双つの都 10-30 暗躍する影

 トルテは無事だ――リューナはホッと息を吐いた。十リールメートルほど低い位置、周囲が崩れかけて見通しの良くなった場所に立つ、薄暗い闇のなかでも目を惹く金髪のツインテールとやわらかな色合いの衣服が見える。


「フン! やるな、尻の青い現生界の若造が――と言いたいところだが。まだまだ詰めが甘い」


 魔法の網によって壁に張りつけられたにラムダがニヤリと口の両端を吊り上げて笑い、次の瞬間、自由であった片手首のバネだけで鉤爪めいた妖剣を投げた。禍々しい刃の飛ぶ先は――。


「なッ……逃げろトルテ!」


 叫ぶと同時に夢中で壁を蹴りつけ、リューナはトルテに迫る刃に向けて稲妻のごとく落下した。トルテは視線を上げなかった。聞こえない距離ではないというのに!


 金色の髪が流れるように揺れている。リューナはようやく気づいた――彼女は魔導の技を行使しているのだ。


 両腕を差し伸べるように掲げ、舞い踊るかのように細やかな腰を回して、立体魔法陣を組み上げる。トルテの瞳にはいま、魔導の白い輝きが煌めいているに違いない。


 リューナは蒼白になった――魔法を行使している魔導士というものは、絶体絶命なほどに無防備なのだ!


「くそぉッ!」


 彼の位置は彼女からあまりにも離れすぎていた。宙に放たれた刃を叩き落すことができない絶望的な距離――。こんなときだというのに、トルテはなんの魔導を遣っているんだよ!


 時が歩みを遅くしたかのように、届かぬ腕の先で、彼女の体が刃に貫かれようとしている。リューナの瞳が白熱し、腕に篭められた力が際限なしに強まってゆく――。


 だがそれより早く、土埃と闇の満ちた空間を、巨大な獣が突進してきた。地の底から響いてくるような唸り声が迷宮全体を震撼させる。


 ようやくトルテが顔を上げた。眼前に迫る刃の煌めきに気づいて、鮮やかなオレンジ色の瞳を見開く。


 けれどその刃は凄まじい音とともに噛み合わされた牙の連なりに噛み砕かれ、禍々しい閃光とともに消滅した。見事な牙の連なりは煙を上げるかたまりをぺっと吐き出し、乳白色の瞳がリューナを見上げて得意そうな笑みを形作る。


「す、スマイリーかよッ?」


 リューナは驚いた。トルテの身を危機から護り、ピィピィと騒いでいる古代龍と元気に手を振る幼女を巨躯の背に乗せているのは、荒野で別れたきりの『月狼王』スマイリーだったのだ。


「リューナ!」


 トルテは背を低めてくれたスマイリーのしなやかな首によじ登り、リューナに向けて大きく手を振った。リューナは一旦手近な足場に降り立ったあと、改めて幻獣の大きな背に飛び乗り、手を伸ばして抱きついてきたトルテの体をしっかりと受け止めた。


「ピュルティ、リリュティ」


 のほほんと声をあげる龍の幼児にジト目を向け、リューナは眉を跳ね上げた。


「なんだよ、心配して損したぜ。ピュイおまえ、いったいどこへ居たんだよ」


「吹き飛ばされて落っこちちゃってたんだって。おねえちゃんが気づいて、呼んだら戻ってきてくれて、外に繋がっている穴を広げるのを手伝ってくれたんだから。そしたら、すっごいんだよ! その穴からこの狼さんが入って来たんだもん!」


 ピュイの首にしがみついたナルニエが目をキラキラさせ、嬉しそうな声で事の次第をリューナに報告する。


 リューナの胸から顔を上げたトルテが、ナルニエの言葉を補足した。


「同じ世界と時間のなかで、スマイリーとあたしは繋がっていますから。……手間取ってごめんなさい。『透視クレアボヤンス』と『精神感応テレパシー』の魔法を組み合わせ、こちらの位置を割り出していたのです。ピュイの炎は魔法属性を持っていますから、壁に開いていた換気孔を広げるお手伝いをお願いしたんです」


 そこまで言って、トルテは心配そうに眉を寄せた。


「そういえば、リューナ。あの乱暴なひとはどうしたのですか?」


「あ? あぁ――」


 リューナが答えようとしたときにはもうすでに、スマイリーは身をひるがえして来た道を戻りはじめていた。


 ラムダの怒声が遠ざかる。土埃に煙っていた視界が暗転し、外から吹き込んでくる空気が首筋を掠めてゆく。スマイリーが進入してきた、外まで通じているはずの換気孔へ飛び込んだのだろう。


 内部には充分な幅と高さがあり、緩やかな傾斜になっている。


「なにを企んでいたのかまではわかんねぇけど、今回の騒ぎを起こした張本人みたいだった。『いましめ』の罠っぽい魔法構成の仕掛けがあったのを見て、足留めに使えるかなと思って誘い込んだんだ。今頃ラウミエールが拘束してくれてるといいんだけど」


 リューナは考えを巡らせながら答えた。自分たちに向けられた記憶にない怨恨を差っ引いても、あいつの世界そのものに対する憎悪も相当に深そうだった。それに、あの戦っているさなかの奇妙な感覚……。


