古代龍と時の翼 9-43 夢幻都市と龍の居城

「兄さん待って!」


 エオニアは必死で叫び、掴まれた手首と顎を兄の手からもぎ離そうと激しく身悶えた。だが、人間族の青年のほうが遙かに筋力が強い。痩身で小柄である飛翔族のエオニアがどんなに暴れてもどうにもならない。


 しかしラスカは、あらがうエオニアの態度にショックを受けた表情になり……次いで憤怒に駆られたような面持ちになった。力任せに彼女の体をドンと背後の壁に叩きつける。


「俺を拒絶するのか――エオニア。そんなにアイツがいいのか……俺から何もかも奪っておいてッ!」


 吐息がかかるほどに顔を寄せ、ラスカが押し殺した声のまま激しい口調で叫んだ。彼の父ラハンによく似たその瞳の奥に、孤独の影と寂しさの光が揺らめいている。エオニアの震える瞳の表面には、打ちひしがれた男の姿が映っていた――優しさも気遣いもすべてをかなぐり捨てた、手負いの獣のような瞳をした男の顔が。


「おまえのことをあんなにも大切にしていたのに! それなのに……あとから現れたアイツに取られるとはなッ!」


「兄さん、まさか……」


「俺はおまえを――」


 ゴツンッ!


 にぶい衝突音がした。顔を触れそうなほどに接近させていたラスカの動きが止まり、エオニアは反射的に兄の胸を突き放した。


「にゅふぅ~……」


 換気孔の内部で呻き声をこらえ、トルテが涙目で頭を押さえていた。ふたりの遣り取りを目撃した彼女は驚愕と焦りのあまり腕を突っ張り、狭い通路の天井に思いっきり頭をぶつけたのである。


「いまのは何だ!?」


 下では、エオニアに突き飛ばされたラスカがショックを受けた表情でよろよろと後退り、凄まじい表情で周囲に視線を巡らせていた。


 彷徨っていた視線が、すぐに換気孔に向けられる。ラハンは腰に吊っていた小型の銃火器を外し、手のなかでカチリと音を立てた。戸惑い怯えるように身を震わせて衣服の前をかきあわせるエオニアの目の前を通り過ぎる。


 自分のほうに容赦なく近づいてくる足音に、トルテは薄闇のなかで息を止め、蒼白になった。


 ラスカの腕が換気孔の格子に伸ばされる。覚悟を決めたトルテの指先が、魔導の準備動作のためにぴくりと動きかけた。そのとき――。


 ゴオオウゥゥゥゥウン!! 大地と大空が落っこちてきたような轟音が響き渡るとともに、突き上げるような衝撃が足もとから建物全体を震撼させた。


「うわッ! な、何が起こったのだ!」


 廊下か通路になっているのだろう扉の外から、バタバタと大勢の駆け抜ける音が聞こえてきた。ラスカはくるりときびすを返し、扉を開けて大声で呼ばわった。


「おい、どうしたッ? 誰か――何事だ!」


「ウピ・ラスカさま。敵襲です。二名の反乱者が城門を破壊して侵入、中央フロアに到達しましたので、管轄としている我々が攻撃に向かっているところです」


 走っていた兵士のひとりが足を止め、律儀に敬礼の仕草をしながら事務的な口調でラスカに応える。トルテの位置から見えたその兵士の瞳の輝きは、まるで硝子ガラス玉のように冷ややかであった。紡いだ声には感情というものがまるでなく、体を流れる魔力マナの流れもどこかおかしい――全体に巡りが遅いのである。


「二名……? 他にも居るはずだろうがッ。答えろ、傀儡くぐつめ……! えぇい、おまえらでは話にならん。俺が直接行って確かめるッ!」


 ラスカは苛立たしげに言い捨てると、開いた扉の先から部屋のなかを振り返った。呆然と自分を見つめ返しているエオニアに苦しげな眼を向け、逸らすと、殊更に乱暴な手つきで扉を閉めた。


 ガチャリ、と錠を下ろす重たげな音が響き渡り、腹立たしげな様子の足音が遠ざかっていった。


 エオニアが床に泣き崩れる。


「エオニアさん、エオニアさんっ!」


 トルテは今度こそはっきりと、彼女の名を呼んだ。彼女の肩がびくりと撥ね、顔が上がる。涙に濡れた瞳が彷徨い、ほどなくして換気孔のなかから手を振っている存在に気づく。トルテはにこやかな笑顔で格子の向こうから声をかけた。


