双つの都 10-17 幻精界の友

 失敗は許されねぇ――ギリッと奥歯を噛みしめ、重量のある長剣を片腕で揺るぎなく眼前に構える。


 リューナの残る片腕は背に回され、ナルニエの小さな尻をしっかりと支えていた。万が一にも、落とすわけにはいかない。彼の背に体重を預け、同時に命までも預けてくれたのだから。


「なんとかなりそう?」


 衣服の襟元を握りしめる幼女のこぶしが、ほんの僅かに震えている。


「あぁ、なんとかするさ。必ず」


 陽気な声になるよう努めながら答え、リューナは眼差しに力を籠めた。狼の体躯をもつ幻獣たちをめつける。


 幻獣たちの唸り声が高まってゆく。一触即発の気配に、周囲を取り囲んでいた闇が圧し掛かるように濃くなっていった。


「トルテ、いいか。奴らに隙ができたら自分に向けて複合魔導を遣うんだ。ピュイは自分で飛べるだろ、なんとかしろ」


 背後に向けて早口に伝え、リューナは口のなかで詠唱をはじめた。


 狼の体躯をもつ巨大な幻獣たちは、容赦なくじわじわと、確実に包囲を狭めつつあった。間に合うか――『月狼ムーンウルフ』たちの肩が沈み込み、しなやかな体躯に並ならぬ力が籠められるのをリューナは肌で感じた。


 魔力マナそのもので構成された獣であっても、狩りをして食物を得なければ生存できないのだろうか。濃い魔力に惹きつけられるなら、他者の魔力を奪い取ることで生きながらえるのか――なぜ自分たちが襲われなければならないのか。次々とこみ上げてくる理不尽な思いを問いただしてやりたいくらいだ。


 やくたいもないことに思考を飛ばしつつも、一字一句の誤りもなく幼少の頃より慣れ親しんできた魔術の言葉を唱え切った。魔法効果が現れ、速やかにリューナの全身を包み込む。運動を司る神経のひとつひとつが研ぎ澄まされたように鋭敏になり、全身の筋肉が鋼のごときしなやかさと強靭さを宿した。


「いくぜッ!!」


 リューナは地を蹴り、一歩前へと跳躍した。その動きは、まるで地に放たれた雷撃そのもの。魔法の為せる技だ。


 凄まじい勢いで距離を詰められた幻獣たちに動揺が奔る。


 幻獣たちの進行が止まった。苛立たしげな唸り声と発し、脚を踏みかえてリューナに――正確にはその背にかばわれた濃い魔力マナの輝きを放つ幼い体に狙いを定めるため、体勢を変えたのだ。


 その隙にリューナは瞳を伏せ、次なる魔法行使のための精神集中を完了させていた。一見無防備なその姿に、巨大な体躯が牙と目をぎらつかせて一斉に襲い掛かる。


 腕を突き上げ、ここぞとばかりにリューナは魔導の技を遣った。緑に輝く魔法陣が展開され、虚空に色のついた風が生じた、次の瞬間。


 ゥルゴゥッ! という凄まじい音を轟かせ、逆巻く真空の渦がリューナを取り巻き、螺旋らせんを成して一気に天へと駆け上る。幻獣たちは烈風障壁となった魔導の渦に巻き込まれ、次々と宙高く弾き飛ばされた。


 鉤爪を大地に喰い込ませ、かろうじて踏みとどまることのできた狼たちも、障壁の内より瞬時に距離を詰めてきたリューナの長剣によって切り裂かれ、或いは遥か後方へと弾き飛ばされていた。


「トルテ!」


 叫ぶまでもなかった。視界の隅で魔導特有の輝きが弾け、大輪の花弁のごとき立体魔法陣が瞬時に咲き開く。その細やかな体に飛翔族さながらの自由な翼を得て、トルテが空中に舞い上がる。『飛行フライ』の魔導の技だ。彼女のあとを追い、自前のはねを打ち羽ばたかせるピュイが続く。


 背負われたナルニエに向けられていた幻獣の注視が、一斉にトルテへと動いた。素早い三体が垂直同然の崖の斜面へ向けて地を蹴り、僅かな突起を足がかりにしてさらに跳躍する。空中にあるトルテへと一気に迫る――。


 リューナは全身の筋肉をたわめて弾丸のように駆け出した。『倍速ヘイスト』の効果を活かした小刻みな跳躍を繰り返して絶壁を駆け登り、空中にあった幻獣たちに追いつく。


「させるかよぉぉッ!」


 『倍力インクリーズパワー』で背丈ほどもある重い長剣を風車のように振り回し、力任せに二体を底へ叩き落す。トルテの眼前に迫っていた残り一体の頭部を空中で思いっきり踏みつけて腕を伸ばし、トルテの腰をかっさらって再び跳躍し――なんとか崖上まで到達することができた。


 剣を握っている腕に抱いたトルテを傷つけることのないよう、充分に気を配りながら着地を決める。ピュイも追いつき、傍の地面に突っ伏すように降りてきた。


「みんな……無事か、良かった」


 リューナはホッと息を吐き、ようやく自分たちの置かれた状況について考える余裕ができた。


 崖上にたどり着いてわかったことだが、ここはどうも広大な大地に深く刻まれた巨大な亀裂の一部だったらしい。亀裂自体はどこまで続いているのかもわからぬほどに長く、光の届く範囲を遥かに超えて左右の闇の彼方へ溶け合わさっている。