「リューナ」


 トルテがそっと寄り添うようにリューナの胸に頬をくっつけ、瞳を伏せた。リューナは彼女の細い肩に腕を回し、抱き支えた。


「少し……疲れました」


 腕のなかのトルテが言った。いつものような快活さはなく、消え入りそうなほど弱々しい声音に、リューナは驚いて彼女の顔を覗きこんだ。


「あたし、まだまだ魔力マナを上手に遣うことができなくて、無駄遣いばっかり……どうすればいいか頭ではわかっていても、そのとおりの魔法陣をすぐに描くことができなくて。ルシカかあさまは状況を見極めて、いつもぴったり必要にされている魔法を遣えるんです。あたしも……ルシカかあさまみたいになりたい」


 トルテは揺れる羨望の眼差しを、遠くに投げかけながら言った。


「ルシカさんは特別だろ。だって宮廷魔導士なんだからさ」


「特別……そうです。みんなかあさまのことは特別だからって。でも、とうさまもおじさまも言ってたんです。特別なのは地位と魔導の力の『名』だけで、彼女自身はなにも特別なんかじゃないって。使いこなせる意思と洞察力、そして周囲を思い遣る気持ちと覚悟があるだけだって」


「ん? だったら……どうして?」


「どうすればあたしも身につけることができるかな。かあさまみたいに……」


「トルテはトルテだろ。俺からみれば、おまえもすげえよ。複合魔導はおまえしか遣えないじゃんか。それに……俺にとってトルテは、他の誰にも代わりができないんだぞ」


 スマイリーは換気孔から飛び出し、常闇に沈んだ平原を走りはじめた。地表への出口は離れた場所にあったようで、遥か後方の闇に宮殿らしき影があった。外気が心地よく、熱くなっていた頬をひんやりと冷ましてくれる。トルテの長い髪が風に流れて、リューナの腕にさらさらと当たっていた。


「リューナ……」


 抱きしめられたトルテは瞳を下げ、リューナの腕を見て微かに息を呑んだ。


「あ、リューナ。ここ、……痛くないですか?」


「ん? あ、あぁ」


 瓦礫が降っているなか、剣を振り回して戦っていたからだろうか。腕のあちこちに傷ができていた。


 『治癒ヒーリング』を遣おうとしたトルテを制し、リューナは自分で傷を癒した。トルテは疲れている――いつも魔導はトルテ任せだけど、俺は『生命』の名の魔導士なんだから、このくらいはやらないと。そう思ったリューナは続けて魔法陣を描き、トルテの負っていた傷を塞いだ。


「魔法は便利だよな。一撃で死ななきゃ、こうしてすぐに傷を塞ぐことができるんだからさ。俺は前で戦っているから怪我して当然でも、トルテにはできるだけ傷ついてほしくないんだけど」


 うつむいたトルテを元気づけようとして、リューナは冗談めかして言った。その言葉に、トルテが伏せていた顔を上げた。


「リューナ! あたしはリューナに傷ついて欲しくないんです。怪我して当然だなんて……そんなふうに言わないで……」


「トルテ……」


 ほのかに輝くオレンジ色の瞳に透き通ったしずくがあふれ、風に散った。


 『月狼』の最上位種であるスマイリーの躍動する体躯が力強く大地を蹴り、静寂の支配する闇のなかをぐいぐいと進んでゆく。背の後ろで聞こえていた幼い龍と幼女のはしゃぎ声は、いつの間にか静かになっている。


 リューナは言葉を探して口を開いたり閉じたりしていたが、真っ直ぐに向けられた眼差しと、少女のこぶしにきゅっと握られた胸のシャツに観念し、素直に言葉を発した。


「わかったよ、トルテ。軽く言っちまってごめん……できるだけ気をつけるよ」


 リューナの言葉を聞き、トルテはようやく力を抜いた。くたりとリューナの腕に体を預けるように目を閉じる。疲れのあまり堪えきれず、なかば意識を失ってしまったように、眠りこんでしまったのだ。


 後ろも静かなままだなと思っていたら、ピュイもナルニエもすでに仲良く寝息をたてていたのであった。スマイリーも気を遣ってあまり揺らさぬように駆け走っているのか、転がり落ちる懸念も必要なさそうだ。


 リューナは腕のなかで眠る少女に眼を戻した。閉ざされたまぶたの端、長い金色の睫毛まつげにひとしずくの涙が残っている。細い肩とあたたかい体を抱きしめ、涙をそっと指先で拭った。


「心配かけているのは、俺のほうなのかもしれないな……」


 進む闇の先に瞳を向けながら、リューナはつぶやいた。





 崩壊してゆく空間で、呪詛のごとき低い声が響く。


「名無き神は運命を掻き乱すのをやめられぬとみえる。だがもうたのしみは終わりだ。思い上がりには相応しい終焉を、傀儡くぐつには消滅を。どう足掻あがこうが変わらぬ。そうでなければ納得できぬ」 


 床に降り立ったラムダは禍々しき気配を発する弓を握り締め、頭上へ向けた。刹那、黒い雷撃が闇の大地を震撼させた。次いで轟き渡ったのは、闇の領域を統べる影の宮殿の半分が消失した悲鳴のような地鳴りであった。


「覚悟しておけ。このままでは済まさぬぞ……!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る