双つの都 10-35 幻精界の中心

「見晴らしが良すぎるわ。振り切れないかも――あッ!」


 腕に抱かれているルシカが、テロンの肩越しに背後を見て息を呑む。鋭敏な感覚が回避を命じ、テロンは凍りついた湖面を蹴った。


 ガツリ! 噛み合わされた凄まじい音と質量をもった吹雪が、真横に跳んだテロンの肩を鋭くかすめ過ぎる。一拍遅れて大気が猛然と渦を巻き、冷気の余波が微細な針となってふたりを襲った。


 否、それは吹雪ではない。『氷狼アイスウルフ』の上位種が牙を剥いて襲い掛かってきたのだ。


 テロンは距離を開けつつ体を捻り、凍てつく大気の渦から腕のなかのルシカをかばった。冷気をまともに受けたテロンの片腕を激痛が駆け抜け、痺れたかのように感覚が失せる。『氷狼』の体表の放つ冷気の凄まじさに、肩から腕の皮膚が凍りついたのだ。


「テロン!」


 ルシカが顔を上げて手指の動きで魔法陣を紡ぎ出し、『治癒ヒーリング』の魔導を行使した。痺れが溶けるように消え去り、テロンはすぐに体勢を立て直すことができた。


 『氷狼』が凍りついた湖面に爪をたて、ガリガリと氷を派手に破砕しながら遥か先で踏みとどまった。苛立たしげにずらりと光る歯を剥き出し、グルルルルと腹底に響くような唸り声を轟かせる。体躯から発している白い靄は蒸気ではない――凍てつく冷気そのものだ。


 がっきと氷を掴んだ爪からザルバーン霊峰のいただきを思わせる蒼白いたてがみの揺らめき立つ頭部まで、およそ十二リールメートル。実に堂々とした威容である。ただし、燃え盛る翡翠ヒスイの両眼は餓えた獣のそれ。体毛に触れただけでも低温による火傷を負う羽目になるだろうことは容易に想像できた。


「クッ、どうするか……!」


 『聖光気せいこうき』ならば相手が幻獣相手であっても攻撃と防御が可能になるが、腕にルシカを抱えたままでは『気』を練り上げることができない。襲ってきた相手との距離を開けるために移動しながら、テロンは素早く周囲を眺め渡した。


 白く凍りついた広大な湖の対岸に、赤く発光しながら脈動している領域がある。凄まじいまでの圧迫感を放つ、幻精界を巡る魔力マナの『みなもと』――目指すアウラセンタリアの地は、視覚的にも確認できる距離にあった。


 だが、眼前には襲い掛かってきた巨大な『氷狼』が立ちはだかり、その個体とは別の『氷狼』たちが群れを成して背後の湖岸から押し寄せている。このまま駆け走っても追いつかれるのは必至、逃れる道はない。


 判断に窮して足をゆるめたテロンの腕の中から、強い意思を秘めた軽やかな声が彼の名を呼んだ。


「テロン」


 呼びかけると同時にルシカが彼の腕を滑り抜け、凍てついた湖面にふわりと降り立った。頭を振って顔を上げると、彼女のやわらかな髪が揺れ、テロンの眼前に一瞬、くらく赤く沈みゆく大地を背にして金の花冠のごとく咲き開いた。


 グワオォォォォオッ! 包囲を狭めつつある幻獣たちから歓喜とも威嚇ともつかぬ吼え声が轟き、殺気と凝視が強まった。獲物を狙い定めた捕食者の気配が雪崩のように押し寄せる。


「闘うしかない」


 テロンは覚悟を決めた。『気』を練り上げつつ、拳を握りしめて体勢を低める。全身を金色こんじきに輝くほのおのような『聖光気せいこうき』で覆い尽くす。視界の隅で、ルシカの体を包んでいた銀紗の外套がバサリと揺れた。彼女の腕によって、その背に跳ね除けられたのだ。


「ルシカ! 魔導は――」


「あたしは平気。危険なのはわかっているわ。でもこのままでは闘えない、そうでしょ?」


 輝くように明るい瞳だけを向けてルシカはテロンに微笑してみせ、幻獣の群れに視線を戻してキリリと表情を引きしめた。深い呼吸ひとつで緊張をしずめ、心を平らかにしたのだろう。穏やかな呼吸となって細い両腕を左右に広げ、大地や空を抱きしめようとするかのようにして真っ直ぐに立つ。


