双つの都 10-36 幻精界の中心
にわかに強まった肌を刺す冷気とテロンの視線で事態に気づき、ルシカがハッと背後を振り返る。彼女が眼前いっぱいに迫る幻獣に気づいたときには、すでに遅かった。
テロンの目の前で剣呑な牙の連なりが彼女の姿を覆い尽くし、バシンと音高く噛み合わされた。
「ルシ――」
テロンは息を呑んだが、すぐに気づいた。彼女の細やかな体は噛み切られていない。魔導の技によって展開されていた障壁が、しっかりと彼女を護っていたのだ。衝突音は、魔法の障壁に牙が突きたてられたときのものであった。
けれどその障壁とて完全無欠ではない。際限なく攻撃を吸収し続けてくれるわけではないのだ。この攻撃で、かなり効果を減ぜられているはずである。
急ぎ、テロンはルシカの傍に飛び込んだ。相手の眼球に力任せの拳を叩き込む。ルシカに牙を突き立てることに集中していた『氷狼』はテロンの『聖光気』による攻撃をまともに食らい、弾かれたように跳び上がって後退した。
魔法障壁を張り直すタイミング――テロンはルシカを見た。
テロンの視線に、ルシカが無言で応える。その瞳の虹彩に魔導の白い輝きが現れた。深い精神集中と魔導行使のための思考構築。そのタイミングはすなわち、魔導士が完全に無防備になることを意味する。
ブルブルと巨大な頭部を打ち振り、氷の幻獣が起き上がった。怒りに無事なほうの翡翠の眼球をぎらつかせ、『氷狼』が凍てついた湖面を爪で掻きむしる。苛立たしげに牙の並んだ口蓋を開くと、周囲の温度がさらに下がった。
しなやかな体躯をたわめ、狼は滑るように突っ込んできた。さすがに氷属性の幻獣だけのことはある。障害物のない氷上での動きは驚嘆すべきものであった。瞬きの間もなく一気に距離を詰めてきたのだ。
テロンはルシカの前に飛び出した。体当たりを喰らうと同時に体勢を変え、牙と巨躯を押し退けるように腕に力を籠めて、背後にかばった妻から攻撃の軌道を逸らそうとした。
そのとき、『氷狼』が
「ぬッ!」
突進の勢いを全身で受け止めていたところへ、目に見えぬ衝撃を正面から喰らってしまった。
自身の生命たる根源――
「きゃああぁッ!」
起き上がるテロンの眼前で、ルシカの体が悲鳴とともに宙を舞った。巨大な影が雪崩れ落ちるようにふたつ、突っ込んできたのだ。ひとつは湖面に突き刺さるように湖面を破砕して停止し、もう一体はルシカを弾き飛ばしたあと、彼女の体を追って再び宙へと舞い戻っている。
先ほどから彼らを狙っていた『
上空高く撥ね上げられた彼女の体はぐったりとして生気がなく、『
そのルシカに向け、『
彼女をひと呑みにしようとしているのだ。テロンは狙いすました『聖光弾』を撃ち出し、空を舞う幻獣の腹を
「ルシカ!」
攻撃と同時に跳び上がったテロンは空中で彼女を抱きとめ、湖面に降りた。そこへ別の
凄まじい力だ――テロンは足を踏ん張り全身の筋肉に力を籠め、軍船の甲板ほどもある相手の体躯を押しとどめた。
「……ん、て、テロン?」
ルシカが意識を取り戻した。事態に気づき、細い腕を突っ張って起き上がる。彼女は腕を差し伸ばし、魔導の光を宿した瞳に力を込めてもう一方の腕で素早くひとつの魔法陣を描いた。
テロンは眼を見張った。虹色に煌めく
虹彩に魔導の輝きを躍らせた『万色』の魔導士は、すべらかな頬を自身の魔法陣の放つ光に彩られ、まるで奇跡を体現しようとしているかのように神々しくみえた。オレンジ色の瞳があざやかに
その唇が動いた。囁くような声が発せられる。
「ピンチを……チャンスに変える確実な手段……。親愛なる友獣よ、我とともに
言葉の後半は、凄まじい魔力を
そのまま湖面にゆっくりと伏せ、魔導士の体に触れるか触れぬかの位置で静止する。
「ありがとう、ここからは宜しくね」
ルシカが優しく囁きながら虹色の体表を撫でさすると、幻獣はぶるぶると嬉しそうに身震いした。怖ろしく巨大な一枚の岩盤が、風渡るしなやかな
「こ、これは一体……。ルシカ、まさか君の『使魔』の力なのか?」
「そうともいえるかもしれないわ。頭のなかにイメージを組んだまま魔導の力で『彼』に伝えたの。あたしたちはいまから、あなたたちを苦しめている元凶をもとに戻すために赴くんだって。そのために協力して欲しいって願いを込めながら」
ルシカは微笑んだ。
「本来は幻精界から魔導士たちが使役のために召喚する魔法なんだけど、力で捩じ伏せるのは好きではないから、お友だちになって欲しいって伝えたのよ」
