従僕の錫杖 8-56 願いから続くその先に

 時空の壁を越えて凛と響き渡ったのは、ルシカの『真言語トゥルーワーズ』であった。


 『降霊ネクロマンシー』という、魔導のことわりによってのみ紡ぎだされる大術。


 たおやかな体を包み込むように展開された魔法陣の発する光は、先ほどのような禍々しい赤い光ではない……何処までも澄み切った、生命の営みそのもののように紅く美しい光であった。


 やわらかそうな髪がふわりと空中に持ち上がり、金色の翼さながらに輝いた。


 美しく光を帯びたすべらかな頬と瑞々しい唇は、ルシカ本人の感情を消し、ただ一面の海原のようにどこまでも静かにたいらかにいだものになり……次いでこの上もなくあたたかく穏やかな笑顔を浮かべる。


 伏せられていたまぶたが開かれ、瞳が見えた。澄んだ夜明けの太陽のような、あたたかくも澄んだオレンジの色彩。最初に地表を染め上げる温もりに満ちた光のいろ――。


 テロンにはわかった。いま目の前に立っている存在が、すでにルシカと呼ばれている人物ではなくなっていることが。そしてクルーガーやリーファ、ティアヌやメルゾーン、出逢ってそれほど経っていないマイナにも、それは容易に理解できたのである。


 光のなかに浮かび上がるような姿をした娘が、華奢な腕を差し伸べるようにそっと動かし、ふっくらとした唇を微笑みのかたちに開く。


「ロレイ」


 発せられた声は甘く、ルシカよりも年上の女性であるような熟した響きを持っていた。親しいものに語りかける、耳に心地の良い優しげであたたかな呼びかけ。


「……る、れあ……? ルレアなのか……?」


 ロレイアルバーサの乾ききった唇が開き、おずおずのその名を呼ぶ。がくがくとこらえようもなく震えだした手が持ち上がり、目の前に立つ女性の姿を映した黄金色の瞳はゆるゆるとうるんだ。透明なしずくがあとからあとから零れて、冷たい床を濡らしていく。


「ずぅっと待っていたのよ、ロレイ」


 優しく叱るような、微笑みながらも諭すような声音で、ルレアは言った。静かに老人に歩み寄り、その頬にほっそりとした指を触れさせる。


「ヴァンもずっとあなたのことを気に掛けているわ。あなたの身に良くないことが起きたのではないかと、あのひとは本当に思い悩んでいたの」


 発せられたその名を聞いてぷいと横向けられた顔に、ふわりと手のひらをあてがい、やんわりと戻して瞳を合わせ、ルレアは微笑んだ。


「不貞腐れないで、ロレイ。ごめんね……わたしはあなたの待ち人ではないけれど、きっとあなたもあなたの愛するものに巡り逢えるときは来るのよ。わたしはその相手ではないわ。だからわたしのために、どうか進むべき道を間違えないで」


 揺れる視線を受け止め、ルレアは包み込むような笑顔を浮かべた。


「今からでも遅くはないわ。わたしたちが導いてゆくから……ね?」


 ルレアは床に膝をついて丸くなっていた男の手を握り、離してかがめていた上体を起こした。すがるような瞳になった男を安心させるためにもう一度微笑むと、ルレアはおもむろに天へ向かって腕を伸ばした。


 あたたかく白い光が周囲の空間から生じた。衝撃で崩れた外壁からわずかに見える空から差し込んできた薄明るい光の筋に、ふたりを包み込んだ白い光が溶け合うように繋がる。


 それは、天の梯子はしごとも呼ばれる、次元を渡る光の道であった。


 光の先を見上げたロレイアルバーサが全身をわななかせ、むせぶように言葉を発する。


「……儂はおまえが羨ましかった。おまえに何かを手伝ってもらうたび、おまえが何かを成し遂げるたび、身を焦がすほどの羨望を覚えた。儂はおまえになりたかった――おまえに認めてもらいたかったのだ」


