古代龍と時の翼 9-42 夢幻都市と龍の居城

 金属と石の質感が入り混じった壁はなめらかとはいえず、接合された箇所は尖った部分も多く危険であり、油断はできなかった。手足を使い、低くした姿勢のまま這い進みはじめて、どれほどの時間が経ったのだろう?


「んしょ、んしょ……ふう」


 トルテは小休止として息をつき、狭い場所ながら少しでもと、腕や脚を伸ばして強張った筋肉の痛みをやわらげた。


 指先にできた幾つもの切り傷に、そっと息を吹きかける。肘に巻いた保護パッドが視界に入り、トルテは思わずほんわりと微笑んだ。薄桃色の可愛らしい手織りの生地を使ってあるそれは、ルミララが手縫いで作ってくれた品だ。限られた時間のなかで、細かな手作業をする余裕など充分になかっただろうに――トルテの胸が温かくなる。


「ルミララさんに感謝しなくちゃ、ですね。これがなければ、腕も脚も血まみれになっていたかもしれませんから」


 瞳を伏せ、自らを元気づける意味も込めて感謝の言葉をつぶやく。


 とりあえず侵入してすぐの広い場所で、自分に向けて強化魔法を行使しておいたトルテであったが、疲労の蓄積は避けられない。発見される危険を冒して、魔導の技を使って傷を治すわけにもいかない。無数の痛みと、緊張と警戒にドキドキと高鳴る鼓動とが、トルテの気力と体力を削ぎ続けている。


 加えて息が詰まりそうなほどに狭い空間――通風と換気のために造られた無骨な通路内である。トルテは脳裏に描いている立体地図と捕らえられているエオニアへの想い、それらに意識を集中することで前へ、前へとひたすらに進んでいるのだ。


「ラハンさんとルミララさんが、そしてディアンが……あんなにも想っているんですもの。エオニアさんはきっと無事ですよね」


 心配にはやる気持ちを静めつつ、道筋を決して間違えないよう確実に這い進む。


 幸いにも通路自体は頑丈な造りで、隠密行動に慣れていない彼女が移動しようとも、へこんだり割れたりして音を立てる心配はなさそうだった。ただ所々に、何処かの広い廊下や部屋へと開いている場所があって、ひとの話し声が聞こえる箇所もある。そこを通過するときだけはできるだけ慎重に手足を進め、神経を使わなくてはならなかった。


「ルシカ……かあさま……テロンとうさま……」


 どこまでも続く単調な通路と薄闇のなか、黙々と這い進むトルテの心は、いつしかぼんやりと記憶の糸をたどっているのだった。


 古代龍シニスターのなかを流れる魔力マナの輝き、そのなかに見えた気配あるいは面影のようなもの。やわらかに渦巻く魔導の色彩や金色こんじきと青の脈動する渦。昨夜見た光景が今もずっと、まばたきをするたび閉じた目蓋の裏にちらちらと映りこんで消えなかった。


 トルテが思い出す両親はいつも、優しい微笑みを浮かべてふたり仲良さそうに寄り添っていた。幼いトルテが振り返ると、いつもそこには見守ってくれている父と母の笑顔があった。その安心感、その温もり、愛され大切にされているという満ち足りた気持ち。それらがあったからこそ、トルテは前向きで探究心と冒険心に溢れる、芯の強い少女に成長したといえる。


 ふたりはトルテに、大切なひとを護るための力や知識を教えてくれて、この生命と惜しみない愛を与えてくれた――。


 ポタリ、と微かな音を立てて落ちた水滴に気づき、トルテは睫毛をぱちぱちとしばたたかせた。いつのまにか手の甲が、落ちた涙で濡れて冷たくなっている。


「とうさま……かあさま。どうか生きていて……」


 心の祈りを言葉にしたことで、どうしようもなく涙が溢れた――そのとき。


 トルテ……、と名を呼ばれた気がした。涙の落ちた手に、覆いかぶさるような温もりを感じた気がして、トルテは瞳を上げた。意識の片端に映像として結ばれたのは、いつも身近にいて自分を支えてくれている青年の、こちらを案じ元気づけてくれる笑顔。


「うん……だいじょうぶ」


 眼を閉じて青年のことを想い、トルテは微笑んだ。手はもう冷たくない。トルテはひとつ頷き、きゅっとこぶしを握りしめた。体を伸ばすこともままならないほどに狭い通路を、再びゆっくりと、だが確実に前へ前へと這い進みはじめる。


