従僕の錫杖 8-57 願いから続くその先に

 冷たく堅い床に、ひとひらの雪が舞い降りる。


 万年雪を抱いている遠い峰から、風に運ばれてきているのだろう。中央にそびえる塔のような装置に損傷はないが、激しい戦闘で外側を覆う壁の複数個所が崩れており、わずかに薄い色の空が見えているのだ。その隙間から細く白い風が吹き込んでいる。


 光の残滓ざんしのような白い欠片は、床の上にわだかまった主なき豪奢な外套マントの絹糸の刺繍のひと針に触れ、そっと静かに溶け消えた。


 ロレイアルバーサの姿は、もうなかった……ってしまったのだ。


 彼の体は相応の年月を経ており、また度重なる『時間』の魔導の行使による余波で肉体そのものが疲弊ひへいしていたため、本来の時間のもとにあっては朽ち果てる定めであった。苦しむ前に、ルレアとヴァンドーナは旧友を導いていったのだ――ここではない世界に。


 転生というものが存在するのか、死んだ記憶のない者にはわからない。だが、来世というものがあるならば今度こそ、愛というものを与えられ認められる相手に巡り会えるのだろうか――ルシカはそうであることを願っている。


 彼女は高い位置に開いた穴を見上げていた視線を戻し、目の前に立つふたりを見つめた。


「……クルーガー、マイナ……」


 そのふたりの気持ちを想い、目を伏せがちに首をわずかに傾ける。隣に立つ彼の弟テロンも、周囲の仲間たちも、きっと同じようにいたたまれない思いを感じているのだろう。誰も何も言葉を発せず、押し黙ったままだ。


 クルーガーとマイナは寄り添うように立っていた。マイナは紅玉髄カーネリアン色の瞳を開いたまま床に視線を落とし、唇を引き結んで肩を震わせている。クルーガーが包み込むように小さな肩を抱き、その手をしっかりと握っていた。


 戦闘になる前に台上で言い掛けたルシカの表情で、何かしらの重い事実を伝えられる覚悟があったのか、ふたりは改めて聞かされた事実に取り乱すことはなかった。


 だがその言葉にあった年月を耳にして、ふたりの心は激しく揺さぶられたのであろう。ふたりは息を呑み、マイナはふらりとよろけて倒れかけたのだから。


 無理もない、とルシカは思う。――でも、これが彼女にできる精一杯だったのだ。


 噛みしめていた唇を開き、万能の力の名を持つ魔導士は震えそうになる顎に、瞳に力を込め、ゆっくりと口を開いた。


「グローヴァー王国中期の魔導技術では、時間の短縮という概念があまり進歩していなかった。魔法を即発動させる技術や、移動魔法にかかる時間消費をゼロに抑える技術――『時間』の魔導に関する分野は、魔法王国後期になってから発達し、ようやく独立した学問として確立されたものなの」


 ルシカは語った。低い声で、淡々と――感情を抑えようと努めていなければ、きっと声が震えてしまっただろう。


 だがこれは、どうしても事実として伝えなければならないことなのだ――ルシカ自身が哀しんでいては、ためらっていては……ふたりの願いを叶えることができなくなる。


「だから『打ち捨てられし知恵の塔』が造られた中期の技術レベルで構築されたままのこの装置で、あたしたちが望むかたちの結果を具現化しようとすれば、どうしてもこの年月が必要になる……できうる限り、あたしの知識を応用させて魔導プログラムと呼ばれるものを改善したけれど……これ以上は短縮できなかった」


 『時間』と『空間』の力を持つ大魔導士とうたわれた祖父から受け継いだ知識をフルに活用したのだ。


 拉致されて無理矢理ではあったが、連れて来られたことは結果として良い方向に向かったといえる。カールウェイネスが携えていた知識とルシカの知識が合わさってこそ実現できた、それでも最良の改善結果であった。


「――世代を経て、延々と受け継がれ続けた『従僕の錫杖』。生命を構成する魔力マナの設計総体の配列に加えられたそれは、受け継がれるたびに順応していき、しっかりと結びつきすぎてしまった。……だから、分離させて本来あるべき構成配列に戻すには、とても複雑で繊細な過程が必要になる――実行することは可能だけど、相応の時間が要求される……」