 ヴァンドーナ、友よ……。ロレイアルバーサは最後にそうつぶやいた。彼が光の道の先に見い出した姿は、かつての親友――ヴァンドーナであったのだろうか。


 ルレアがそんな彼をなだめるように背中を撫でるうち……ふたりの周囲の光が強まり、まばゆいほどの光となってその場を満たした。


 仲間たちが掲げた腕や手のひらで目をかばう。


 光の中でルレアが振り返り、オレンジ色の瞳を真っ直ぐに向けた。少し離れた位置に立ち、強い光のなかにあってもなお彼女を見守り続けている青年に。


 転がる鈴のように遠ざかっていく、澄んだ声が青年に届く。


「孫は、あなたという素適なひとに巡り会えたのですね。……ルシカのことどうかよろしくね。大切な体を貸してくれて……ありがとうと……伝えて……」


 まるで翼のように広がっていた髪が、細い肩にふわりと流れ落ちる。内側から光を発していた白い肌が寒さに少し赤く染まった健康な肌へと代わり、細い体が支えを失ったようにがくりと仰け反った。


 駆け寄ったテロンが広げた腕の中に、華奢な体が寄りかかる。世界の何よりも大切な存在を胸に抱きしめたテロンは、穏やかな瞳で目の前の光に応えた。


「――はい、ルシカに必ず伝えます」


 光の道は、微かなきらめきを残して消えゆき、あとにはあたたかくも静謐な気配だけがその場に遺された。


「長い年月、ひとが生きる寿命のほとんどをかけて……」


 マイナが胸に手を当て、そっと言う。


「ただひとりのひとを愛し続けることができるなんて。ひとって、すごいですね……」


 クルーガーは顎に手を当て、厳粛な面持ちで無言のまま立っていた。その視線の先には、塔のような装置がある。


「認め合う必要性……か」


 メルゾーンが自分の足先に視線を落とし、つぶやいていた。その顔には、彼らしくないと言われそうな思慮深い表情が浮かんでいる。


 いつもなら軽口で突っ込みそうなリーファも、深く息をつきながら佇んでいるのみ。その隣にはティアヌが立ち、その少女の傍に居られるだけで幸せだとでも語りそうな顔でにこにこと微笑んでいるのだった。


 カールウェイネスは瓦礫に手をついてよろけながらも、だがしっかりと自分の足で立ち上がっていた。


 テロンの腕の中では、ルシカが目を開いたところだった。


「ルシカ……」


「……テロン」


「信じてはいたが、魔力マナの使い過ぎでルシカが倒れてしまうのではないかと、正直不安だった」


 素直に発せられたその言葉に、ルシカは握り込んでいた手のひらを開いてみせた。いつの間にか、そこには魔晶石があった――いつぞやのミディアル防衛戦のおり、テロンが押しつけるようにルシカに手渡した、魔力マナを蓄えた輝石が。


「……えへ。何だか使っちゃうのがもったいなくって、そのままお守りにしていたの」


 テロンは思わず吹き出し――次いでルシカをぎゅっと抱きしめた。


「もう無茶は許さないぞ。君の体は、もう君だけのものじゃないんだ。それに、君たちを失ってしまったら……俺は生きてゆけないぞ」


 体を離したテロンが、ルシカの下腹にそっと手を置く。心配、怒り、悲しみ、安堵――さまざまな想いに揺れる表情のまま、ルシカに微笑んだ。彼女もまた瞳をうるませ、彼を見つめていた。


「これからはあなたに心配をかけない。約束したもん……命は大切。あなたとふたりで、いいおとうさんとおかあさんになろうね」


 テロンは安堵のあまり目に涙を浮かべたままルシカの瞳を覗きこみ、そっと顔を近づけた。慌てた仲間たちが、あさっての方向に顔を向ける。


 ようやく唇を離し、言葉を継げるようになって、テロンが応えた。


「なれるさ、きっと。俺は、妻も家族も王国の未来も、全てを護るぞ……!」


「一緒に、よ」


 さりげなくルシカが言葉を修正して微笑みながら、今度は自分から、テロンの口に想いを込めて唇を重ねた。


 少しの時間を使ったあと、ルシカがテロンの手を借りて立ち上がる。最後の課題に挑むために――もうひと組の願いを、叶えるために。


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