双つの都 10-7 遺跡の迷い子
「どうした、トルテ!」
リューナは気配を察して振り返り、トルテの傍に駆け戻った。
腕を自分の体に回して身を震わせていたトルテは、まぶたをぎゅっと閉じて顔色をなくしていたが、リューナに掴まれた手の温もりにハッとしたかのように目を開いた。母の血統から受け継いだオレンジ色の瞳が、
「どこか打ったか、寒いのか?」
「あ……いえ、ううん。わからないの、わからないんだけれど……そうね、なんだろう」
「なんでもないんならいいんだけど。そら、足下にもっと注意しろよ。崩れかけてる」
「え――きゃっ!」
リューナの言葉に慌てて下を向いたトルテは、背負っていた荷物の重みでぐらりと姿勢を崩してしまった。踏みかえた足場の床がピシリと鋭い音を立てる。
「トルテ!」
リューナは咄嗟に彼女を抱きすくめ、素早く自身の背後に移動した。警戒するように鋭く啼いたピュイの声が周囲の闇を貫き、うぉんうぉんと長く尾を引いて闇に支配された空間を渡ってゆく。
まるで虚空で骸骨が笑いさんざめくように不気味で騒々しい音を立て、砕けた岩が底闇へと沈みこんでいった。瓦礫が下まで到達した音は、いつまで経っても響いてこない。リューナとトルテは抱き合った姿勢のままゾッとして下を見て、それからゆっくりと進む方向へと視線を向けた。
「……あっぶねぇ。どこまでこの足場は続いているんだ?」
「あ……はい。えっと、この『虚空の間』の奥には『神像』が建っているそうです。それが見えたあとに、奥の通路に入れるはずです。入り口が一番足場が細くて危ないだろうと聞いていますから、きっとこの先、少しは……」
『
足下に続く通路はひとがすれ違うことができるぎりぎりの幅、まるで闇に満たされた虚空へと張られた、ひと筋の蜘蛛の糸のようだ。いかなる奇跡の技術か魔法の業か、数千年の時を経ても揺るぎなく真っ直ぐで、橋を必要とする者の足場であり続けている。
確かに、技術的には素晴らしいと思う。下方へと延びる数多の柱は橋をしっかりと支え、右にも左にも歪むことなく建っているのだ。底というものがあっての話だが、かなりの高さになるというのに。
光に照らされて見える範囲の支柱はちっとやそっとじゃ折れそうにないくらい強固みたいだけど……ハイラプラスのおっさんも一言くらい、橋の表面が経年劣化で崩れかかっているかもしれないと教えといてくれりゃいいのになぁ、とリューナは思う。
「この下、真っ直ぐに冥界へ通じている、とかでないならいいんだけど」
腰の後ろに携えていたロープを留め金から外し、手早く彼自身の腕とトルテの細い腰とを結びつけながら、リューナは言った。
「山頂に次元を渡るための扉がありますけれど、入り口にもあるとは聞いていないので、可能性は低そうですね」
心をどこかに飛ばしているのだろうか、まるで危機感のないトルテの静かな言葉に、リューナは口をへの字に曲げた。
「死んじまったら冥界へ逝っちまうだろ、どうせ。そうなったらあながち間違いでもないんじゃないのか?」
「……そうですね、確かに」
リューナは軽口のつもりであったが、いつもの彼女の反応とは違っていた。もしかしたら、母親のことを考えてしまったのかもしれない。死、だなんて口に出さなきゃよかった――後悔したリューナは自分の両頬をこぶしで挟み、ぶるっと頭を打ち振るってことさらに明るい声を張りあげた。
「大丈夫だって、トルテ! 俺たちがなんとかしに行くんだろ? ハイラプラスのおっさんが言ってたじゃないか。諦めなければ、必ず何とかなりますから――ってさ。今までだって俺たち、なんとかしてきたんだ。今度だってぜえぇぇんぶ、うまくいくさ!」
「はい」
トルテは頷き、顔をあげた。リューナが結わえた命綱に気づき、「ありがとう」と微笑む。
リューナは彼女の手を引くようにして慎重に足を前へと進めていった。橋の端のほうには、ひび割れている箇所が幾つもある。さきほど崩れてしまった場所にも亀裂があった。
踏む先の床を確認しつつ歩いていたリューナの耳に、トルテの声が届いた。
「リューナ、見えてきました! ほら、あれ……」
言葉の終わりは、
「すっげぇ……どうなってんだ」
闇の先へと続いているかのような道の先には、長大な体躯と迫力のある頭部をもつ、とてつもなく巨大なドラゴンの像が建てられていた。まるで訪れた者を出迎えるよう、あるいはこの先に隠された秘密を暴く者を威嚇し思いとどまらせようとでもいうかのように、凄まじい形相をしている。
幾重にも巻いた胴を横倒しにして螺旋のように渦巻かせ、さながら蛇のように胴体をぐるぐると道に巻きついているさまは、まるで神聖な場所へと続く