 彼女も覚悟を決めているのだ。テロンは頷き、ルシカの前に出た。


「ルシカ、俺が飛び出す瞬間に魔法を頼む。あとは自分の身の安全だけを考えるんだ」


「わかったわ。こちらのことは心配しないで――あなたも気をつけて」


「では、行くぞ!」


「ええ!」


 頷きとともにルシカが腕を虚空へ向け、舞うようにふわりと動いた。瞬時に複数の魔法陣が具現化される。濃い魔導の気配が空間に満ちあふれ、光とともに現れた魔力マナの風が虚空より吹き広がり、テロンとルシカの立つ空間を燦然ときらめかせた。


 魔導の光がふたりの体を完全に包み込んだ瞬間、テロンは猛然と湖面を蹴っていた。


 効果を定着させた魔導の輝きが瞬時に解け失せたあと、周囲を取り囲んでいた幻獣たちが異様な勢いで迫りつつあるのが見て取れた。容赦なく押し寄せてくるさまは、自然の猛威たる大海嘯そのものだ。


 幻獣たちの爛々らんらんと光る無数の眼は、憎悪と飢餓の光を宿し、全て魔導士ルシカに集中している。先ほどの驚異的な規模の魔導の技、彼女の内包している強く濃厚な魔力マナの輝きに、どうしようもなく惹きつけられているのだ。

 

「そうはさせない!」


 魔導によって何重もの援護効果を受けたテロンの肉体は、天より降りた流星さながらの速度と金剛石ダイヤモンドのごとき強靭さを備えていた。群れの先頭の眼前に着地すると同時に、真っ向から『衝撃波』を叩きつける。


 湖面のみならず空間そのものが衝撃に揺れ、衝撃に吹き飛ばされた幻獣たちの巨躯が宙を舞った。弾き飛ばされなかった個体も尋常ならざる力の壁に叩きのめされ、もんどりうって倒れた。


 テロンは立ち止まらなかった。そのまま群れの中心へ飛び込み、体を低めて眼前にあった太い脚をすくい上げるようにして本体を湖面に叩きつける。構えを瞬時に整え、次々と飛びかかってくる後続の『氷狼』たちを迎え撃つ。


 いまや『氷狼』たちの憎悪は完全にテロンへ向けられていた。


 テロンは僅かずつ位置を変え、疾風のように動きまわった。次々と噛み合わされる鋭い牙の連なりの全てを、紙一重で避けていく。


 身をかわしながら次々と狙いを替え、拳を、蹴りを、容赦のない力と速さで叩き込んでいった。巨躯にもかかわらず『氷狼』たちの動きは速く、通常の人間ならば動きを目で追うことすらできないほどであったが、ルシカの魔導で強められたテロンの肉体はそれらを遥かに凌駕していた。


 ルシカの類稀なる力――魔法王国より継がれし魔導の血統、愛し愛されることで手に入れてきた様々な知識と心の強さ。ともに王国を陰で支える護り手としての日々で得てきた力もあった。テロンは畏怖にも似た敬虔な想いを抱くとともに、心から彼女を愛している。彼女の強さ、そして弱さも、全てをひっくるめて。


 だからこそ彼女を失いたくなかった。もう、二度と。


 テロンは疾風さながらに動き、怒涛のごとき攻撃を続けた。


 氷属性をもつ幻獣の上位種を相手にしているためにテロンの周囲は著しく温度が下がり、大気そのものが微細な氷となって肌を刺し、呼吸するたび肺に痛みを生じさせた。さしものテロンも『聖光気』と魔導の援護がなければ、一瞬で氷の彫像となって粉砕されていたに違いない。


 離れた場所に立つルシカはすでに、次の魔法陣を具現化していた。彼女の周囲の空気が変わったことにテロンは気づいた。『力の壁フォースウォール』と『完全魔法防御パーフェクトバリア』を自身に向けて行使したのだ。


 次の魔導を行使するため自身に張った防護壁でなければいいが……ルシカ、それ以上は無理をしないでくれ。――テロンは思わず口のなかでつぶやいた。


 立て続けに遣った魔法の影響で、彼女の呼吸が浅くなっている。内なる痛みをこらえているかのように、唇から小さな呻きが洩れている。身を護る魔導の技は充分だろうと思われた。あとは、さらなる魔法行使の必要が生じなければ良いのだが……。