「それが……十五年、どうしてもかかるというんだな」


 クルーガーが言った。訊いたのではない、事実として受け止めるかのような口調であった。


「――ええ」


 ルシカはクルーガーの瞳を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


「ルシカが言うんだ、間違いないのはわかっている。その期間を要するという事実を受け入れなくては、マイナの寿命はひとより遥かに短いところで尽きてしまう……」


 クルーガーはマイナの頬に触れた。目を上げた少女の顔を見つめる。


「仕方がないよな……死なせるわけにはいかない」


 マイナ自身はクルーガーの胸に寄り添ったまま、まだ迷うように瞳を揺らしていた。だがクルーガーはルシカに顔を向け、力を込めた揺るぎのない青い瞳を逸らさず、しっかりと頷いた。


 ルシカはクルーガーの決意に応え、決然と装置に向き直り、歩み寄った。自分の背丈より大きなパネルが取りつけられている場所で腕を掲げ、そのなめらかな表面に手のひらを滑らせる。


 いくつもの『真言語トゥルーワーズ』の表記文字が現れ、光を発しながらパネルの表面に整然と並んだ。


 その文字を、ルシカが然るべき順に触れていくと、次から次へ新しい魔法陣が具現化されて輝いた。それはさらに大きな魔法陣をいくつか紡ぎだし、五つ揃ったところで、一瞬全てがまばゆく輝いた。


 光が鎮まると、パネルそのものが中央から縦に割れ、扉となって開く。中は、やわらかな明るい緑の光に満ち溢れる部屋になっていた。魔導特有の光の色だ。


「これはすごい……亜空間になっているんですね」


 ルシカの後ろから覗き見たティアヌが感心したような声をあげる。魔術にあまり詳しくないリーファにすら、濃い魔導の気配を感じられるほどだ。


「マイナが中に入ったら扉を閉じて装置を起動させ、それから十五年の年月をかけて『従僕の錫杖』の存在を解きほぐして分離することになる」


 ルシカはそこまで言って言葉を切り、クルーガーに向き直った。


「起動するまでは何の影響もないし、ただの小部屋よ」


 クルーガーは顔に感謝のいろを浮かべ、ルシカに向かって頷いた。そしてマイナの肩を押すようにして、一緒に中に入っていった。


「……しっかりね、クルーガー」


 ふたりの背を見送ってつぶやき、ルシカはくるりと仲間たちを振り返った。


「さて、あたしたちは待っていましょう。突然のことだし、気持ちの整理もあると思うし――長い別れになるから、ふたりもいろいろ伝え合うこともあるだろうし」


「ねぇ、ルシカ」


 リーファが心配のいろを顔に浮かべたまま、そっと訊いてきた。


「出来る限り調節して短縮したっていってたけど、本当はどのくらいの期間必要だったの?」


「三百年よ」


「さん……」


 ルシカの答えに、一同が絶句する。メルゾーンなどは顎が大きく開いてしまっていた。


「受け継がれはじめてからあまりに年月が経ち過ぎていたのよ……王国中期のラミルターの時代から三千七百年以上経っているんだもの」


「それを……おまえ、むしろよく十五年まで縮めたな」


 メルゾーンがうめくように言った。


「えっへん。まぁね、あたしは『万色』の魔導士ですもん! ……と言いたいところだけれど、正直もっと短縮できれば……とは思うわ。だってこんな長い期間ふたりが離れ離れになるなんて――」


 当人たちが目の前からいなくなったので気が緩んだのだろう。ルシカの目に涙が溢れていた。テロンが腕を伸ばし、ルシカの肩に触れると、彼女は夫の胸に倒れこんで涙を流した。


「いや……装置のプログラムを改善し、これだけの書き換えを実現できるのは、この世界ではそなた以外にはない」


 黙って後方に佇んでいたカールウェイネスが低く言った。


「だから、そなたを連れてくる必要があったのだ――たとえ無理にさらってでも」


 その発言に、ルシカの肩を抱いたままのテロンが静かに言葉を返した。


「誰しも大切な相手を想う気持ちはある。他のものを犠牲にしてでも叶えたいだろうが……誰かを大切だと想っているのは、自分だけじゃない。犠牲になる者も、誰かの大切な相手かもしれないのだということを忘れるべきではない」


「ああ。すまなかったと思っている……」


 ミンバス大陸のターミルラ公国の領主は、悔恨の念に苦悶するかのように目を伏せ自分の肩を掴んだ。


 ルシカは夫の腕からそっと顔を上げ、誰にともなくつぶやいた。


「好きな人にはすこやかであって欲しい、幸せに暮らして欲しい……そしてできれば、ずぅっと一緒にいて欲しい……誰しも願いは同じだものね」


 頷いたメルゾーンは腕を組んでここではない場所に意識を投じ、リーファとティアヌは互いの手を握って繋ぐようにして寄り添った。


 仲間たちは装置の前で、それぞれの想いを抱えたまま静かに待ち続けた。


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