双つの都 10-6 ソサリアの護り手たち

 腕の中のルシカの体が燃えるように熱い。早鐘のような鼓動が、浅く繰り返される苦しげな呼吸が、彼をかした。


 医療術者や侍女頭の名を呼ばわりながら階段を駆け下り、きたるべき時の為にしつえてあった部屋を目指す。そのときのテロンはあまりにも必死で、どこをどう走ったのか定かではない。


 ルシカが然るべき者たちの手に委ねられ、ようやく落ち着きを取り戻したときには、せわしなく駆け回る侍女や女官たち、助産師、『癒しの神』の司祭や王都から呼ばれた医療術者たちが歩き回っているさなかに立ち尽くしていた。


 王宮の西棟の最上階、ルシカのために整えられた医療設備の揃う室内だ。天井が高く、清潔で広さも充分にあり、両手の指を超える人数が駆け回っていても充分な空間が確保されていた。さきほど最奥の寝台にルシカを運び、駆けつけたメルエッタに腕を引かれ、手前の部屋まで戻って待機させられていた、というわけだ。


「順調とのことです。いまはまだ陣痛の間隔が長く、生まれるまでには時間がかかりそうですよ」


 年老いてもなお背筋を真っ直ぐに伸ばしているメルエッタが、はしばみ色の瞳に浮かんでいた厳しい光を緩め、口もとを優しくほころばせて言った。


「さぁ、テロンさま。これからがルシカさまにとっても、生まれてくる赤ちゃんにとっても最初の試練、ひどく苦しくつらい時間になりましょう。それさえ乗り越えれば、喜びに満ちた新しい時間がはじまります。今はただ、ルシカさまの傍に居てあげてくださいませ」


 テロンは頷き、導かれるままルシカの横たわる寝台の傍まで進んだ。メルエッタが静かに後方へと引き下がる。


 気配と足音を感じたのだろう。ルシカが目を開き、弱々しげな眼差しでテロンを見上げた。


「ありがとう、ごめん……こんなに痛いものだと思わなかった。これからもっともっと痛いんだろうね……怖いくらい」


 どんなに強大な敵と対峙しても怯えることなどなかったルシカが、迫りくる時を感じて恐怖に顔色をなくし、涙すら浮かべている。


 余程の痛みであったに違いない。


「俺が代わってやれるなら、そうしたいよ」


 思わずテロンがそう言うと、ルシカは一瞬だけ呆気にとられたような表情になり、テロンの眼をじっと見つめた。と思うとすぐに笑いはじめたのである。


 次いで呆気にとられたのは、テロンのほうだった。


「テロン……ふふっ、あ、イタタタ……あ、ううん。だいじょうぶ。おなかに力が入っちゃっただけ。ごめんね、つい笑っちゃったりして。あなたに元気と勇気をもらったっていうか……安心したっていうか。ふふ、代わってやりたいだなんて、本当にあなたらしい」


 ルシカはオレンジ色の瞳に力を取り戻していた。汗ばんだ額に金色の髪を一筋張りつけて、優しげなカーブを描く眉をきりりと上げて。


「うん、あたし、頑張るね! お母さんがこんなんじゃ、おなかのなかにいるこの子も不安になっちゃう。だからあなたも、あたしのことを考え続けていて。ふたりの祈りが、この子の力になりますように。無事に生まれてきますように。あなたの想いが、あたしに勇気をくれるように」


「愛している、ルシカ。きっと大丈夫だ。君ならできる」


 テロンは力強く頷き、自身の瞳に不安など映さぬよう力を篭めて、ゆっくりと微笑んでみせた。ルシカの細やかな手をしっかりと握り、祈るように深く瞑目する。


 ビクリ、とルシカの手が震えた。テロンは驚き、すぐに眼を開いた。


「ルシカ……どうしたっ」


 テロンの声に驚いたのか、周囲で続いていた物音がぴたりと止んだ。


「……あぅっ!」


 ルシカのあげた声は、さきほどまでの陣痛によるものとは明らかに異なっていた。テロンの手の中で震えるルシカの手、横たわっていた身体、それら全てから感じられていたルシカの生命が――魔力マナという生命の気配そのものが、ぶれるように不確かなものへと変化としたのだ。


