカの細い首と頭部を腕で護りながら、両脚をばねにして衝撃を抑え、見事な着地を決めることができた。


 平らな場所に降り立ったテロンはルシカを抱えたまま、すぐに姿勢を低めて空を振り仰いだ。身を竦ませるほどに凄まじい敵意が頭上から雪崩れ落ちてくるのに気づいたからだ。


 レヴィアタンは彼らの動きを追っていたのだ。怒りの気配を発している巨大な頭部が、長い牙のある口蓋を開き、放たれた矢のように凄まじい速度で迫る。


 ビュッ! 力強い風と見紛う影がテロンとルシカの真上を通り過ぎた。一瞬後、緑に透ける輝きが鋭い複数の刃となってレヴィアタンの鼻先に突き当たる。


 渾身の力を籠めた『聖光弾』を放とうとしていたテロンは驚き、過ぎ去った影の行方を眼で追った。


 『飛行海鷂魚ソアリングレイ』だ。ふたりが背から降りたことで体勢を整えて衝突を免れ、急旋回して戻ってきたのだろう。


海鷂魚エイの内には風属性の魔力マナの輝きが見えるとルシカが言っていたな」


 すでに接触は断たれている。ならばこの幻獣は自らの意思で、俺たちから注意を逸らすことを狙ってレヴィアタンに突撃したというのか――テロンは驚いた。ルシカの魔導の根底にある力の真髄を垣間見たような気がした。


 見ればルシカが、はらはらと落ち着きのない瞳で海鷂魚エイの後ろ姿を追っていた。上空で旋回し、彼女を護るために再びレヴィアタンへ突っ込んでいこうとしている幻獣へ向け、悲痛な声で叫ぶ。


「いけない、逃げて!」


 彼女の叫びと同時に、鎌首をもたげたレヴィアタンの喉奥から、先ほどと同じ白熱した光が吐き出された。まるで空に突き立てられた光の柱だ――大地をも震撼させるほどに凄まじい光の余波から腕のなかのルシカを護ろうと咄嗟に彼女を抱きしめようとして、戸惑った。


 ルシカがテロンの腕を振りほどき、細い両腕を幻獣へ向けて振り上げたのだ。


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