双つの都 10-31 幻精界の中心

 テロンとルシカが『転移』した先は、風の囁きすらも聞こえぬ凍りついた銀世界であった。


 起伏の穏やかならざる大地は、パウダーのごとく乾いた、握ったこぶしからさらさらとこぼれ落ちる雪に覆われていた。樹齢の計り知れぬ巨大な樹々はひとつ残らず氷となり、塔と見紛みまごうほど無機質にそそり立ち、不思議な色模様をにじませる空と銀の大地とを繋いでいる。


 ドウドウと音を立てて流れ落ちていたに違いない滝は、内に幻想的な光を宿す氷柱つららの巨壁となってそこにあった。滝つぼはきらめく一枚鏡、滝の飛沫はさながら散り撒かれた金剛石ダイヤモンドのよう。


 滝つぼのそばには、五柱の並ぶ屋根がかけられ、五芒星が描かれている建物があった。


 屋根の下に描かれていた魔法陣に、一瞬、まばゆい光が爆発した。氷に閉ざされた光景を燦然たる煌めきに染めあげたあと、光は急速に薄れていった。光が消えたあとに残されたのは、背の高い人影と小柄で細やかな人影のふたつ。先に壇を下りて大地に降り立ったのは、背の高いほうだ。


「この世界には驚かされることばかりだな」


 周囲を見回し、テロンは感嘆の溜息をついた。空気までもが凍てつくような外気の低さに、息が塊となって漂い消えてゆく。


「本当、とてもきれい」


 ルシカが白い息を吐きながら、テロンの傍らに進み出る。彼と並んできらきらと輝く周囲の光景を眺め渡し、オレンジ色の瞳をゆっくりと微笑ませた。


「世界は――アーストリアは広いのね。別次元だから広いという感想は当てはまらないかもしれないけれど、こんなに圧倒的な広がりを見てしまったら、他にもまだまだ見てみたくなってしまうわ。こんなときだけれど、ドキドキと胸が落ち着かなくなってしまうの」


「ルシカらしい感想だな」


 テロンは微笑み、手にしていた外套のひとつを彼女の肩にかけ、その体を包み込んだ。ここへ『転移』によって送られてくる別れ際に、銀紗と綿とを幾重にも重ねて圧縮したように不思議な光沢をもつ外套を、ルシカはエトワから与えられていた。みっしりと詰まった不思議な素材は風を通さず、たっぷりとしていて、とても軽い。


「寒くないか? ルシカ」


「充分暖かいわ、テロン。そうね、こうすればもっと大丈夫かな?」


 ルシカは右腕をふわりと回し、宙に魔法陣を描き出した。青の光がはしり、ふたりの体を包み込む。光がふわりと溶け消えると、剥き出しの肌に当たっていたひりつくような寒さが和らいだ。魔導の技による、寒さから身を護る手段なのだろう。


「ありがたい。けどルシカ、あまり無理はしないで欲しい。本来ならばたっぷり休んでいなければならないはずなのだから」


「平気よ、テロン。こうして無事に生きていられるだけでも、感謝、感謝。それに、あの子を残してあたしは死なないから、だから大丈夫よ!」


 ルシカは冗談めかした明るい口調で言い、次いで真顔に戻った。何か重要な事柄を語るときのように、息を細く吸い込み、唇に指の関節を押し当てるようにして。深く考え込むときの彼女の癖だ――少しでも自重してもらおうと口を開きかけていたテロンは、思わず言葉を飲み込んでしまう。


「それにしてもおかしいわ。幻精界って本来、あたしたちの現生界よりずっと自然の恵みに満ちあふれた場所であるはずなの。どこも精霊と呼ばれる活動的な魔力マナが多く存在していて、大きな変化もなく、いつまでも変わらぬ悠久の流れにある。……それなのにこの場所は、凄まじい変化を被っているわ。こんなに大きな滝が凍りついているし、樹までもが完全に……」


「確かに……そうだな。植物たちには生きている気配が感じられない。それどころか、冬の森とはいえ、普通なら冬眠中の獣や餌を求めて徘徊する魔獣なんかの気配が感じられるものだが……ここは静か過ぎる」


 テロンは傍らに立つ樹に手で触れてみた。生まれ育ったソサリア王国は大森林地帯をふたつも有する大陸北方の緑豊かな土地なのだ。ここでは馴れ親しんでいるはずの森の匂いもせず、雪の感触も全く異なっている。


「エトワたちは、幻精界全体を巡っているはずの魔力が堰き止められていると言っていたな。その影響で草花や樹々たちも、枯れ果ててしまったのだろうか」


「おそらく……枯れるよりも早く、環境が変わったんだと思うわ」


 テロンの言葉にルシカは首を振りながら答え、周囲に眼を向けつつ言葉を続けた。


「世界の中央にアウラセンタリアを配し、光の領域と闇の領域、そして四大元素と呼ばれる火、風、水、地の属性領域が織り成す豊かな大地。人智を超える恵みと脅威に満ちあふれた幻精界。けれどいま、光と闇の領域は遠く引き裂かれ、他の属性領域はあちこちに散ってしまった……」


