歴史の宝珠 7-31 黄昏のはじまり

 ゴウゴウと唸りを上げ、地表にある全てを吹き払おうとしているかのような突風のなか、ふたつの人影が微動だにせずに立っていた。


 眼下にある『穴』を静かに見据えているのだ。


 それは『穴』としか呼べない存在だった。地面に穿うがたれた、何処まで続いているのか測り知ることもできない常闇とこやみの空間。


 ひとりは白い翼に黒い羽が混じっている飛翔族の男。もうひとりは同じ飛翔族の男だが、髪も翼も衣服も全てが漆黒の色で統一されていた。ただひとつ違うのは、肌の色を別にすれば、その瞳だった。明るいオレンジ色の瞳である。ただし、片目――右の瞳だけが。もう一方は闇色だ。


 吹き荒れる風の只中にあっても目に見えない障壁がふたりを包み込んでいるかのように、ふたりの翼も髪も、衣服の裾すら揺れることはなかった。


「何かが衝突した後なんですかね、これは」


 白い翼の男が言い、黒装束の男のほうが忌々しげに舌を鳴らした。


「そうではない。見てわからぬか――これは世界の『へそ』……この次元が作られた時に僅かに残った狭間なのだよ、ザルバス」


 ザルバスと呼ばれたほうは、慌てて膝を落としてその場にうずくまった。


「わたしには、貴方様のように聡明な頭脳と瞳があるわけではないので――」


「瞳のことは、今後一切口にするなッ!」


 声を荒げた主君に、ザルバスは喉の奥で「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。もうこれ以上は要らぬことを言うまいと口をしっかり閉ざし、ひれ伏したまま下唇を噛みしめた。


 あのルエインとかいう人間族の女が『時』を知る書を手に入れ損なったことで、主君の機嫌は最低最悪のラインに下がったままだ。


 最初にディアン王を逃がしたときよりももっとずっと悪いに違いない。あのときにも生きた心地がしなかったが、今回は――二千年に一度しか巡ってこない『時』に関することなのだ。


 命に代えても失敗するわけにはいかなかった。だが、失敗せず主君の願いが成就したあかつきにも、彼の生命の営みは一旦終わるのだが……。


「だが我が主君ドゥルガー様は、私を復活させてくれると約束してくださったのだ。だから憂えることなどない、ただ主君の望むように動けばいい。そうすれば事は進み、全てがあるべき場所に落ち着くのだ」


 ザルバスは伏したまま胸に手を当て、声に出さずにつぶやき続けた……。





「ハイラプラスさんを怒らせてしまいました……」


 トルテはしゅんとしてスマイリーの傍らに座り、ビロードのように艶やかな毛皮に頬を寄せてつぶやいた。


 大広間で待機したまま、静かにまどろみはじめたスマイリーの巨体の腹の部分の毛は、ふわふわとして柔らかそうだった。


「ん? 怒っていた?」


 そのつぶやきが耳に入ったリューナは立ち上がり、幼なじみの少女に歩み寄ろうとした。


 眠っていたかにみえたスマイリーが素早く片目を開いてリューナを睨みつけ、グルルゥ、と威嚇するように喉の奥で低く唸った。


 リューナは獣に目配せしながら「シッ、頼むよ」と小声でなだめつつ、トルテの傍まで行き、その横に腰を下ろした。


「怒っていたようには見えなかったぞ。さっきもありがとうって言っていたと思うが」


 トルテは首をゆるゆると横に振り、物憂げな表情で口を開いた。


「あたし、みんなに迷惑かけてばかり……。でもあのふたりをどうしても放っておけなくて。好きな人に嘘をつくって、どんな気持ちなんだろう……。リューナに『先に行ってて』って言ったとき、とても胸が痛かった。剣を突き立てられたときより痛かった……そういうことなのかな」


