従僕の錫杖 8-58 願いから続くその先に

 亜空間のなかでは、激しくしゃくりあげるマイナの背を、クルーガーが何度も撫でていた。


「せっかく知り合えたのに、こんな……ごめんなさい、ごめんなさ……」


「マイナ」


 うつむいたままの少女に何度も呼びかけるが、少女は謝るばかりでなかなか顔を上げない。


「マイナ、どうか俺の言葉を聞いてくれ」


 クルーガーはかがみこむように目線を合わせると、マイナの頬に手のひらをあてがって支え、涙に濡れている紅玉髄カーネリアン色の瞳を覗き込んだ。励ますように自分の口元を微笑ませる。


「君の体の内にある古代の夢の残滓、その解放にかかる時間――その運命もすべてひっくるめて君だというのならば、俺の覚悟はできている。俺はマイナをいつまででも待つつもりだ――君がそれを望んでくれるなら」


 マイナは震えおののく瞳を揺らして、くしゃくしゃの泣き顔のままに言った。


「そんな……わたしにそんな価値があるのかどうか。だって十五年……十五年間もあるんですよ」


「価値……? ならばこう言ったほうがいいのか」


 クルーガーはすぅと息を吸った。そうして決然とした表情を真っ直ぐにマイナに向け、言った。


「マイナ、君は俺にとって、世界でただひとりのひとだ。待つ価値はある。それがたとえ千年でも、一万年でも。君に再び会えるためなら、俺は構わない」


「言い過ぎです。そんなに長く生きていられないじゃないですか」


「ならば、ずっとマシだということになりはしないか? 一万年に比べれば、たった十五年じゃないか。その後はずぅっと一緒にいられるんだ」


 クルーガーはじんわりと諭すように言葉を続けた。愛おしそうに、涙に濡れた白い頬を撫でながら。


「長い期間だとは思うが、マイナ、君は我慢できるか?」


 頬に触れる手に自分の手を重ね、止まらない涙を流して、小さくしゃくりあげながらマイナは応えた。


「そんな、わたしより、あなたのほうが……あなたには別の選択もあるんです。相手がわたしじゃなくても……だって十五年もあるんですよ。待っているほうが大変だと思います」


「君は自分のことより、俺の心配をしていたのか」


 クルーガーは笑った。それは、この上もなくあたたかい笑いだった。


「言っただろ? マイナは俺にとって、世界で唯ひとりのひとだと。君は俺の道をひらいてくれた。君は俺に命を救われたというが、俺も君に救われていたんだ。待つことがマイナの命を守るというのならば、俺は喜んで待つさ。君が、王である俺の重荷をゆるしてくれるのならば」


「大きな力と責務を背負うあなたの覚悟……。はい。その覚悟、ともに受け入れるための決意は、できています」


 震える唇で、マイナはようやく微笑んだ。


「あなたがわたしでよいと言うのなら……わたしだから待つのだとおっしゃってくれるというのならば、どうか待っていてください、クルーガー。わたし、あなたが待っていてくれるのなら怖くない」


 あたたかい吐息をつき、マイナが頬を染める。


「愛しています、クルーガー」


 クルーガーは目を細め、自分よりずっと小さな体をいつくしむように強く抱きしめた。耳元で囁く。


「愛している、マイナ。俺の心は、永遠に君のものだ」


 ふたりは互いのぬくもりを感じながら、少しの間動かなかった。


「ねぇ、クルーガー。……わたしって装置のなかで、夢、見るのでしょうか?」


「……どうかな。でも見れたのならばさ、もし良ければ俺の夢を見てくれないか。その夢に飛んでいって、逢えるかもしれないからな」


 冗談めかしてそう言い、瞳をぐるりと回してみせたクルーガーに、ふふふ、とマイナが笑った。


 クルーガーが青い瞳にマイナの笑顔を映したまま、動きを止める。


 相手がまじまじと自分の顔を見つめてくるので、きょとんとしたマイナは首を傾げて相手を見返した。クルーガーが我に返ったように慌てて動き、照れたように微笑んだ。


「やっぱりさ、マイナは笑顔がよく似合う。好きだ、その笑顔がとても」


 吃驚したように口を小さく開いたマイナは、ゆっくりと目をしばたたかせた。次いで、こそばゆそうにくすくすと笑い、素直な笑顔を青年に向けて言う。


「わたしもあなたの笑顔に励まされています。ありがとうございます、クルーガー」


「こちらこそ。ありがとう、マイナ」


 クルーガーは微笑んで笑顔に応えたあと、真面目な面持ちになって言葉を続けた。


「――時が満ちるとき、必ず迎えにくるよ」


 マイナが頷いた。クルーガーはそっと微笑み、マイナの頬に流れていた最後のひとしずくを指でぬぐった。ゆっくりと首を傾けながら、顔を近づけていった。触れあう寸前にささやく。


