従僕の錫杖 8-1 願いを込めて
「長々とした話を聞くより、祭りで楽しんだほうが皆も嬉しいと思うので、私の話はこれくらいで。今日は全員、思う存分に楽しんでくれ!」
耳に心地よい涼やかな声がそう締めくくり、穏やかな笑い声がたくさん洩れた。次いで『千年王宮』に割れんばかりの拍手が沸き起こった。
「ぷっ。クルーガーったら――あっという間に式典が終わっちゃったね」
バルコニーの下、広場の片隅に立っていたルシカも、やわらかな金の髪を揺らしながら笑っていた。
「――兄貴らしくていいんじゃないかな」
傍らでは背筋を伸ばしたテロンが立っている。こちらも口元に優しげな笑みを浮かべていた。
バルコニーの上では、たっぷりとしたマントと金髪を風になびかせ、
「ルシカ。今日はすぐ広場に向かえるようにこうして下に居るわけだが。俺、はじめて気づいたんだけど――」
テロンが小声で、ルシカにだけ聞こえるように言った。
「兄貴って、結構もてるタイプなのかな」
「……ん? 突然どうしたの、テロン」
きょとんと首を傾げるルシカに、テロンは目の前の光景に青い瞳を向けてみせた。その視線を追い、ルシカが「あぁ……
目の前の広場では、今日という祭りの日のために華やかに着飾った娘たちが、キャアキャアと騒いでいる。国王陛下の後ろ姿が視界から消えるのを名残惜しげに眺めながら、頬を染め、髪に差していた可憐な花をバルコニーに向けて嘆息しているのだった。
「ふふっ、そうね。でも、どうして?」
「ルーファス殿は心配しすぎなんじゃないのか、って思ってな」
「え? あぁ、うーん……そういう意味で、なのね」
ルシカは頬に指を突き当てて考えこんだ。おそらく「早く嫁を世継ぎを」と日々騒いでいる、騎士隊長兼お目付け役のことを脳裏に思い描いているのだろう。
返答に悩むルシカの様子に、テロンは
「問題なのは相手のほうじゃなくて、クルーガーが誰か特定の女性と真剣に付き合おうとしないからだって、ルーファスさんは言ってた気がする」
「特定の相手と付き合おうとしない理由か……」
テロンは腕組みをして妻を見て、そして空に目を向け――ハッと気づいたように声をあげた。
「おっと、ルシカ。そろそろ広場に向かわないと」
慌てたように発せられた夫の言葉に、ルシカも「はわわ」と声をあげる。
「何のために下に待機していたかわかんなくなっちゃうね」
「だな」
眼を合わせたふたりは互いの手を握り、すぐに駆け出した。
後方では、王弟殿下と宮廷魔導士の存在に気づいた周囲の人々が、傍にいたそれぞれの連れ合いの腕をつつきながら声をあげる。長身の体術家テロンと、太陽の瞳の魔導士ルシカ。王子と宮廷魔導士として結ばれたふたりは、今や王都では知らぬ者がいないほどの有名人だった。
ルシカは駆け抜けていく人々のなかで、娘たちの視線が前を行く男性に注がれているのを感じた。
「テロンも結構人気あるんだけどな。自分のことに鈍感なんだから」
口の中でつぶやいたルシカと同時に、テロンも心の内で独白していた。
「ルシカは自分に向けられている気持ちには、鈍感なんだな」
ふたりは人混みをすり抜けるように走った。王都のメイン通りを渡り、この国の子どもたちが待つ中央広場に向かって。
「さァて、っと」
バルコニーから王宮内に戻ったクルーガーは、腕を上に突き上げて伸びをした。
何気なさを装いながら周囲を見回すと、騎士隊長であるルーファスは大臣たちと何やら話し込んでいる最中だった。深刻そうな表情をして、珍しく会話に集中しているようだ。
「しめしめ……今のうちだなっと」
バルコニーを入った場所は、広間の螺旋階段に続く空中回廊だ。
クルーガーは足早に歩きながらマントを脱ぎ、螺旋階段の踊り場に
王衣である上着を脱ぎ、侍女たちに目配せをして、その手から別の色のマントと着替え、そして愛用の魔法剣を受け取る。
侍女たちはひとつ頷き、一礼して、歩き出すクルーガーを見送った。
クルーガーは螺旋階段を降りながら手早く上着をつけ、バサリと紺色のマントを羽織った。最後に背に流れていた金の髪を束ね、同色の紺布で縛ってマントの襟に隠す。王宮を出るまでのささやかな変装だ。そのまま一階まで何食わぬ顔で歩き、式典に集まっていた国民たちに紛れて正面から堂々と出た。
国王陛下に気づいた入り口の警備兵たちも、何も言わず通してくれた。歳近い彼らにとって、クルーガーは幼少の頃からのガキ大将のような存在なのだ。
「昔に比べて抜け出しやすくなったなァ」
テロンと一緒に王宮からいかにして抜け出すか、ルーファスを相手に駆け引きしていた頃を懐かしく思い出す。あれから三年程しか経っていないことを思うと、不思議な感慨が胸に広がるのだった。
クルーガーは二十三歳、双子の弟であるテロンも同じ二十三歳、ルシカは十九歳になる。三人が出逢った時には、今のような状況を誰が予想できただろう。
三人は信頼のおける仲間であり、悩みを打ち明けることのできる無二の親友でもあった。――ただひとつの悩みを除いて、だが。共に行動するうちテロンとルシカは親友以上の繋がりとなり、一年前に結婚してふたりは夫婦になった……。
クルーガーはため息をひとつ吐き、晴れやかに気持ちの良い青空に目を向け、またひとつ伸びをした。
「さて、と。テロンとルシカは中央広場だろうし――お?」
正面門を抜けたクルーガーは何気なく周囲に視線を巡らせ……ひとりの少女に目を留めた。