「ありがとうリューナ。がんばるね」


 それからかなり進んだ場所で、ふいにトルテは耳をそばだてた。聞き知った声が聞こえたからだ。


 間違いない――トルテは確信した。目の前に見えている分岐の左方向から聞こえてくる。トルテの脳裏にくっきりと描かれている立体地図でも、目指す部屋が近いはずであった。


 息を潜め、出来る限り自分の気配を隠しつつ慎重に進んでいく。ほの暗かった狭い通路に、光が差し込んでいる。トルテは換気孔らしき穴から外を見た。自分の進んできた道が間違っていなければ、ここが目指している場所のはずだ。


 そこは部屋になっていた。広さは予想より狭いながらも、飾り気のないテーブルと椅子があり、明るい空間が広がっている。窓はない。光は魔法によって灯されたもののようで、天井から降りそそいでいた。トルテが移動してきた換気孔も天井にあり、その部屋を見下ろすかたちとなっている。


「ディアン……おかあさん、おとうさん。もう一度会いたかった……」


 その悲しげな声を耳にして、トルテは思わず声をあげかけた。危ういところで口を閉ざし、視線を巡らせる。部屋の隅がもぞりと動いた。膝を抱えるようにしてうずくまっている影――薄桃色の髪、背中をやわらかに覆っている純白の羽毛。


 エオニアだ。間違いない、目指す場所にたどり着いたのだ!


 トルテの瞳に、彼女の体内の魔導士特有の魔力マナの流れが見える。それとともに胸に光が反転したような影が見えていた。だがその他に、損なわれたり失われている箇所はない――トルテは安堵した。エオニアに怪我はないようだ。


 そっと身を乗り出し、トルテは穴を塞いでいる格子に指をかけた。力を籠めてみるが、ガタリとも動かない。どうやら容易には外れてくれそうにないらしい。


「エオニアさん!」


 トルテが小声で呼びかけたそのとき、丁度のタイミングで部屋の扉が開かれた。トルテの声は扉の軋む音で掻き消されてしまう。


 エオニアは顔を上げ、涙に濡れた瞳に警戒のいろを込めて立ち上がった。扉から部屋に入ってきた相手を見て、叫ぶようにその名を呼んだ。


「ラスカ兄さん……!」

 

 トルテが息を呑み、自分の口を手で押さえつつ気配を押し殺そうとする――いまはマズい、気取られる訳にはいかない!


「兄さん、どうかお願い……シニスターの言うことを聞くのはやめて! あいつはこの世界の全てに何の感情も抱いていない。ラスカ兄さんもおとうさんたちも、みんな殺されてしまうわ!」


「父も母も、もはや関係ない。俺は俺の遣り方でこの世界を救ってみせる」


 エオニアは自分より背の高い人間族の兄の腕を掴むようにして詰め寄っていた。けれど兄であるラスカは動じていない。エオニアが必死の表情で言葉を続ける。


「わたしを差し出しても、あいつに約束なんて守るつもりはないのよ。古代龍に惑わされないで! あいつは敵なのに。おとうさんもディアンも、あたしのなかに封じられていたこの力が――」


「黙れエオニア!! 俺から何もかも奪ったくせにッ」


 そこではじめてラスカの表情が変わった。あまりの激昂ぶりに、エオニアの言葉が途中でぷつりと途切れる。


「にい、さん? 何のことを言っているの……奪うなんて、わたしは何も」


 エオニアは呆然とつぶやいた。人間族の兄を見つめたままゆるゆると首を振り、言葉を続けようとする――。だが突然、激痛に襲われたように胸を押さえ、息を詰まらせてしまう。


 『従僕の錫杖』に繋がれた心臓が、彼女の鼓動を乱したのだ。トルテにはその魔力マナの流れの異常が見えた。一時的な乱れだろうが、エオニアは呼吸すらままならなくなっている。あれでは声が出せない……!


 苛立ったラスカが血の繋がらない妹の細い手首を乱暴に掴みあげ、力任せにグイと引いた。自分の胸に倒れこんできた飛翔族の娘の細い腰に腕を回し、その背にある美しい翼に指を沿わせ……次いでエオニアの顎に手をかけた。


「おまえが現れてから……父も母もおまえに夢中だ。俺もおまえのことが大切だった……なのに俺の居場所をおまえが奪ったんだ!」


 エオニアの視線を力尽くで自分に向けながら、ラスカは大声でさらに言いつのった。


「どうしてなんだ! 何が狙いなんだッ? おまえが俺の前に現れ、そしてアイツが現れて、すべてを滅茶苦茶にしたんだ! 俺は、俺は――」


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