「おそらくさ、歓迎できる相手には感動してもらって、ここに攻め入ってきた敵には脅しをかけて先に進むのを思いとどまらせようとしたんじゃないか? それにしても凄すぎるけどな……こんなでっかい石の像だなんて」
「ほんとですね。伝説にある始原の存在のひとつ、『
神秘と畏敬の念に打たれ、ふたりは囁き声で言葉を交わした。
「それは言い過ぎなんじゃないのか。そこまででっかい奴が居てたまるかっての」
「でも……ほら、リューナ。下の見えないところまで胴が続いているんですよ。それでぐるぐると上から下まで何重にも螺旋になっているんですもの。そのくらいはありそうだと思いませんか? 作られたものだなんて信じられません。伝説のレヴィアタンそのものが石化してここを守護している、とかいうほうがまだ納得できそう……」
トルテが息を潜めるように小さな声で言葉を続けた。そろりと視線を上げて、石像の巨大な瞳の様子を不安そうな顔で窺っている。
無理もない、とリューナは思う。怖ろしく巨大な竜像は今にもこちらへ首を曲げて動き出しそうなほどに生き生きとした表情をしていたからだ。瞳の直径は、こちらの背丈の倍近くあるのだ。その形相は
同じ始原の存在であるはずのドラゴン――古代龍のピュイまでもが、羽ばたくことで逆鱗に触れるとでも
「昔語りでは、この始原の竜が次元を渡って幻精界へ到達し、この現生界と繋がるきっかけになったと聞きます。そのときの光景を目の当たりにし、幻精界から洩れてきた最初の輝きと息吹を身に受け止めたひとびとが、いまのエルフ族の祖先であったとか」
「だからエルフ族は精霊たちの力を感じ取りやすいってわけか。その辺の真偽は定かではないかもしれないけど、俺たちがこれから行こうとしている場所を考えても、これが『神像』と表現されてもおかしくはないな」
「じゃあ、この先に通路があるはずですね」
トルテが明るい表情で言った。
リューナは通路の先を透かし見ようとしたが、幅の狭い橋が終わるのはまたまだ先のように思えた。上を見てごくりと唾を呑み込んでしまう。
この像のド真ん中を通り抜けるってか――ぶるんと首を振り、脳裏に浮かんだ怖ろしい光景を意識の外へと追いやる。始原の竜の像の顔の真下を通るとき、バクッと食べられなきゃいいけどな、と考えてしまったのだ。
警戒を怠らず、全身で周囲の気配や空気の動きに気を配りながら、そろりそろりと慎重に進んでいく。頭上に竜の首がある場所に差し掛かったときには心臓がバクバクと落ち着かなかったが、なにごともなく過ぎることができた。
あとは、神像の胴の螺旋が奥へと
「ピュイ、ルルルピリッピ」
「空気の流れを感じる? もうすぐなのかしら」
トルテがリューナの体越しに前方を見た。
リューナは腕をかざし、頭上に浮かべてある魔法の光を遮りながら前方に目を凝らした。確かに、道の続いている先の空間に何かあるようだ。まるで夜空に輝く星たちが張り付いたかのように、ゆっくりと穏やかな光を発している空間がある。
進み続けていると、やがてそれが見えてきた。
「壁だ。この道はあそこで終わっているんだな」
リューナは大きく息を吐いた。自分はともかく、背後に続いている少女の足下が危なっかしくて気が気ではなかったのだ。そういえば、外で食事をとって戦闘になったあと、休憩を取っていないも同然であった。表情には出さないが、トルテはかなり疲れているようだ。
闇の空間をすっぱりと終わらせている壁岩には、入り口の扉と同じ帯彫刻がびっしりと彫られていた。それらが幾重にも交わり、複雑な魔法陣のようにも思える巨大な紋様を描いているのだ。
リューナの瞳にもはっきりそれとわかる、魔導の光が数え切れぬほどの輝きとなって、岩の表面を駆け奔っている。遠目に輝いてみえたのはその光だったのだ。
「魔導特有の緑と青、そしてたくさんの黄色の輝き……本来、『召喚』の『名』をもつ力を表す色なのですけれど、『
見れば、トルテの瞳のなかに星のような閃きがあった。闇のなかで彼女の瞳を鮮やかに浮かび上がらせている。
「壁が展開している魔導の力に、トルテの
瞳に現れる光の明滅は、魔導行使の
「だいじょうぶですよ、リューナ。この先は安全だと思います。それに……あたしたちは進むしか選択はありませんもの」
「……だな。よっしゃ、俺が支えるから、もう少しだけ頑張ってくれ」
「はい」
「ピュルティ、ルラピ?」
「平気です、ピュイ。先に行ってても構いませんよ。たぶん地図のとおりなら、壁の内部に広い空間があるはずだから」
じゃあ、そこまで進んだら休憩にするか――リューナはトルテの腕を支え、安全な足場を選んで前へと導きながら考えていた。
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