「もうだいじょうぶですよ、ご安心くださいね。それから、この音と振動はふたりが暴れているからなんです。ディアンが、エオニアさんを迎えに来ているんですよ!」


「ディアンが――」


 暗く沈んでいたエオニアの瞳に力が戻っていくのを見て、トルテはホッと息をついた。そしてすぐに表情を引き締め、エオニアに告げる。


「危ないですから、少しだけ下がっていてください」


 狭い換気孔内で慎重に腕を動かし、素早く印を結ぶ。行使する魔法は、オリジナルで調節して組み上げておいた『静寂サイレンス』と『開門ノック』の複合魔法だ。


 トルテの行使した魔法を向けられ、換気孔からの出口を塞いでいた格子がぼうっと輝き、まるで紅葉した木の葉が自然に枝から離れるように、床に落ちた。落下の衝撃は床を伝わったが、音はしない。『静寂サイレンス』の効果である。


「すごい……やっぱりあなたたちって、すごいのね」


 エオニアの素直な感想に、トルテはにっこりと笑って応え、天井に開いていた換気孔から床にシュタッと降り立った――が、勢い余って前につんのめった。とても痛そうな音がして、トルテがおでこを押さえる。


 エオニアは慌てて年下の少女を助け起こし――次いで吹き出すように笑いはじめた。大声を出すわけにはいかなかったので、口もとを押さえて必死に声を押し殺しながら。


 トルテはほんの刹那だけ吃驚びっくりした表情をしたが、エオニアにつられるように笑い出した。ふたりの娘は床にぺたんと座り込み、低めた声のまま思う存分に笑った。


「ふふっ……ありがとう、トルテちゃん。あたしもう、何が何だかわからなくて、どうしたらいいのかもわからなくて……」


 エオニアが目の端に浮かんでいた涙を指で拭いながら言った。笑い過ぎとは別の涙のようだったが、彼女もあえてそれ以上は言葉を続けなかった。


「良かったです、エオニアさんが無事で。もうすぐここにディアンが迎えに来ますから。あたしはそのことを告げに来たんです。それまでの間、エオニアさんを護るためにも!」


 トルテはトンと自分の胸を叩いた。ケホ、と小さくせる少女にエオニアが微笑み――だがすぐに表情を曇らせる。


「でもディアンが迎えにって……怖ろしいほど警備が厳重なのに。それにこの振動――」


 ふたりが話している間にも爆音めいた轟音が幾つも聞こえ、床はビリビリと尋常ならざる衝撃を伝えてくる。あえてその振動の正体を分析しなくても、大砲や破壊魔法が飛び交うさまや、柱や壁が崩れる様子など、凄まじい光景が展開されているだろうことが想像できた。


 だがトルテは、ほんわりとした笑顔を崩さないまま請け合った。


「リューナが一緒にいます。だからディアンもだいじょうぶです、心配はしないでくださいね」


「トルテちゃん……」


 エオニアは、僅かの揺るぎもないトルテの瞳を見つめた。


「あなたはリューナくんのことを、そんなにも信じているのね」


「はい!」


「わたしは駄目……ラスカ兄さん。信じていたのに……」


 エオニアは再び悲痛な面持ちになって瞳を伏せ、肩を震わせた。きつく握られる彼女のこぶしに、トルテがそっと自分の手を重ねる。トルテはエオニアの両手を揺らしながら、やわらかな声で言った。


「エオニアさんは、こんなにも素直で優しいひとなんですもの。誰だって好きになっちゃいます。きっとラスカさんもエオニアさんが好きで、とっても好きだからこそ、その気持ちがこんがらがっちゃっているんです。自分でもどうしようもなくて、苦しくて……。だから――どうか許してあげてください」


 オレンジ色の瞳を微笑ませ、「ね?」と首を傾げるようにしてエオニアを見つめた。


 エオニアが瞳に新たな涙をいっぱいに浮かべ、ゆっくりと頷いた。


 トルテは衣服のポケットから刺繍のされたハンカチを取り出し、彼女の頬に流れた涙をそっと押さえながら、心のなかでリューナに語りかけていた。


「エオニアさんはもうだいじょうぶです。リューナ、約束通りきちんと待っていますから、気をつけて来てくださいね」


 おまえは動いたほうが危ないからな――ゼッテェ動くんじゃねぇぞ、迎え行くからなッ!


 遺跡で罠にかかってはぐれたとき、いつも言われる台詞せりふが耳もとで聞こえた気がして、トルテは口もとだけを微笑ませた。


 けれどね――リューナには伝える事なく、トルテは心の奥底でそっとつぶやいた。相手の無事を祈りながら待つほうも、本当はものすごく勇気がいることなのです。それが大切な相手なら、なおのこと……。


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