従僕の錫杖 8-38 ミディアル防衛戦
商店が集まる通りは昼下がりになり、一日のなかでも落ち着いた時間帯を迎えていた。
昼食を求める列が消え、夜の稼ぎ時間のために仕込みがはじまり、『準備中』の札をさげている食堂や酒場もある。だが隊商が着く時間や客が入る時間帯が決まっているわけではない、宿と兼業しているところはどこも賑やかだった。
幸い、生活の品や食材を扱う店の通りは、ごった返すほどの人通りというほどではなかった。
クルーガーは周囲を見回しながらもホッとしていた。
あまりに人通りが多いと、着いたばかりの入り口付近の混雑の中でマイナがひとにぶつかられてばかりいたように、またいつ転んでしまうかと心配ばかりしてしまう。
その心配している相手であるマイナは、今は腕に紙袋を抱えて歩いている。さきほど買った香辛料と
クルーガーは自分の抱えていた荷物をなんとか片手に持てるようにまとめると、マイナが抱えていた荷物をヒョイと持ち上げた。
「あ」
マイナが小さく声をあげ、クルーガーを見上げた。
「大丈夫ですか? クルーガー、もうそんなにたくさん持っているのに」
言いながら取り返そうと腕を伸ばしてくるので、クルーガーは荷物をサッと高く抱えあげた。――これで小柄なマイナは荷物に手が届かなくなるだろう。
「国王陛下に全部持たせるなんて、畏れ多いです」
本気なのか冗談なのか、マイナが心底困ったような表情で言ったので、クルーガーは楽しそうな笑い声をたてた。
「まるでルーファスみたいなことを言う。気にするな。たまには使ってくれないと筋肉が錆びてしまう」
「えぇっ、錆びてしまうものなんですか?」
「いや」
「……もしかして、からかってますか」
「もしかしなくても、そうだぞ」
マイナは
背の高いクルーガーを見上げる格好になっているので、白く細い喉元が晒され、繊細な鎖骨が見えた。初夏の太陽をいっぱいに受けた瞳は泉のように透き通ってみえる。
ミンバス大陸では肌の白い者が多いと聞くから、マイナも日焼けとは無縁なのかもしれない。肌と対照的な黒い髪が陽光のなかでいっそう
少なくとも、今のマイナはいきいきとして楽しそうにみえる。
胸を押さえて苦しげに歪む表情は見ていてとてもつらいが、笑顔を眺めているのはとても嬉しくいつまででも飽きない。心の中をあたたかいものが満たしていくような気分だ。
「どうせ、目指す宿はもうすぐそこだ」
寄り添う、と形容するには一歩足りないほどの距離を開け、ふたりは待ち合わせの宿屋に着いた。
仲間たちはまだ誰も着いていないようだ。
すでに顔馴染みになっている宿屋の女主人に掛け合うと、宿がかなりごった返しているにもかかわらず、すぐに部屋を用意してくれた。
用意された部屋は、城砦の内側にある宿のなかでも最上のものだ。ひとつ大きな部屋があり、四つの寝室がその部屋から出入りできるように続く造りになっている。
荷物を置き、ひと息ついたが、誰も戻ってくる気配がない。一階の喧騒は最上階のこの部屋まで届かないので、静かだった。
「みなさん遅いですねぇ」
窓辺に立っていたマイナの声が、発した本人が
「……そうだなァ」
クルーガーはソファーに座っていたが、伸びをしながら立ち上がり、マイナの隣まで歩み寄った。
マイナが反応して一歩身を引く。その瞳のいろを覗きこんで、クルーガーは苦笑した。
「襲いはしないぞ。信用ないな」
少女の顔が真っ赤に染まった。クルーガーは、よくそんなにくるくると色が変わるものだなと感心してしまう。
「い、いえそんなつもりでは」
慌てるマイナの反応に、クルーガーも落ち着かない気分になって頬を掻いた。逸らされていた
