従僕の錫杖 8-37 ミディアル防衛戦
ガタン、と音がして、只ならぬ気配を感じたテロンがルシカに走り寄った。
「う……」
「ルシカ! ――どうした、何かあったのか?」
椅子から立ち上がろうとして意識が飛んだのだろうか、膝から崩れるようにしてルシカが床にへたへたと座りこむところだった。
テロンはルシカが床に倒れこむ寸前に手を伸ばし、ぐらつく妻の肩を掴んで支えた。やわらかそうな金の髪が流れて顔にかかったのを、手でそっと持ち上げるようにして除け、そのまますべらかな頬に手を添える。
「……あ……テロ、ン」
半ば焦点を失っていたオレンジ色の瞳が戸惑うように動き、ゆるゆると上がって、自分を覗き込んでいた青い瞳と合った。
「……へいき、だと思うわ。変ね……急におなかに力が入らなくなって、目の前が真っ暗になった気がして……。でももう大丈夫みたい」
ルシカは心配ないと伝えるようにやわらかく微笑み、テロンの手を借りて立ち上がった。夫の心配そうな表情に応えるようにその手をきゅっと握りしめてから離し、微笑みながら言った。
「さぁ、みんなに合流しないとね。『道』が見つかったんだもの。準備ができていれば、すぐにでも向かえる。クルーガーたちも喜――」
『万色』の魔導士はそこで言葉を切った。ここではない場所を覗きこんだかのように、瞳孔が収束する。
同時に、テロンも目を見開いていた。
「何だ……この気配は……?」
――チリチリと首筋に痛みが走る。とてつもなく大規模な、強大な危険が迫ってくる感覚。まるで巨大なハリケーンが渦を巻き全てを破壊しながら自分の位置に容赦なく向かってくるような、圧倒的な危機感と死の気配。
ルシカもまた同じように感じていた。彼女が感じるのは魔導の気配であったが、何か例えようもない巨大な悪意の塊のようなものが
ふたりは血の気の失せた顔を見合わせ、互いに感じた凶兆が気のせいではないことを無言のまま認め合った。
テロンとルシカはすぐに保管庫を飛び出した。
長く狭い通路を延々と戻るのがもどかしい。ようやく中庭からへと続く閲覧室横の回廊まで戻ったふたりは、建物内を経由せず足を止めた。
テロンが回廊の屋根にひと息に跳び上がった。丁度通りがかった、資料の束を運んでいた図書館員が目を丸くする。
「ど、どうかしたんですか、何事です?」
狼狽した声に、ふたりはすぐには応えなかった。
「――テロン、何が見える?」
「黒い雲だ。南から凄い勢いで広がっている。自然のものではないな」
それを聞いたルシカは目を閉じた。国内の地形は頭に入っている。位置がわかれば魔力を解放し、事象を探ることができる――。
ルシカは目を開いた。傍にいた図書館員に答える。
「この都市が襲撃されるわ! 相手は魔導士に間違いない。かなりの数の魔法の気配を感じる」
「俺はテロン・トル・ソサリアだ。急ぎ、リヒャルディア市長へ連絡を。――『第一級非常事態宣言』を発令する!」
テロンが地面に降り立ちながらよく響く声を発した。発令の権限は、国王であるクルーガーと同じく王弟であるテロンにも与えられている。
その言葉を聞いた館員や警備員たちが息を呑み、各方面への連絡のために慌てて走っていく。
「ざっと見てもすごい数だった。時間の余裕はないな。――ルシカ、頼めるか?」
「もちろん!」
テロンの問いにルシカは短く答えた。
「敵の数は千を越えている。南と東からそれぞれ、都市の門や周辺部分までもう間もなく到達すると思われる」
テロンの言葉を聞いたルシカは左腕を真っ直ぐに天へ向けて伸ばし、右腕を空中に滑らせる。くるりと体を回したと同時に光が空へ向かって
魔導による『
「すぐに活用する日が来るとは……ね」