何故かクルーガーの視線は、その少女の姿に吸い寄せられたように離れなかった。クルーガーの青い瞳が微かに揺れる。
見知った相手ではない。強いて言えば――
長い黒髪をふたつに結った、小柄な人間族の少女だった。薄いピンクの衣服の上に、草色のケープを軽やかに羽織っている。背には小さな荷物を斜めにかけていた。
手も足もほっそりとした小さなもので、歳の割にはかなり幼くみえる。浮かべている心細そうな表情と、困ったように足を踏み変えている所作のせいもあるのかもしれない。
周囲に、少女の連れらしき姿は見当たらなかった。
「明らかに――何か、困っているようだな」
クルーガーは放っておけない気がして、その少女に向けて歩み寄った。人の流れが多く、小柄な少女は目を離すと行きかう人々の中に埋没してしまいそうだ。
ふと、その少女の姿が消えた。
「む?」
クルーガーは歩みを速め、少女が立っていた場所までたどり着いた。
そこには、誰かにぶつかられたのか、地面に尻餅をついてしまった少女がいた。痛いところをぶつけてしまったのか、腰をさすりながら辛そうに目を伏せている。
「――大丈夫ですか、お嬢さん?」
クルーガーは努めて礼儀正しく声を掛け、手を差し伸べた。
「あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
弾かれたように少女が応え、顔を上げた。その動きに黒い髪がさらりと揺れる。クルーガーの青い瞳と、少女の赤く透ける宝石のような瞳が出逢った。
「……あ」
「え?」
言葉を失いカミナリにでも打たれたように硬直したクルーガーに、少女が首を傾げた。だが、相手の夏の空のように澄んだ青い瞳が真っ直ぐであり、悪意のひとつもないことを見て取ったのか、少女はすぐに微笑んだ。
素直に手を重ねられたので、クルーガーは少女を引き起こした。
「ありがとうございます」
「ルシカも軽いが、この娘も羽のように軽いな」
クルーガーは口の中でつぶやき、次いで少女に向けて問い掛けた。
「何か困っているのかい?」
「はい、実はラートゥル大聖堂を訪ねるつもりだったのですが……お祭りだと知らなくて、あまりの人の多さに迷いました」
正直に告白し、恥ずかしそうに頬を染める少女に、クルーガーは頷いてみせた。
「それなら、すぐそこに見えるのがそうだ。王宮に一番近い神殿が、『光の主神』ラートゥルの大聖堂なんだ」
クルーガーの指差す場所が通りを挟んで向かいだったことを知り、少女はぽかんと口を開け、すぐに恐縮して頭を下げた。
「あわわ、そっ、そうとは知らなくて。わたしってば何やってるのかな」
「いや、気にしないで。王都ははじめてなのかい? 俺で良かったら案内するけど――」
クルーガーが言いかけたところで、再び顔を上げた少女の表情が突然強張った。
「どうし――」
たんだ? と訊く間もなく、少女は身を
駆け出す前、少女はクルーガーの背後に目を向けていた。
振り返って背後をぐるりと見回したクルーガーだったが、祭りの雰囲気に浮かれて楽しそうな人々の姿が目に映るばかりで、妙な気配ひとつ感じられなかった。
「だが、あの怯え方は尋常ではなかったぞ」
クルーガーがつぶやいたとき――。
「キャーッ! もしかして陛下?」
「えっ、どこどこ? ――あっ!」
彩り豊かな甲高い声が発せられ、背後から何人もの若い娘たちが彼を追ってきた。
「うわっ! 今はそんな場合じゃねェぞッ」
慌てたクルーガーは、先程の少女と同じようにメイン通りに向けて駆け出した。だが、背の高いクルーガーはどうしても目立ってしまう。
祭りで浮かれているのか、駆け抜けた中からも彼を追ってくる娘たちが出てきて、ちょっとした混乱になってしまった。
メイン通りを横断したクルーガーは、そのまま真っ直ぐに全力で駆け走った。左は『千年王宮』の外壁、右は、ついさっき少女に教えたラートゥル大聖堂の敷地を区切る外壁である。
王宮側の壁はさすがに越えられない高さであったが、大聖堂の外壁の高さは二
ダンッ!
クルーガーは地面を蹴り、外壁に向けて跳びあがった。壁のてっぺんに手を置き、両腕に力を込めて身を
背後に迫っていた娘たちから失望の声があがる。
外壁の向こう、大聖堂の敷地内に降り立ったクルーガーは周囲を見回した。人影はない。大聖堂の外壁は敷地をぐるりと囲んでおり、正面以外には、所々にある重々しい飾りのような木製の扉くらいしか出入り口はない。それらは内側から鍵がかけられ、外からは開かないようになっている。
「確か、クラウス最高司祭は式典に出ていたな。不法侵入は、あとで謝っておこう」
クルーガーはつぶやき、困ったときのように後頭部を掻いた。国王といえども、各神殿の敷地に無断で侵入するのは非礼な行動だろうと思われたからだ。
「――まてよ。そういえばあの少女も、最高司祭たちが出払っているのに、無駄足になってしまっているのだろうか」
気づかなかったとはいえ、案内してしまった少女に罪悪感を覚え、クルーガーは唸った。
「仕方ない、このままあの少女を探してみよう」
大聖堂の石造りの壁と見事なステンドグラスを外から眺めながら、クルーガーは歩きはじめた。確か入り口は横壁にもいくつかあったな、と頭の中で見取り図を思い描きながら……。
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