 テロンは物も言わずルシカの肩を掴んだ。まぶたをぐったりと閉じたルシカの体温が、急速に失われてゆく……。なにか重要なものがふたつに引き裂かれ、ルシカの体を離れていく感覚がテロンの腕に伝わってきた。


「はやく、はやく来て! ルシカさまがっ」


 異常に気づき、背後で誰かが叫ぶ声が聞こえた。それら全てが、テロンにとって遠い世界の出来事のように感じられた。


 ルシカが――テロンは信じられない想いで腕の中の愛妻を見つめた。どうしてこんなに唐突に、一体何が起こりつつあるというんだ!


 引き裂かれているのは生命なのか、魔導士ゆえに常人より濃く体内に抱えている魔力マナのせいなのか。こんなときに、何が……。テロンはルシカの腹に手を置いた。背後から突進してきた誰かがテロンの肩を掴み、別の誰かが寝台の反対側から彼女の上にかがみこんだ。容態を診ようとしているのだ、と遅れて気づいたその瞬間。


 凄まじい光量が眼前で弾けた。


 あまりの光の強さに、視界が真っ白に染め上げられる。感じているのは咄嗟に抱きしめたルシカの細い体とやわらかな肌――そして、一瞬にして大気に満たされた爽やかな香りだった。テロン自身やルシカのものではない、まるで薬草ハーブや青々とした草原を思い起こせる透明感を伴った香りであった。


 周囲にあった様々なひとびとの気配が消え失せている。ひとつの物音もなく、しんと静まり返っている。そこに、風が吹いた。すずやかに吹いた自然の風――窓のない室内であったはずなのに。


 無意識のうちに閉じていたまぶたを、ゆっくりと押し上げる。テロンは膝をつく姿勢で、腕の中にルシカをしっかりと抱きかかえていた。さきほどまでの苦悶がまるで嘘のように、穏やかな表情で呼吸している。鼓動が、彼女の膨らみの内でしっかりと繰り返されているのが伝わってくる。


「ルシカ……生きている、良かった。だがここは……いつの間にかどこかに『転移』したのか? ここは一体……」


 つぶやく声が果たして自分のものなのか確信がなかった。それほどまでに現実離れした光景が彼らの周囲を取り巻いていたのである。





 そこまで語り、テロンは長く息を吐いた。


 当時の記憶がまざまざと脳裏によみがえり、心に感じていた圧し掛かってくるような感情と懸念、そしてこれから語ることになるであろう物語を脳裏に描くだけでも相当な労力が要るに違いないことに思い至ったからだ。


「長くなるぞ、兄貴」


「ゆっくりでいい。だがこの際だ、しっかりと聞かせてくれ、テロン。あるがままを語ってくれて構わないから」


 兄の瞳の奥にあるのは、好奇心だけではない。弟テロンやルシカのことを心配する気持ち、そしてこれから出産を迎えるであろう妻マイナのことを想って、どうしても自分の耳で聞きたいのだろう。今まで深く聞いてこなかったことのほうが、むしろ信じられないほどであった。兄の性分を知っているがゆえに、なおさらに。


「次元の門を開き、俺たちを『転移』させたのは、ルシカの命を救うためだったんだ。こちらの世界から俺たちが消えたことで、みなに心配させてしまったことを気にしていたが、どうしようもなかったらしい。俺たちが到着した場所は『光の都』トゥーリエ、あの世界に存在している双つの都の片割れだ。そこに程近い風と光の領域の草原に、俺たちは現れた。なかば強引な方法だったというけれど、彼らにとってはそれが精一杯だったんだよ」


