古代龍と時の翼 9-49 運命の選択、時の翼

「リューナ」


 呼びかけられたリューナが眼を開けると、すぐ目の前にやわらかな光に満たされたオレンジ色の瞳があった。現生界に存在するもののなかでもっとも暖かな色彩のひとつ、昇りたての太陽がはじめに照らす地表の温もりのいろ――。


 さらさらと輝き流れる金色の髪をもつ少女は、匂いたつように華やかな笑顔をそっと咲かせ、彼の首に腕をまわしていた。周囲では白き魔導の残滓ざんしがゆるやかな風のように取り巻いており、まるで春の雪のごとくきらめきながら静かに消えゆくところであった。


 トルテの無事な姿に心底から安堵し、リューナはトルテを力いっぱい抱きしめた。


「トルテ! もうダメかと思った……ほんとに、無事で良かっ……」


 嗚咽をこらえて少女の細い肩に顔をうずめるリューナの耳もとで、トルテが広い背を優しく叩きながらゆっくりとささやく。


「あたし、大丈夫です。リューナの癒しの力が、みんなを助けてくれたの」


「どこも何ともないのか? 傷は?」


 体を離したリューナは、彼女の身体を確かめて呆然となった。衣服は焦げ裂かれてひどく破れていたが、きめ細かな白い肌には何の跡もない。ハッと我に返ったリューナが慌てて自分の上着を脱ぎ、トルテに着せかける。


「リューナ……すごいよ、君は」


 驚きと賞賛が入り混じったような声が耳に届き、リューナは顔をあげた。ディアンとエオニアが寄り添うように立っている。ふたりとも痛むところなどひとつもないようになめらかな動作で、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「君の魔導の名は、『生命』だったんだね」


「俺の、魔導……?」


「『完全治癒パーフェクトヒーリング』――最上位魔法のひとつで『生命』の魔導士の専用なんです。おそらくシャールおかあさまの血脈に、その力をもつ魔導士がいらっしゃったのだと思いますわ」


 トルテの言葉で、リューナはようやく理解した。いましがた致命傷を負っていたトルテの傷を塞ぎ、魔導の技である通常の『治癒ヒーリング』では賦活できぬはずのディアンたちの気力や体力、失った血までも元通りにした圧倒的な力が、リューナ自身の魔導によるものであったのだと。


 思い返せば文字通り過去にも同じことがあった。メロニア王宮に隣接している庭園で倒れていたトルテの命を繋いだのは、そのときには秘められたままであったリューナの力が、彼女を救いたいという必死の想いに応え、無自覚のうちに発動していたのだろう。


「そうだったのか……。いや、力がどうとかより、俺はトルテが――ディアンたちが助かっただけで満足だよ」


 リューナはおのが内に流れる血に感謝の言葉をつぶやき、自分を見つめる視線を感じてトルテを見た。その瞳に映る自分の顔に決意をしっかりと見定め――リューナはゆっくりと立ち上がった。


「あとは、決着をつけるだけだ。運命が選択するのはどちらのほうなのか――俺たちと古代龍シニスターの」


 トルテが心得顔に頷き、胸に併せた両手を祈りのかたちに組んでリューナと真っ直ぐに視線を合わせる。


「リューナは決して負けません。あたし、リューナを信じています」


「ああ。俺はおまえの信頼に応えてみせる」


 リューナは自信たっぷりの口調で請け合い、表情を引き締めた。傍らの床に転がっていた長剣の柄を握り、ひゅんと回すようにかろやかな動きで手もとに引き寄せ、ゆっくりと眼前に構える。


 リューナの視線の先で立ち上がるのは、揺らめく炎さながらに燃え立つオーラを纏った巨体。絶望に打ちひしがれて床に突っ伏していたはずの古代龍だ。ぎりぎりと噛み合わせる顎からは藍色の血が滴り落ちている。


 ――我が望みはついえた……。無力で愚かな捨て駒に神界へ至る『門』を破壊され、道を完全に断たれるとは。何たる侮辱、何たる屈辱……何たる絶望ッ!!


 始原の龍は、狂気めいた輝きを瞳に宿し、ずん、と床を踏みしだいた。その全身全霊から凄まじい殺気を放っている。まるで世界もろとも道連れにしようと意を決したかのように。


 ――はかなき願いの片割れ、魔法王国の愚かな忘れ形見よッ。さぁ、最後の勝負といこう……!