 ルシカの様子に意識を逸らしていたテロンの周囲に、濃い影が生じた。


「む!」


 上空から迫る気配を振り仰ぐことなく、テロンはすぐに身を転がしてその場を離れた。一瞬後、それまで立っていた場所の氷が粉砕される。別の巨体がズシャリと上から落ちてきたのだ。


 複数の眼と巨躯、凄まじい重量、弧状に延びた剣呑な牙――。


「追いつかれたのか!」


 テロンは歯噛みした。『氷狼』の群れは、すでに二体を残すまでになったというのに。そのうちの一体は最初に突っ込んできた個体で、いまもルシカより遥か先でこちらの様子を窺っている。ルシカの強大な魔導を目の当たりにして突撃を思いとどまったのかもしれない。


「狼のほうは、厄介な奴が残っているということか」


 上位種は本来、知能が高い。獣のごとく本能に支配されて攻撃を繰り返している相手より、冷静に状況を見極めて仕掛けてくる相手のほうが、遥かに強敵となるのだ。噛み付いてきた一体を蹴撃と拳の連撃で叩き伏せ、割って入ってきた牙もつ巨大な幻獣に向き直り、テロンは目を狭めた。


 いままさに彼を踏み砕かんと前脚をあげて迫ってきた新手は、遥か後方に引き離したと思っていた『牙象マンモス』である。はじめに倒された『氷狼』の巨躯を乗り越え、闘っていた彼の頭上目がけて落ちてきたらしい。


「――まずいな。このままでは無駄な時間を費やしてしまうぞ」


「テロン!」


 迷いに動きをゆるめていたテロンは、ルシカの声にハッと我に返った。彼女の視線に導かれるように上空を見上げる。さらに新たな幻獣が数体、こちらを狙っていた。


「あれは……!」


 思わず驚きの声をあげてしまう。悠然と空を旋回している影は、まるで南海に棲むという希少な魚のようだ。祭のときに飛ばす凧のような、扁平でありながら幅広い体躯。優美ともいえる流線を描く胴と尾の表面は、まるで虹色に煌めくスペクトルのようにひどく美しい。


 胴の幅と全長は、闘っていた『氷狼』の体躯の二倍以上ある。エラのような短い切れ込みがずらりと並び、長細い針のような尾はどこまでも真っ直ぐだ。


「すごいわ……はじめて見る幻獣よ。古代の暖かい海に生息していた海鷂魚エイに似ているけれど、体の内側に濃い風属性の輝きが見える――真空の刃の攻撃に気をつけて!」


 言葉の最後の部分は、彼に向けて声を大きくしてあった。


 緊迫した声でありながらも、彼女の眼差しは明るかった。怖ろしいという感情の前に瞳を輝かせて珍しいものを分析し、好奇心に満ちた表情を押さえ切れていないのが、彼女らしいといえば、らしい。


 こんなときだというのに。


 テロンは思わず微笑した。笑ったことで心に落ち着きが戻った。改めて呼吸と体勢を整え、眼前の『牙象マンモス』に向き直る。


 先ほど足場代わりに踏みつけた群れと同じ個体なのかどうかは分からなかったが、その幻獣は傷の奔った長い牙をふりたてながら咆哮をあげ、テロンに向けて突進してきた。


 牙をもつ巨大な頭部に衝突される寸前、彼は地を蹴って跳躍し、ごつごつとした背骨の上に着地した。拳を握りしめ、『気』を素早く練り上げる。


「はああぁぁぁぁッ!」


 気合いとともに拳を連続で打ち込み、一突きごとにその速度を上げ、急速に攻撃間隔を狭めてゆく。怒涛のごとく拳を繰り出して敵の骨を砕く技――最近習得したばかりの『疾風迅雷拳しっぷうじんらいけん』である。


 巨体が咆哮をあげて湖面にめり込んだ。地響きを立てて崩折れる『牙象』の背から跳躍し、テロンが湖面に降り立つ。ルシカを振り返り、すぐさま彼女へ向けて猛然と駆け出した。


「ルシカ!」


 テロンは叫んだ。彼の瞳はルシカの背後に忍び寄る蒼白い巨躯を捉えていた。最初に突っ込んできて、冷静にこちらの動きを窺っていた『氷狼』が、いままさに好機だといわんばかりにルシカを狙って飛びかかろうとしていたのだ。


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