「彼ら……? それはまさか」


「ああ。次元を渡る光の道を開き、ルシカと俺を呼んだのは――」


 テロンがそこまで言ったとき、必死に駆け走るように騒々しい足音が聞こえ、次いで入り口の扉が凄まじい勢いで開かれた。閲覧室の分厚い扉が常日頃ではありえない音を立て、壁に当たって跳ね返る。


 扉が閉じようとするのを必死で腕を突っ張ってこらえながら立っていたのは、ルシカとともに居た文官たちのひとりだ。壮年で落ち着いた物静かな人柄の男は、息を乱しながら部屋を見回し、すぐに王弟と国王を見つけた。


 その表情にただならぬものを感じ、テロンとクルーガーは同時に椅子から立ち上がった。ぞわりと背筋を這い登ってきた怖ろしい予感に、テロンは目を見開いて一歩前に踏み出した。


「大変です! ルシカさまが、ルシカさまがっ! 急に倒れて意識を失ってしまい――」


 彼女の名が出たときには、テロンはすでに駆け出していた。疾風のごとき勢いで知らせに来た文官の横をすり抜ける。慌てた文官が飛び退き、尻餅をついた。


 閲覧室を出てすぐの廊下を奥へ進み、扉を開くのももどかしく突き抜けるような勢いのまま押し開いて、関係者以外立ち入り禁止である禁断部屋に駆け込む。床に開いた穴は、地下の魔導書保管庫へ通じる唯一の出入り口だ。


 下からは、彼らを統括する宮廷魔導士であるルシカの名を呼ぶ幾つもの叫び声が聞こえている。


「ルシカ!」


 テロンは梯子はしごを使うのももどかしく、一気に下まで飛び降りた。階下にいた文官たちが驚き、降ってきた彼を驚き顔で振り返る。


 その文官たちの向こうに、倒れたルシカの姿がみえた。


 テロンは集まっていた他の者たちを掻き分けるようにして彼女の傍に駆け寄り、膝をついた。外傷はない。立っていた姿勢から膝をつき、横倒しに倒れたのだろう。苦しかったのだろうか、胸元の着衣が乱れ、自分できつく握りしめたのだとわかる。眉は寄せられ、唇は僅かに開いていた。


「突然だったのです。本日は特に転んだ様子も見られず、魔導書の分類作業で幾分か魔力マナを使っていたとは思われますが……魔石も握っておられて、その石をまだ使いきってはおられませんでした」


 横から報告してくる文官に応えたのは、いつの間にかテロンの背後に続いていたクルーガーだった。


魔力マナの使いすぎではないというのか。だが、意識を失っている者にこの場所は危険だ。頭を打った様子がないのならば、すぐに上へと連れ出したほうがいいぞ、テロン。ここは立っているだけでも、僅かずつだが確実に魔力マナが消費される。魔導書を保管するために展開されている魔法の影響なのだ」


 自身も魔術使いの剣士であるゆえに、クルーガーが告げた。テロンはルシカの首に細心の注意を払いつつ急いで抱き上げ、梯子をかけられた出入り口の穴へ向けてひと息に跳躍し、外に出た。


 禁断部屋の内部に並べられていた休憩用の長椅子に彼女を下ろし、気道を確保しつつ顔を仰向かせた。


「ルシカ! ルシカ!」


 呼びかけてみるが、意識が戻る気配がない。頬に手のひらをあてがい、再度呼びかけたが、反応はなかった。


 何故だ――つい半刻ほど前にも話をして、「すぐに済ませるから、お昼ご飯は一緒に食べましょう」と笑っていたじゃないか……今朝も起きて、笑って、唇を重ね……そして……。


 テロンはぎくりと身を打ち震わせた。以前にも感じた、あの感覚が再びルシカから感じられたのである。


 彼女の命を構成していた魔力マナそのものが、バラバラに引き裂かれるように散じて……消えてゆく。


「そんなまさか……安定したはずじゃないか! ルシカ、目を覚ましてくれッ! 俺を置いてくな……!」


 ルシカの体を抱きしめ、テロンは祈るように叫んだ。


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