ルシカはつぶやき、一瞬だけ空を見上げた。この合図は、最近導入したばかりのものだ。魔道具として誰でも扱える装置を各都市に配備し終えたばかりの技術であり、考案したのは他でもないルシカ自身である。もちろん、装置を使わなくても魔導士であるルシカは自分で作り出すことができる。
「行こう、ルシカ」
テロンは手を差し出した。揺るぎない意思を表すように口元が引き締められ、青い瞳には強い光が灯っている。
「うんっ」
ルシカが頷き、大きな手に自分の手を重ねる。テロンはぐいと手を引き、パートナーの細い体を抱き上げるとそのまま足元の地面を蹴り、跳躍した。
抱えられたルシカはぴたりとテロンの胸に寄り添った。その視界がぐるりと変わり、まるで鳥になったかのように回廊の屋根が、図書館を取り囲む壁が眼下を過ぎる。
「みんなはどこかしら」
耳元でヒュウヒュウと鳴る風のなかで誰ともなく問うと、周囲を取り巻いていた風が
「――そう、ティアヌによろしくね。ふたりとも気をつけて、と」
「……森、が?」
ティアヌが顔を上げた。耳の良いリーファが敏感に聞き取って、相棒のエルフの青年を振り返る。
「どうしたの? ティアヌ」
ティアヌは種族特有の先の尖った耳をそばだて、半眼になってしばし集中した。心得ているリーファは口を閉じ、返答を待った。
「何か大変なことが起こったようです、リーファ。『
ティアヌは開け放たれて風を通している窓を見た。様々な物資を収納している倉庫のある三階であるが、窓は大きく開いている。飛翔族は空を移動することもあるので、この都市の建物は窓を広く造る傾向がある。
部屋の奥の箱をひっくり返していたギルドの長、ディドルクがすぐに飛び出してきて、ティアヌとリーファと並んで窓の外のバルコニーへ出た。
「――何でぇ、あれは!?」
「遠いけど。あれは……まさか!」
リーファの声が上擦ったものになる。
「
「この大森林アルベルトに生息している魔獣ばかりじゃねぇか。上位種も混じっていやがるな……信じられん光景だ……」
冒険者たちを束ねるギルドの長も、さすがに声を震わせた。ざっと見て把握できるような数ではない。まるで、巨大な砂糖菓子に群がる大量の蟻たちのように、都市に向かって南や東の方角から黒く微細な点が無数に寄り集まってくるのだ。
「敵襲です! 急ぎ手を打たないと間に合いませんよ!」
ティアヌの声に、ディドルクはハッと我に返った。
「……その通りだ!」
表情を引きしめ、巨躯を揺すって勢いよく階下に駆け下りる。
「おい! 敵襲だ、冒険者たち!」
冒険者ギルドの長の緊迫した声を聞き、ざわついていた一階の雰囲気が一気に静まった。
遺跡に潜っていれば、毎日が戦いと緊張の連続でもある。歴戦の冒険者たちはすぐに反応した。浮かれていた表情から真顔に戻り、自分たちの武器を腰に帯びる。仲間たちを呼び寄せ、足りない戦力を募りはじめた。
「小規模な編成を組むときに魔術師をひとりは入れるように心掛けろ。敵には
「妖獣が交じっている。元素を召喚するかもしれん。金属でできた通常の武器には
次々と指示か飛ぶ。その間にも、あちこちに配備されたギルド員たちからの情報が次々と飛び込んでくる。
「南門に詰めている監視兵からの伝令だ。――敵襲! 門が破られるぞ!」
ティアヌとリーファは表に飛び出した。
「こんな大都市で、いきなり市街戦ですか! その敵の魔導士とやらはいったい何を考えているんです!」
激昂するティアヌが吐き捨てるように言った。
「もともと滅茶苦茶な相手だわ。狙いはマイナの内にある宝物よ。すぐに合流しないと」
いまだ帰っていないマウや、この都市に住む住人たちのことが気に掛かる。だが、それらを護るための力はいくつもすでに動きはじめている。自分たちができることをするしかない。
ふたりは走り出した。
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