従僕の錫杖 8-2 願いを込めて

 黒髪の少女は、教えられた大聖堂の敷地内に駆け込んだあともそのまま走り続け、建物の裏にたどり着いていた。


「はぁ、はぁ、……ふぅ……こんなところまで追ってきているなんて……」


 どきどきと鼓動が激しく鳴り続け、少女――マイナは唾を何度も飲み込んだ。深呼吸も繰り返しているが、胸の動悸はなかなか治まらなかった。


「早く、クラウス様にお会いしなければ。こんなとき、わたしに『治癒ヒーリング』が使えればなぁ……そうすれば、おとうさんも」


 マイナが胸を押さえて呼吸を整えながらつぶやいたとき、ちょうど裏口から修道女がひとり出てきた。


「すみません」


 声を掛けつつ、その女性に走り寄る。


「至急、最高司祭クラウス様にお会いしたいんですけど――」


「クラウス司祭は今、王宮の式典への出席でお出掛けになっています。戻られるまで、どうぞ中でお待ちになって」


 その女性は朗らかに微笑みながら、手で建物の内部へ差し招いてくれた。それから、ふとマイナの顔を間近に見て、首を傾げながら問いかけてきた。


「もしかして、マイナムのヨハン司祭の――」


「あ――はい。娘のマイナ・セルリオーネです」


「まぁまぁ、大きくなって」


 女性は嬉しそうに微笑むと、「貴女あなたなら自由に中を歩いて構わないのよ」とマイナの背中をぽんと叩いた。


 マイナは周囲に目をやりながら、案内されるまま建物に入った。そのあと、女性はすまなさそうな表情になった。


「ごめんなさいね。これから私は祭りのイベントのために出掛けないといけないから……」


 追っ手がいる。だが、それを司祭以外のひとに伝えていいものか……少女は迷った。


「……はい。どうかお気になさらず。わたしは平気ですから」


 内心の不安を抑えながら、マイナはにっこり笑って返事をした。女性は微笑みを返し、外へ出ていった。


「でも……年に一度、いつもおとうさんに連れられて夜に訪れてただけなのに……覚えていてくださったんだ」


 その事実に胸がほっこりとあたたかくなり、マイナは口元を緩めながら廊下を進んだ。裏から入ったので、今いる場所は大聖堂ではなく居住のための建物だ。三階建ての石造りで、各階に大聖堂と繋がる細い通廊がある。


 マイナは階段を使い、司祭や神官たちの私室があるフロアまで上がった。司祭は戻っていないはずなので、そのまま廊下を通り抜け、奥に進んで通廊に出る。


「うわぁ……!」


 そこで、昼間の陽光を受けて輝く白亜の王宮をマイナは生まれてはじめて目にしたのである。それは、例えようもなく美しい光景だった。


 優美なアーチが幾重にも重なったような外壁には彫刻や飾り柱が施され、光が当たる部分とそうではない部分が複雑で精緻な紋様を織り成していた。


 まるで、建物全体が魔法陣のようだ――マイナは思う。


 王宮の敷地には緑を茂らせた大樹がいくつもあった。古くからそこに在り、人間には想像もつかないほど遥かな時を見てきたのだろう。その数え切れぬほどたくさんの葉が煌めく向こうには、青い空に向けて聳える幾つもの塔が整然と並んでいる。


 王宮の西棟、中央棟、東棟の屋上部分は平らな場所が多く、一箇所にのみ不可思議な丸いドームのようなものがある。その外壁には天空の星の巡りのごとき優美なアーチとテラスが設置されていた。


 およそ千年前に建てられ、今なお輝きを放つ『千年王宮せんねんおうきゅう』。ソサリア建国より遥か昔から存在し、幾多の戦乱の世もくぐり抜けてきた奇跡の城だ。


「今までは真夜中に見ただけだったけど……魔法の光があちこちに灯されていて、とてもとてもきれいだったけど……! 昼間のこの光景には敵わないよね!」


 歓声とともに、マイナはうっとりと嘆息した。そして、いつも隣で一緒に眺めていた父の顔を思い出し……たまらなくなって目を伏せた。胸に当てた手のひらをギュッと握りしめ、そっとつぶやく。


「おとうさんと、一緒に、来たかったな……」


 マイナは目をきつく閉じた。けれど、瞳に焼きついてしまった光景がまざまざと浮かび、すぐに目を開いた。今もなお、まぶたの裏には血に染まる父の顔……そして、焼かれて崩れ落ちる教会の光景が……今もくっきりと見えるのだ。


 真紅の瞳に音もなく涙があふれ、頬を伝い落ちる。マイナは手の甲で乱暴に涙をぬぐい、震える顎に力を込めた。


「……やつらに捕まる前に、なんとしてもクラウス最高司祭に会わなければ。その身を保護してもらわなければ、世界が大変な代償を払うことになる……」


 それが父の最期の言葉だった。


 どんな意味があるのかまでは聞かされていない。死の間際、父は続きの言葉を語ろうとしたが叶わず、その瞳に愛娘の姿を映したところで力尽きてしまったのだ……。


 マイナは目を伏せ、しばらく動かなかった。


「……下にある食堂の椅子に座って、待たせてもらおう。あいつらだって、ここまでは入ってこられるわけないよね」


 つぶやきながら歩きはじめたマイナは顔を上げ――凍りついた。聖堂への通廊の端に、父をその手で引き裂いた男が立っていたのだ。


「……な……なんで大聖堂の中にまで。この……」


 マイナは目を見開き……次いでキッとその男の瞳を見据えた。


「ひとごろし!」


 マイナの叫びと同時に、男は距離を瞬時に詰めてきた。マイナの小さな顎を掴み、容赦のない力でグイと持ち上げる。


「う」


 マイナの恐怖に引きつった顔に、相手の端正な顔が近づく。白に近い銀の髪が流れ、男の無機質な紫の両眼の片方を隠した。ひと離れした美貌は冷たく視線は氷のようで、マイナはぞっと身を震わせた。


 顎を掴んでいるほうとは別の腕が、少女の胸元に伸ばされる。男の唇が薄く開いた。


「――我々には崇高な目的がある。多少の犠牲は仕方なかった」


 感情を示さない声が、そう告げた。


「な……冗談じゃないわ!」


 激昂げきこうしたマイナは男に向かって叩きつけるように叫んだ。


「ひとごろしに理由なんかないっ! おとうさんを……返して……返してよ!」


「ウッ!」


 予想外の反撃に、男が呻いた。マイナが男の胸をこぶしで打ち、同時にブーツの爪先で相手の脛を力いっぱい蹴りつけたのだ。


 顎を掴んだ力が僅かに緩み、マイナは必死でその手を振りほどいた。夢中で駆け出す――大聖堂へと。


 男は舌打ちし、すぐに少女の追跡を開始する。――その手にはいつの間にか、鋭く光るナイフがあった。


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