 ルシカは遠くに視線を投じながら、語り続けた。


「まるで配色を間違ってしまったパッチワークのように、混沌としたでたらめな色模様に仕立て上げられてしまったのね。ここも緑豊かな――おそらくは水の属性領域であったはず。雪に埋もれて見えないけれど、あちこちに凍りついた泉や小川、もっと遠くには大きな湖の存在を感じるから」


 魔導の力というものは、研ぎ澄ませた感覚と同じものらしい。自らの魔力を開放して意識を広げることで、地形くらいは感じ取れるのだ。テロンは心配になってしまう。ルシカがまたもや魔導の力を遣っているらしいからだ――たぶん無意識のことだろうとはわかっているが、テロンは気が気ではない。


「とにかく時間がないんだ。移動しよう、ルシカ」


「あ、うん、そうね」


 彼女の魔導を中断させようと声をかけたつもりだったのだが、慌てたように一歩を踏み出したルシカは足もとを滑らせた。「きゃっ」と声があがると同時にテロンは動き、彼女が雪のなかに突っ伏す前にその体をすくい上げた。


「ごめんね、ありがとうテロン」


 ルシカのすべらかな頬が赤く染まっているのが、寒さのせいなのか、それとも彼に抱き上げられたからかは定かではなかったが、テロンは自らの頬が熱くなるのを感じながらも彼女を降ろそうとはしなかった。


 それに気づいたルシカが、腕のなかから戸惑ったように彼を見上げてくる。


「テロン……?」


「戦闘以外はこうして、休んでいて欲しい。魔力も体力も、温存しておくのが最善だろ?」


「やだ、気を遣わないで。あたしは平気だから」


 かすかにもがいた彼女の唇に口づけると、抵抗が止んだ。顔を離すと、すべらかな頬を膨らませて上目遣いに彼を見つめるオレンジ色の瞳があった。


 テロンの意思を覆せぬことがわかっているルシカは、可愛らしい膨れっ面をすぐに和らげた。観念したようにそっとテロンの胸に寄り添うようにもたれかかり、小さな息を吐いた。


「……そうね」


 テロンは歩き出した。雪は深く、膝まで簡単に埋まってしまう。本人の足で歩かせたならば、小柄なルシカにとっては辛い強行軍になっていただろう。体術で戦う者の常として筋肉を鍛え上げているテロンにしてみれば、彼女を抱いたままの移動であっても苦にもならなかったのだ。


「あちこち乱れているのね、精霊たちも居ないみたいだし……手遅れにならないといいけれど」


「ティアヌならば、精霊たちがどうなっているのか詳しいことがわかったかもしれないな」


 テロンはエルフ族の友人の名を口にした。ふたりにとって、一緒に戦った戦友である。彼は魔術師であり、自然魔法に長けたエルフ族であるために、精霊という存在がはっきりと知覚できるのだ。のほほんとして物柔らかな言動の若者だが、彼と一緒に旅をしているフェルマの少女リーファとコンビを組んだときの強さは頼りになるものだ。


 彼らとの出逢いは、魔法王国の遺産『破滅の剣』を巡る騒動の折――。


「生きて、あなただけでも……か」


 単調な雪上の移動で、様々なことを思い出していたからだろう。つぶやいてしまったテロンの独白に、ルシカが顔を上げた。


「その言葉って……。あのとき、あたしがあなたに向けた……?」


 しまった、と思ったが遅い。テロンは観念したように頷いた。


「すまない。当時のことをいろいろ思い出していたんだ。あのときほど俺は、自分の力の至らなさを思い知ったことはない。だからこそ、これからはルシカを必ず護り抜く、そう自分に誓ったんだ」


「テロン……ごめんなさい、あれはあたしの勝手過ぎる判断だったもの。謝らなければならないのはあたしのほう」


「いや。あのときルシカが結界を張って外と切り離してくれなかったら、ハーデロスは王宮ごと王都を消滅させていた。みなが必死で為すべきことをしていたんだ。ルシカの選択は間違っていなかった」


 『無の女神』ハーデロスの破壊の力から王都に残る大切なひとびとを護るため、ルシカは生命そのものを魔力に変えて魔導に注ぎ込んだ。倒れる直前、ルシカが声なき声でテロンに向けて伝えた、彼女の最期になるはずの言葉だったのだ。


「もう無理はしない。あたしはあなたに約束したんだもの。それに……いまはもう帰らないわけにはいかないから」


 ルシカが言い、テロンも力強く頷いた。ふたりの声と想いが重なる。


「必ず無事に、あの子のもとに」


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