彼女の魔導の名は、無限の可能性を秘めたものだ。経験と知識、強い意思さえあれば魔法そのものを望みの形に構築できる。
けれどその行為は、凄まじい負荷と消耗を術者に
「よし、では頼むぞ」
「うん。――さあ、行きましょう」
ルシカの呼びかけに応じ、『
「……危なかったな」
テロンは踏み荒らされてひび割れてゆく凍てついた湖面を眼下に眺め渡し、つぶやくように言った。空の巨大幻獣は力強く
耳もとでは、風が無機質な声で囁き続けている。どこまでも続く不毛の地には何も存在していない、その
ガクッと顎が落ち、リューナの意識が鮮明になった。どうやら、自分では起きていたつもりが少し眠り込んでいたらしい。スマイリーが全力で駆け走っている途上で、崖か亀裂を飛び越えたタイミングだったようだ。
腕に抱いたトルテは、まだすぅすぅと穏やかな寝息を立てている。体温はあたたかく、その鼓動はトクトクと
魔導の技で小さく灯してある『
「そういえば太陽ってあったっけ?」
リューナは首を捻ってしまう。
「リューナ」
耳に心地良く響くトルテの声に気づき、リューナは視線を自身の胸もとに落とした。彼の腕のなかでトルテが目覚め、顔を上げていた。『
「
「ううん。もうすっかり回復したから目が覚めたみたい。それに――なんだか変に現実感のある夢を見たんです」
「夢?」
トルテの夢なら無視はできない。リューナは聞き返した。
「はい。あの黒鎧のひとが、大きな石を握りしめて立っていたんです。黒く澄んだ水晶みたいな石で、中に水色の光がドクン、ドクンって明滅していたの。見つめていたらすごく不安になってしまうような怖ろしい光でした……」
トルテの言葉に、リューナは真剣に考え込んだ。脳裏に閃いた記憶があったのだ。それを引っ張り出しつつ、口を開く。
「黒い水晶……? いま聞いていてパッと思い出したことがある。確か親父が自慢げに言ってた話のなかに、『
「はい。『封魔結晶』というものは、古代魔法王国期の魔導士たちが作ったものです。……そうですね、持っていたのはその水晶だったみたいでした。なぜあのひとが持っていたんでしょう。それにその光景も、あたしの夢のなかのことで――」
トルテはそこで言葉を切った。呆然とした表情で、進行方向を見つめている。彼女の視線を追い、リューナもまた同じ驚きに打たれてポカンと口を開いた。
「夜が明ける……いや違う、太陽なんかじゃない。俺、あれと同じようなものを見た覚えがある気がするんだけど……」
リューナが思わずつぶやくと、トルテも頷き、彼の言葉を継いだ。
「……遥かな未来でエオニアさんを救い出すために、みんなで向かった……『夢幻の城』エターナルのことですね、リューナ。あのときお城の背後にあった巨大な結晶体……そっくりです」
美しくも異様な光景だ。
トルテが深く息を吸い込み、白い輝きの宿るオレンジ色の瞳に力を込めて凛とした声を響かせた。
「いよいよですね、リューナ。あの場所こそが目指している地、アウラセンタリア。あそこに始原の存在のひとつ、『
それは巨大な宮殿のようにも見えた。信じられぬほどに巨大な結晶体だ。纏っている雰囲気は異様で重苦しく、心を斬り裂かれるほどに危険な気配を放っていた。
テロンとルシカのふたりは、凄まじい速度で飛び進んでゆく『
テロンは腕にルシカを抱き支えたまま手を伸ばし、自らの襟元をゆるめた。渇いた喉がひりつくほどの緊迫感と、胸を締めつけるほどに強い不安――対峙するのは、この世界を破滅の危機に晒している元凶であり、人智を超越した始原の存在なのだ。
なにより心配なのは、彼にとって自身の生命よりも大切な相手であるルシカの
複雑な多面体の巨大結晶の奥から、細く長い影がゆらりと立ち上がった。
遠目に見たその影の本来の大きさを理解し、ルシカが驚きの声をあげる。魔導の瞳を通して
「テロン。あれが……」
「そうだな。あれが始原の生き物……古代龍よりでかい個体が存在していたとは、驚きだ。あれがどれほど危険な存在であるのかは俺にもわかる」
始原の存在――レヴィアタンはゆっくりとその頭部を持ち上げた。色を失った天蓋を突くほどに延々と伸びてゆく。
ふたりを乗せている『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます