双つの都 10-18 幻精界の友

「リ、リューナ」


 トルテが唇を薄く開き、喘ぐような呼吸を洩らしはじめている。全力で駆け続けているので、息があがりつつあるのだ。


「ピューリ、ピリュイ!」


 トルテの傍で必死に翅を動かしているピュイがいた。トルテほどの意思の疎通はできないが、言わんとしていることは想像がつく。


「リュ、ナ。どこ……へ、向か……の、ですか」


 左右にも前方にも、見える範囲には荒野が続いているばかり。トルテもピュイもリューナほどの持久力はない。野生の狼を超える速度で追いすがってくる幻獣たちを相手に、引き離すことはできそうになかった。ことに、身を隠すこともできぬ礫岩だらけで起伏すらない、どこまでも続く平地では。


「こうも暗くちゃ、どこに何があるのかもわからない。振り切れないなら戦うか……!」


 トルテに答えたその瞬間、リューナの首筋が総毛立つ。トルテの体を前方へ突き飛ばし、空いた手に剣を掴んで一閃、すぐ傍まで追いすがっていた月狼の前脚を斬った。


 つんのめるように倒れた一体の背を蹴って次の幻獣が踊りかかってくる。圧し掛かられたリューナは手首の返しで戻した刀身で牙をはばみ、蹴り上げるようにして強引に狼の体躯を引き剥がした。鉤爪に掻きむしられた衣服の切れ端が視界を掠める。背のナルニエが悲鳴をあげた。


 すっかり取り囲まれている。頭上に浮かんでいる魔法の明かりが、絶体絶命の光景をひどくあざやかに照らし出していた。


 野生の獣とは明らかに違う煙色の眼球がギラギラと燃え上がり、はっきりと憤怒のいろを宿していた。獲物に出し抜かれ、苛立たしい追跡劇につき合わされて、激しい憤りを感じているのだろう。


「こっちだって、黙って喰われるわけにはいかないんだ」


 リューナは愚痴めいた怒りの言葉をつぶやきながら剣を構えた。古代龍の子である幼龍ピュイが雄々しく唸り、体勢を低めて応戦の構えをとる。トルテはリューナの背から降りたナルニエを腕にかばいつつ、精神を張りつめて魔導行使に備えた。


「やるしかねぇか!」


 リューナは覚悟を決めた。


 誰かが礫岩を踏み割った音をきっかけに、幻獣たちが猛然と襲い掛かってきた。トルテが援護魔法を展開し、あたたかな光が輝きが刹那、リューナの体を包み込む。同時にリューナは「来い!」と声をあげて剣を閃かせ、トルテへ向けられかけた攻撃を自分へ向かうよう挑発した。


 跳び掛かってくる幻獣たちに向け、容赦のない斬撃を叩き込む。魔法属性を付与エンチャントされた長剣が幻獣たちの体躯を切り裂き、突き上げ、牽制けんせいする。


「むッ……こんな時にッ!」


 剣に纏わりついている輝きが薄れている。『武器魔法強化エンチャンテッドウェポン』の魔法効果が切れかかっているのだ。このままでは魔法が消え失せ、武器攻撃そのものが無効となってしまう。リューナは舌打ちした。幻獣は、肉体をもたぬ純然たる魔力マナそのもの。本来、現生界の金属では傷つけることもできぬ特殊な存在なのだ。


 乱戦となったいま、準備動作はおろか精神集中する暇さえないリューナに魔導の技は難しい。光が消えればトルテが気づき、魔導の技で同じ魔法をかけようとするだろう。幻獣たちの狙いが自分に向けられることを承知した上で。


 度重なる挑発では、そろそろ幻獣の注意を自分に向けることが難しくなりつつあるのだ。こちらの魔法を遣うしかないか――手にしている剣を投げ置き、喰らいつかれる覚悟で、魔導の剣を具現化する『物質生成クリエイト』を実行しようとした。


 その瞬間、圧倒的な闇の気配が、ズン! と地響きを立てて眼前に降り立ったのである。


「新手かよ!」


 凄まじい殺気にリューナは飛び退き、トルテの傍に着地した。首を仰け反らせるようにして頭上を見上げる。


「まぁ……!」


 トルテが片手で口を覆い、目を見開いて驚きの声をあげた。ナルニエが喉の奥で悲鳴を呑み、驚愕のあまり硬直してしまう。リューナはギリと奥歯に力を籠め、こぶしを握り締めた。


 そいつは、他の月狼とは桁外れな巨躯をもっていた。地の底から這い登ってくるように低い、低い唸り声は、まるで大地に轟く地鳴りそのもの。空のない常闇の空間を震撼させるほどの、圧倒的な存在感。礫岩を踏みしだく脚の一本一本が、図書館棟を支える柱ほどの太さがある。


 喉奥から噴き上がり牙の連なりを越えて吐き出される息の熱さ、ずらりと並んだ剣呑な歯並びと鋭い牙。遥かな高みからこちらを見下ろしている巨大な眼球は、満月のように冴え冴えとした光を放っている。その乳白色に輝くまなこが周囲をひと睨みすると、他の幻獣たちの唸り声がぴたりと止んだ。


 こいつには全力を尽くして立ち向かわねば、勝てるかどうかわからないな。リューナは目をすがめて背負っていたナルニエを降ろし、トルテのほうに押しやって、自身の右腕を真横に伸ばした。瞳に力を籠めて右腕で宙を薙ぐと、なにもなかった右腕の先に魔導の剣が出現した。死闘への準備が整う。


 けれど――なんだ、この違和感は。リューナはいぶかしみ、周囲に視線を走らせた。攻撃を繰り返していた幻獣たちのほうが、この新たな相手を恐れているようにみえるではないか。大きさや気配に圧倒的な差はあるが、同じような狼の外観をもっている仲間ではないのか。


 巨躯は揺るぎなく眼前に立ちはだかったまま、動こうとしていない。来ないならこっちからいくぜ――魔導の剣を真天へ向けて真っ直ぐに構え、膝をたわめるように深く沈ませる。


「待ってリューナ! 傷つけないで」


 思いもよらぬトルテの言葉に、リューナの動きが止まる。


「なんだって?」


「わかりませんか、リューナ。忘れてしまったのですか?」


 逆に訊き返されてもなんのことだかさっぱりわからない。「はぁ?」と、自分でも間が抜けた声だと痛感しつつも首を捻るしかなかった。


 グルルルルルルゥゥッ。


 頭上から、いかにも忌々いまいましげな不満そうな、憤懣やるかたない唸り声が浴びせられる。まるでいかにもこちらの会話を聞いていて、反応しているような――。


「あ? もしかしておまえ……」


 トルテがなにを伝えようとしているかにようやく思い至り、リューナの全身から一気に力が抜けた。


「……スマイリーか?」


 答えの代わりに降りてきたのは、巨大な牙顎のひと噛みであった。紙一重で避け、リューナは相手を憤然と見上げ、睨みつけた。


「あっぶねぇなぁオイ! それが久しぶりに逢った仲間にする態度かよ!」


 スマイリーは取り澄ましたように喉を上へ逸らし、巨大な後脚で腹のあたりを掻いてみせるのであった。リューナの口もとがへの字に歪む。わざわざ言わなくてもいいのに、トルテがにこにこ笑いながら口を開いた。


「忘れられて心外なのはこちらのほうだ、ですって、リューナ。さっき剣を構えていたように見えたがどういうことだ、と」


「わぁああ、もう! し、仕方ねぇだろ! トルテにとっては一年ほど前のことかも知れねえけど、こっちにとってはあの大陸消失から三年も経っているんだぜ。あぁ、もう、わーったよ、悪かったよ! ごめんな、スマイリー。正直言ってこんな場所で再会できると思ってもみなかったんだよ」


 スマイリーは片目でこちらをギロリと睨みつけた。かわいくねぇったら――リューナは不貞腐ふてくされてしまった。


「でも、本当に嬉しいですわ、スマイリー! 無事でよかった……周りの幻獣たちは、スマイリーの眷族けんぞくなんですね」


 さきほどまで大気を満たしていた殺気は、すでに微塵もなかった。傷を負った狼も尻尾を垂らし、巨大な『月狼王』たるスマイリーに付き従うように大人しく控えている。


「こいつら、俺たちを喰おうとしたんだぞ」


 思わずリューナが愚痴をこぼすと、ナルニエが可愛らしい声をあげた。


「すっごぉい、きれいな狼さん! もしかしてあなた、『光の都』を知りましぇ――知りませんか? もしかしてひょっとすると、乗せて行ってくれちゃったりなんかすると嬉しいんだけどなぁ」


 甘えるように狼を見上げている。


「うおっ、その手があったか! トルテ、スマイリーに頼んでくれないか。俺たちいきなりこんな真っ暗な場所に出て、困ってたんだよ。せめてそのトゥーリエっていう都市の位置か方向でもわかれば、ありがたいんだけど」


 グルルル、ウゥゥゥ。


 スマイリーが考え込むように目を伏せ、鼻を鳴らした。


「そっか、おまえ、こっちの言葉がわかるんだもんな。しかしおまえ、あれから二千年くらい経っているのに、ぜんっぜん変わらないんだな」


 トルテがリューナにくるりと顔を向けた。魔法の光のなかでもはっきりと見える大きな瞳が、きょとんと瞬きも忘れたように見開かれている。


「ん? 俺……またなんか変なこと言ったのかな」


「あ、えっとですね、リューナ。この幻精界では、時間の流れ方がまったく異なるんですよ。ある意味、停滞しているともいえます。あたしたちがこの世界を自分たちの世界と同じように認識していると――。え、どうしたんですか、スマイリー。『光の都』まで向かう途中に、なにか困ったことでも……?」


 言葉の途中で、トルテが『月狼王』に反応した。以前に繋がれたスマイリーとの心の遣り取りが、今でも続いているのだろうか。怪訝そうな表情になった彼女が『月狼王』に視線を向けようとして顔を仰向けたとき。


 突然、凄まじい光量の光がすぐ傍で爆発した。スマイリーが片前脚を上げ、鋭い唸り声を轟かせる。彼の前脚があった大地に、もりのように剣呑なとげのある禍々しい矢が突き刺さっていたのだ。


「――な、なんだよこれッ?」


 黒い雷撃でも落ちたかと思っていたリューナは驚いた。決して自然のものではない形状。明らかに知性ある存在によって製造された武器だったのだ。


 矢の突き立った角度から射てきた場所を素早く割り出し、リューナとスマイリーが同時に顔を向ける。闇を透かし見ることはできなかったが、いつの間にか離れた場所に異質な気配が数多く生じていた。


 堂々とした声音が闇の大地を震撼させ、轟き渡った。


「獣たちは失せろ」


 不思議な抑揚をもつ言葉は、背筋の凍りつくような迫力と重圧を伴っていた。周囲の幻獣たちが撲たれたかのように頭部を低め、じりじりと後ずさってゆく。


 平然としていたのはスマイリーのみ。その彼もが、僅かに開いた顎の隙間から忌々しげな唸りを発している。


「敵か」


 リューナは愛用の長剣を拾いあげた。トルテとナルニエを自分の背後にかばい、魔導の力を宿した瞳に力を籠める。


 トルテは思慮深げな眼差しで、声がしたとおぼしき方向をじっと見つめていた。


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