 トルテの目から、透明な雫が音もなく流れ、頬を伝って小さなおとがいから手の甲に落ちた。


 リューナは思わずその手を握り、自分の手で包み込んだ。


「……リューナ」


 トルテはリューナに倒れこむように体を寄せ、その肩に自分の額をくっつけるようにして嗚咽を洩らした。こんなに打ちのめされた様子のトルテをリューナが見たのは、はじめてだった。


 ――ひとの上に立つ者は、いつも堂々として自信たっぷりに振舞っていなくちゃならないんだ。そう言って半ば自嘲気味に笑っていた国王クルーガーの姿が、唐突にリューナの脳裏に浮かんだ。


「たとえ迷っていようとも、心で泣いていようとも……か」


 リューナは、トルテのことをよく知っていたつもりだった。誰よりも率先してこいつの気持ちに気づいてやれる、だって幼なじみなんだから、と自負していた。けれど今、そうではなかったのだと気づかされた。


 トルテは良かれと思ってした自分の行動を悔やんでいる。精一杯考えて行動した結果が、ここまで裏目に出たのだから。


 リューナはトルテの手をそっと離し、両腕を彼女の体に回した。互いの体の温もりを感じる。抱きしめた肩がいつもより細く頼りなく、しゃくりあげる喉も腕も震えていた。


 王宮のお姫様……か。リューナは声に出さずにつぶやき、トルテを抱きしめる腕に力を込めた。


「リューナ……あのね」


 トルテが囁くような声で言いながら体を起こし、間近からリューナの瞳を見つめて唇を震わせ、微笑みの形にして言った。


「……いつも傍にいてくれて、ありがとう」


 思いがけない言葉に、静かだったリューナの心臓がバクンと跳ねた。


 立ち上がったトルテは、大広間の入り口付近に目を向けた。スマイリーはすでにその方向に鼻を突き出し、ふんふんと匂いを嗅いでいる。


 そこに背の高さがばらばらな三人の姿があるのに、リューナはようやく気づいた。


「――えー、うぉっほん、お待たせしました」


 わざとらしい咳払いとともに、さきほどの本を手にしたハイラプラス、そしてディアン、ダルバトリエが大広間に入ってきた。


 ディアンは心なしか元気がないようだったが、リューナと目が合うとすぐに微笑んでみせた。


「三人で老院に事情を話に行ったら、予想よりは簡単に封印を解く許しをくれたよ」


 ディアンが微笑みながら、竜人族の王に目を向けた。ダルバトリエの大きな手には、ハイラプラスが持っているのと同じような本があった。


「本来飛翔族には優れた『封印』の魔導士が多いと聞いたことはあったが、いやはやここまでのものとは思わなんだぞ」


 感服したようなダルバトリエの言葉に、ディアンが照れたように頬を染めた。


「ありがとうございます。『封印』の力なんて、なかなか役に立つ機会がないものですから……でも、そう言っていただけると嬉しいです」


「老院の者だけでは封印の解除に半日程かかるところに参加していただいて、一時間もかからなかったんですから十分たいしたものですよ」


 ハイラプラスが言ったので、ディアンはますます赤くなって肩を縮こまらせた。


「人間族と竜人族の本を合わせてひとつの章、飛翔族と魔人族でひとつ、エルフ族でひとつ――全ての章は同じひとつの事象について綴ってあるんですよ。つまり各々五つの種族の本を合わせることで真の一冊の書物になるというわけです」


 語りながらハイラプラスは広間の中央に並べられているテーブルに歩み寄った。手で促されて全員が集まる。外はすでに夕暮れになっていて、大きなクリスタルガラスが壁一面にはめ込まれた大広間を、透明なオレンジ色の光が満たしていた。


 ハイラプラスは、手にしていた本をテーブルに置いた。


「我々が今手にしている本ふたつ――つまり、人間族と竜人族の本を合わせることで」


 ダルバトリエも、自分が手にしていた本をテーブルの上に置いた。


「――ひとつの内容がわかるのです」


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