「俺の――花嫁」


 ふたりは唇を重ねた。それは、ふたりだけに通ずる誓いの証でもあった。





 扉から出てきたクルーガーは、何かを吹っ切ったように明るい顔をしていた。


 無言で微笑んで迎えた仲間たちは、肘でつつき合い、ルシカだけをその場に残してホールに通じる扉前まで後退する。


 『万色』の魔導士は厳粛な面差しで装置に向き直り、両腕を広げた。


「生命をあるべきかたちに、封印されし支配の力に消滅を」


 朗々と、装置を起動させるための最後のコードとなる『真言語トゥルーワーズ』に乗せて紡ぎ、魔法陣を具現化させた。


 装置全てを魔法陣が囲み終えたとき、さまざまな光が現れて渦を巻いた。光で綴られた『真言語トゥルーワーズ』の表記文字が高速で流れていく。そしてそれは唐突に光を消し、装置は僅かな光を残して沈黙した。


 自分の役目である全ての事柄を終えたルシカが、ゆっくりとくずおれる。冷たい床に倒れる前にテロンが抱きとめ、しっかりと抱きしめる。


「……装置は無事起動したわ。これで十五年ののちに、分離作業を完了させて停止し、扉が開く。そのときには、錫杖は完全に消滅し、彼女は解放されてこの時空に戻ってくる」


「そうか。ありがとう、ルシカ」


 クルーガーはテロンとルシカに歩み寄り、手を差し出した。ルシカが瞳を揺らしながらも、しっかりとその手を握る。テロンは穏やかで優しげな面持ちで微笑み、国王である兄を見つめて言った。


「いったん戻り、改めてこの塔の外壁を直す手筈を整えてこよう。ミディアルの都市の修復と復興、それから警戒態勢の見直しと再構築、ターミルラとの外交――いろいろ忙しくなるな」


「――そうだな」


 装置のある空間を出るとき、クルーガーはもう一度振り返った。祈るように胸に手を当て、愛する娘の名をつぶやく。


 外では仲間たちが待っていた。


 ルシカは塔の周囲に『護りの結界』を張り、塔を見上げて空を見た。まぶしさに手をかざし、指の隙間から見上げた夏の空は抜けるように青く、天に近いこの場所では空の果てにまで手が届きそうな気がして、ルシカは深く息を吸い込んだ。


「――ありがとう、おじいちゃん。ずっとずっと、大好きよ」


 ルシカは口元を微笑みの形にした。冷たい空気が清浄な気配をまとい、彼女の周囲をそっと取り巻く。


「マイナを、クルーガーを、あたしたちを――この王国のゆく先を、どうか見守っていてね」


 白く凝った言葉は、ゆっくりと空中に溶けていった……。





 王都は夏を迎え、露天には季節の野菜がずらりと並べられ、薄く華やかな色彩の服をまとった人びとが行き交っている。


 『千年王宮』では、仲間たちの帰りを待っていた人びとがつどっていた。無事を知った者たちは喜び、歓声をあげた。


「――ルシカ!!」


 開口一番シャールがテロンに抱えられたルシカに走り寄り、気づいて地面に降ろしてもらったところを抱きしめていた。メルゾーンがそんな妻の様子を見て微笑んでいる。歩み寄ってきたソバッカの腕に抱かれている幼い息子リューナに、父親の顔になって笑いかける。


 宮廷魔導士の無事を知ったゴードンはほっとした表情でドッと目から涙を溢れさせ、ルシカ自身と妻のルーナに懸命になだめられていた。


 テロンは父と騎士隊長ルーファスに事情を説明している。そこへ帰還の知らせを受けてまろび駆け走ってきたメルエッタが割り込み、ルシカの無事な姿を見てほっと胸を撫で下ろしていた。


 クルゥルルル……。


 すこし離れた場所に立ち、鼻を寄せてくるプニールの頭を撫で、クルーガーはその光景を眺めていた。嬉しそうなその騒ぎのなかに入り込む前に、青年はその瞳と同じ色の空の下で歩みを止めていたのだ。


「永遠の別離ではない。十五年なんてあっという間さ」


 遠く亜空間で眠り続けているだろう愛する娘を想い、クルーガーはささやくように語りかけた。


「そうだろう、マイナ――」


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