「望むところだ!」


 リューナが剣を手に突っ込む。跳び、斬りかかり、鞭のごとく叩きつけられる尾をかわし、長く鋭い剣を振りかざす。龍は魔法陣を次々と展開させつつ、周囲もろとも吹き飛べといわんばかりに破壊魔法を踊り狂わせた。床に亀裂が走り、弾かれた魔法が天井まで駆けのぼり穴を穿つ。


 トルテが魔導の技を行使し、エオニアと自身を魔法障壁で包み込む。ディアンは空中から龍の急所を狙うが、リューナと龍の激しい戦闘ぶりに追いつけず、手が出せないでいた。そのうち天井から次々と梁や砕け割れた結晶が落ちてくるようになり、ディアンは仲間たちを護るために落下物を魔法で打ち砕くことに専念しはじめた。


 古代龍の打ち振るった尾の一撃がついにリューナの体を捉え、床に叩きつける。砕け割れた床石の欠片に赤いものが散り、龍が凄まじい形相でわらう。


 ディアンとエオニアが悲鳴をあげて彼の名を叫んだ。


 けれどトルテだけは何も叫ばなかった。ほんの一瞬、痛みを感じたかのように息を止めただけ。澄んだ瞳を信頼の光で満たしたまま、起き上がる青年の背をただ静かに見守っていた。


「俺は、負けるわけにはいかない」


 リューナは立ち上がっていた。世界で一番好きな女の子の前で、カッコ悪いところは見せらんねぇぜ――口もとを手の甲で無造作に拭う。深海の色彩をもつ瞳がほむらさながらに燃えあがり、魔法陣もなしに駆け奔った白き光が、全身の傷を瞬く間に癒し塞いでゆく。


「俺の望みはただひとつ」


 熱いものが胸を満たし、腹の底から途方もない力が湧きあがってくるのを感じる――トルテが健やかで笑顔でいてくれるなら、それを護るために俺は生きる!


 ――めっされるのはキサマらのほうだあぁぁぁッ!!


 古代龍が片腕を虚空に滑らせる。その動きに合わせて魔法陣が次々と展開される。だがリューナはそれよりも早く床を蹴り、龍に向けて跳躍していた。


「てやぁあああぁぁぁぁッ!!」


 古代龍は巨大な眼を見開いた。魔法陣を織り成す魔導の光が宙にひらめくよりも先に、リューナの剣は古代龍の首の付け根――心臓コアに迫っていたのである。


 大量の魔力マナを内に収束し溜め込んだ龍の心臓コアは、もはや目くらましなどに惑わされないほどに強く光り輝いていた。リューナの剣が狙いを外すことなく正確に、脈動する龍の中心を刺し貫く。


 龍の視線が一瞬、剣を突き立てた青年の視線と交わった。


 リューナは見た。凄まじいほどの怒り、驚愕、そして悲哀――手にすることを許されなかった憧れへと向かう切望の入り混じった闇が、シニスターの瞳の奥でいまなお燃え盛っているのを。


「……観念しろ、古代龍シニスター。あんたの野望は、この時代よりずっと過去に断たれているはずだ」


 ――グボッ。認め……んぞ、われは……死す……けに……は。


 血泡を吐きながらつぶやいて、古代龍はついに事切れた。巨躯がぐらりと傾ぎ、そのまま倒れて盛大に床を砕き割る。


 リューナは剣を引き抜き、仲間たちの傍に戻った。涙を浮かべて駆け寄ってきたトルテを抱きしめ、リューナはようやく息を吐いた。


「終わったんですね、リューナ。きっとあたしたちの時代でも――あっ。見てください、リューナ。古代龍のなかに巡っていた魔力マナが溶け消えるように……とうさまたちの光もいつの間にか見えなくなっています」


 トルテの声に導かれるように、リューナは古代龍を見た。天井や床の建材である砕け散った紅石ルビー色の結晶に半ば埋もれるようにその巨体が横たえられている。見つめている間に古代龍は光の泡となり、あるはずのない風にそっと吹き払われるように舞い散り、きらめきながら消滅してゆく……。