「ま、まあ、何だ。休むなら今のうちだな。皆が集まったらすぐに出立するだろうし、おそらく周囲を警戒して強行軍になると思うしな」
早口になったクルーガーが目を投じたのは、窓の外――フェンリル山脈の連なりが城砦の上に見える光景だった。
「――なッ!?」
クルーガーが窓枠にダンッと手を当てた。音に驚き、マイナの瞳がクルーガーに向けられる。
緊迫した表情のクルーガーの横顔に思わず
クルーガーの視線の先を追う必要はなかった。――その異様な光景は、はっきりとわかるほどに差し迫ったものであったのだ。真っ黒な自然ならざる不吉な雲が都市の上空を覆いつつある。無数の黒い影が、都市の入り口へ殺到してくるのが遠目にもわかる。
「なんですか、あれ!?」
クルーガーは音を立てて窓を押し開け、身を乗り出した。パンッという大きな破裂音が耳を打ち、行政区――テロンとルシカが向かった図書館あたりの上空に魔導の光が魔法陣となって花開くのを目撃した。
「『第一級非常事態宣言』か!」
クルーガーは窓から戻り、マイナの肩を掴んだ。
「この都市が襲われる。おそらく敵はあの魔導士たち、君を――『従僕の錫杖』を狙ってくるはずだ!」
いっぱいに目を見開いて怯えた表情になるマイナを見て、クルーガーは身をかがめて視線を合わせた。意識して得意の表情――ゆっくりと自信たっぷりな笑顔を作り、落ち着いた声で言う。
「マイナ、大丈夫だ。俺が必ず護り通す」
だから――、とクルーガーは言葉を続けた。
「俺の傍から離れるなよ」
マイナはクルーガーの顔を見つめ、しっかりと頷いた。
「はい!」
ドロドロドロ……。
不気味な地鳴りが巨大な都市を揺さぶり、住民たちは慌てふためいて道に飛び出してきた。都市の自警団や王国直轄の兵たちが住民たちを誘導するために通りを駆け抜けていく。
賑やかながらも穏やかな午後を迎えていたミディアルは、様相が一変していた。
パパンッ! 音高く響き渡った連続音を聞き、テロンとルシカは視線を巡らせ、上空に都市管理庁から打ち上げられた魔導の光を見た。
「――『南門が破られた、東門にも到達寸前』!」
暗号文字を正しく読み取り、ルシカが声をあげる。
「まずいな。このままでは
テロンが厳しい表情でつぶやき、ルシカもまた緊張した面持ちでじっと体を強張らせていた。走り続けるテロンの腕の中で、すでに自身の魔力を高めている。
ルシカは独白するようにつぶやいた。
「まずはこちらの体勢を整えないと、迎え撃つ前にやられてしまう」
ミディアルは戦乱を経験した都市、そして隊商たちとともに雇われた傭兵たちや冒険者たちが
普通の都市ではない。――時間さえあれば、見合う戦力を整えられるはずだ。ルシカの頭の中はフル回転していた。
ルシカが全ての指示を出すことは不可能だ。それは今の彼女の役目ではない。国王であるクルーガーにもこの状況の指揮を執ることはできないだろう。みなこの緊急事態のなかで、それぞれの領域で最善を尽くし、やれることを果たすことしかできない。
「まさか、こんな大それた強襲を仕掛けてくるなんて……目的の為に手段を選ばないといってもひどすぎる」
ルシカができることは、まず状況を把握して問題解決の突破口を開くことだ。犠牲を最小限に食い止め、仲間たちの可能性を最大限に活かすべく、敵より
頼れる戦力と組織は、行政を司る都市管理庁のリヒャルディア市長、そして大陸の冒険者たちを束ねるギルドだ。彼らはこの混乱にあっても最善を尽くし、効率的に動くであろう。だがそれにも準備時間が必要となる。
「要は……最初の時間を稼ぐこと」
テロンとルシカはそのために移動していた。
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