 リューナが魔法で作り出した光球は、いまも崖の中途の高さに留まっているままだ。覗き込むようにして首を伸ばし、谷底めいた亀裂のなかを見下ろすと、幻獣たちがうろうろと歩き回りながら悔しげな咆哮を轟かせ、絶壁を登ろうと鉤爪を突き立てている様子が窺えた。


 ざまあみろ、とばかりにニヤリと笑いながら、覗き込んでいた姿勢を戻したリューナであった。だが次に周囲を眺め渡し、いま立っている大地の広大さと果てのない様子に気づいて、すっかり当惑してしまう。


 傍に立っていたトルテが、心細げな目でリューナに体を寄せてきた。


「知りませんでした。幻精界って、こんなにも暗くて広いんでしたのね……。もっと明るくてのんびりとした場所に出るのかと思っていました」


 彼女の小さな声が闇に吸い込まれていく。


 空とおぼしき頭上を見上げて目を凝らしてみても、月の光はもちろんただひとつの星明りでさえ見つけることができなかった。


 リューナの襟元を握りしめていた幼女が、伏せていた顔を上げた。はっきりとした口調で、ナルニエは言った。


「ここ、ナルの憶えている光景と違うよ。ナルの住んでいたところには、どこもいっぱい、光があふれていた気がするもん」


「幻精界であることは、間違いないんですか?」


「うん」


「俺たち、きちんと次元を渡る光の道を通ってきたよな」


 正直言って、道と呼べるのかどうかすらわからない不思議な空間だったが、間違ったという感覚はなかった。出口である場所は確かに最悪だったけどな……リューナは口のなかでつぶやいた。


「光の道というのは、必ずしも知っている場所に出るとは限らない、ということなのでしょうか……」


 トルテが首を傾げつつ、周囲に向けて目を凝らしている。魔導の瞳で周囲を探ろうとしているのだろう。


「……確かにあたしたちの現生界とは明らかに雰囲気が異なっています。幻精界だという確信はありますけれど、どの方向へ向かえばよいのか判断できません。暗すぎて……。こんなに広くては、『光領域ライトエリア』の魔法を行使するわけにもいきませんし」


「おいおい、世界中を真昼にするつもりかよ、トルテ」


「だめだよ、おねえちゃん。とてもじゃないけど、ぜぇぇんぶに魔法をかけようだなんて、魔力マナがすっからかんになっちゃうよ。だって、世界はすっごぉぉく広いんだもん」


 リューナの背から滑り降りながら、ナルニエが言わずもがなの説明をした。しゅたっと着地を決め、得意そうな笑顔になって言葉を続ける。


「ナルたちの住んでいた光の領域と闇の領域だけでも、ものすんごおぉぉぉく広いんだもん。だから――て、あ、もしかしてここって……」


 小さな両手をいっぱいに広げて力説していたナルニエが、考え込むように言葉を切る。トルテが先を継いだ。


「闇の領域かも、ということですか? 世界を支える四大元素、そして光と闇。そういえば、森羅万象、現生界の自然の営みというものはほとんど、少なからずこの幻精界の影響を受けていると聞きます。もしかしたら始原より昔には、現生界と幻精界は、親密に繋がっていたのかもしれませんね。だから――」


 トルテの話が違う方向へ逸れはじめたとき、リューナの背筋にぞくりと冷たい感覚が走った。弾かれるように振り返った先は大地が裂けた場所、いましがた登ってきた深い亀裂である。


 まさか――と思った瞬間、リューナの残してきた魔法の輝きが、まるで鋭利なもので砕かれたかのような衝撃音とともに消失した。周囲の光景が再び闇に塗り込められる。


「――っと、まずいかもな、トルテ」


 リューナの研ぎ澄まされた感覚が警鐘を鳴らしている。群れ成す熱い息づかいと鉤爪が岩壁に食い込む無数の破砕音、そして凄まじいまでの憤怒の気配が、自分たちへ急速に迫りつつあるのを捉えたのである。


 幻獣たちの気配は、この幻精界ではいやに生々しく感じられる。まるで過去へ飛んだときに出逢った幻精界の獣王スマイリーがトルテの魔導で実体となっていたときのように。


「走れ! トルテ、ナル、ピュイ!」


 リューナは皆を急かした。暗闇のなかでほんのりと輝きを発しているナルニエを再び背負い、感覚を頼りにトルテの手を掴んで走り出す。


 幻獣たちは諦めていなかったのだ。


 そも、野獣や魔獣とは知性の違いがある。姿は狼めいた下位種であり人語を解するほどに賢くはなくとも、それなりの知恵は回る。一筋縄では行かぬ相手であったのだ。執拗に追いすがってくる。


 幻獣たちには、闇中であることなどなんの妨げにもならないらしい。別の感覚器を有するのか闇をも見通す視力をもっているのか、揺るぎのない足取りで迫ってくる。追われているほうは岩や段差につまずき、体勢を崩しつつ必死に駆けているというのに。


「厄介だな――クソッ」


 背負っているナルニエの尻を支えている片腕で剣の柄を握り、空いていた片腕でトルテの手を掴んでいるのだ。ためらいつつもトルテの手を離し、空いた片腕ですばやく魔導の技を行使した。空中に『光球ライトボール』の輝きが出現する。


 その魔法の輝きを空中に従えるように浮かべて、転びかけるトルテの腕を素早く掴む。


 足もとが光に照らされ、駆け走るのが容易くなった。だが、まさに夜闇に輝く月さながら、相当に目立つものを作り出してしまった。


 仕方がなかったのだ。どうせリューナに背負われているナルニエの、生命たる魔力マナそのものの放つ輝きは消せやしない。駆け走る先の大地がぽっかりと無かった、などというほうが遥かに危険だ。


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