「……きっと、時の流れが変わったんだ。うまくいったんだと俺は信じてる」


「はい。それにしても……古代龍、何だかとてもかなしそうでした」


「そうだな。アイツももしかしたら、世界の何より大切だと思う願いがあったのかもしれないな……」


 リューナはトルテを抱きしめる腕に力を込めた。


 古代龍の消滅とともに、周囲の光景が変化しつつあった。色粉を水に溶かしたときのように世界の色彩が混じりはじめ、上下の感覚が消え失せる。耳には低く高く多様な音やざわめきが聞こえ、熱く冷たくさまざまに温度の変わる風が肌を掠めるように吹き抜けていった。


 ディアンは背中の翼を半端に開いたまま、妙に厳粛な面持ちで自分たちを取り巻く光景を見回している。腕にはエオニアを抱き支えていた。


「ディアン……ごめんね」


 腕のなかからのかそけき声に、ディアンが驚いて視線を向け、悲痛な叫びを発した。リューナとトルテが弾かれたように視線を向けると、ディアンが抱き支えていたエオニアが霞むように消えゆくところであった。まるで周囲の光景と同じように――元に戻ろうとする時間と事象に引きずられるように、体が輪郭を失っていく。


「でも……これだけはきっと変わらない。あなたのことを、愛しているわ」


 エオニアははっきりと言い切った。ディアンは必死の形相で首を振り、もはやどうしようもなく透き通っていく彼女の頬に手を伸ばす。


「エオニ……」


 ディアンの両手は、ただ静かに虚空を包み込んだ。声なき声をあげてディアンが涙を流す。


 かける言葉もなくリューナとトルテが宙を泳ぐように彼に近づき、三人は互いの腕や肩を抱きしめ合った。周囲の光景は、もはや色の変化を見極めることも難しいほどに目まぐるしく変化し、渦のように彼らを取り囲んでいる。せばまってくる光の奔流に彼らが互いを護るように身を寄せ合ったとき――。


「憂えることはありませんよ、ディアン」


 虚空に響き渡った声に、弾かれるように三人ともが一斉に瞳をあげた。それは懐かしい声だった。


「ハイラプラス殿ッ? 無事だったんですね! でも、どういうことです?」


「彼女は無事です。ここで過ごした時間が消滅したことで未来が修正されただけ。それから……トルテちゃん、リューナ。ここまでよくたどり着いてくれました」


「その声……ハイラプラスのおっさんか!」


 リューナは周囲に視線を走らせたが、人影などはまったく見えなかった。渦巻く色彩は三人に触れそうなほどに近づいており、すぐにも自分たちを呑み込んでしまいそうだ。


 だが声は落ち着いたままで、ほんのわずかに不本意そうな気配を伴って先を続けた。


「おっさんではないのですが、まぁいいでしょう。トルテちゃん、時の魔晶石を持って来てくれましたね?」


「あ。はい!」


 トルテの元気の良い返事に、まるで微笑みかけるようにゆったりとした雰囲気が広がる。


 トルテは魔晶石を衣服の隠しから取り出した。彼女の小さな手のひらに乗るほどの大きさだが、とてつもない魔力マナが蓄えられていることが見て取れる。


「この未来は虚構、実現されなかった泡沫うたかたの夢――この時間軸に繋ぎとめていた古代龍の意志が断ち切られたことで、すべての事象が正しき方向へと修正されます。あなたたちは、それを造った魔導士の存在する次元へと飛ぶことができますよ」


「待ってください! ハイラプラス殿、いったいどこに――」


 声はそれ以上こたえなかった。代わりに魔導の光が駆け奔り、トルテの手のなかにあった魔晶石がするするとほどけるように白い帯状の光となって、繭のごとく彼らをしっかりと包みこんだ。


 光はさらに膨れあがって左右に伸び、かたちを成すと、まるで翼のように羽ばたいた。水鳥が飛び立った湖面さながらに波紋となって広がった魔導の残滓が薄れると、あとには何も残らなかった。


「わたしが託した『時の翼』はひとつではありません。あなたたちはすべて、しっかりと受け取っていてくれたようですね」


 『時間』の魔導士がそっと微笑んだ気配がして、混沌と光が渦巻いていた次元はふわっと溶けるようにすべてが消滅した。小さな、小さな囁きを残して。


「ではまた、のちほどに――」


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