歴史の宝珠 7-29 大切な約束

 トルテが運び込まれたのは、王宮の内部にある、医療設備が整えられている部屋だった。


「……トルテ……」


 つぶやくように相手の名を呼んだリューナは、寝台の上に横たえられている少女を見た。紙のように白い肌には生気がなかったが、白いシーツをかけられた胸が上下しているのがわかる。


 リューナは自分の胸に手を置いた。それは母親のシャールがよくやる仕草だった。幼い頃から毎日目にして身についている祈りの動作……そうだ、『癒しの神』ファシエルの司祭ならば、瀕死のトルテを確実に助けられたかもしれない……リューナは思う。


 だが、この時代に生きる人々は神への信仰を持たなかった。神は手の届かぬ存在ではなく、魔導こそが叡智として神とひととを繋いでいる。司祭など存在するはずもない。自分の育ってきた、当たり前の時間が懐かしい。……なんて遠く隔たったところまで来たのだろう。


「リューナ、トルテは大丈夫……大丈夫だよ。あのときの君の必死の頑張りが、治癒の魔法が、ここに運び込まれるまでの命を繋いだって、ハイラプラス殿も言っていた」


 遠い声にのろのろと顔を上げると、すぐ傍にディアンの顔があった。リューナは唇を震わせ、何かを言おうと口を開くが、言葉はのどにつっかえて出てこない。


「スマイリーがおとなしくあそこに居る限りは、トルテとの繋がりが切れていないということだよ。つまり、トルテは生きている……生きているんだ」


 ディアンの言葉と視線に促され、リューナは窓の外、中庭の向こうに見える大広間に目をやった。巨体を丸めるように縮こまらせて待機し続けている『月狼王』の姿が見えている。王宮で一番広い空間とはいえ巨大な幻獣にとっては窮屈だろうに、その影はじっとして動かない。


「俺……あのとき、トルテが遅れていくって言ったとき、何で……気づいてやれなかったんだろう。トルテはひとりで何かを悩んでいた、抱えこんでいたんだ。それなのに俺気づかなくて……!」


「……それを言うなら僕だって同じだ。でもいったい誰がトルテを……」


 リューナは力なく首を振った。トルテのことで頭がいっぱいで、あのとき周囲で何が動いていたのか誰がいたのかすら覚えていない。


 清潔で明るい室内には、常設の魔法陣や銀色の光沢を持つ何かの器械が整然と並べられている。寝台に横たえられた少女の傍らには、銀色の髪をまとめて縛り、白衣を着用したハイラプラスの長身があった。


「リューナ、ディアン。――彼女は命は取り留めました。ただ……」


 ハイラプラスは瞳を伏せた。目の周囲にはどす黒い影があり、疲労困憊している様子だ。


「……ただ、失った血と生命を維持する魔力はどんな魔導の技を使ってもすぐには回復しません。体のほうの傷は完全に消しましたが……昏睡状態がいつまで続くのかは、この状態では何とも」


「そんな――」


 リューナは声をあげかけたが、それをハイラプラスは手で制した。


「こうなったことには私にも原因があります。私の甘さが……今回の事態を招いたのですから。この子は救います、必ず」


 静かに、決然とした意思を込めて言うハイラプラスの手には、手のひらほどの大きさの輝石があった。虹のように様々な光を内包した、妖しくも美しい不可思議な多面体だ。


「これが『万色』の力をコントロールする魔晶石です。――知っていましたか? この魔晶石には、生命の光そのものをコントロールする力もあるのです。これが今私の手元にあるのは、本当に幸運でした……」


 ハイラプラスはリューナとディアンに離れているように手で促し、魔晶石をトルテの華奢な鎖骨の上にそっと置いた。そのまま左手を石の上に翳し、もう一方の手を空中に滑らせるように動かし、白く輝く魔法陣を具現化させた。


「――――!!」


 熱い風が吹き抜け、渦を巻いた。呼吸をみっつ数えないうちにその風は治まり、ハイラプラスはガクリと床に膝をついた。トルテの胸の上から魔晶石を取り除け、握りしめたまま、はぁはぁと激しい呼吸を繰り返す。


「どうしたんだ、おっさん!」


「……しの命を、光を……魔晶石を通して……移動させただけ、ですよ」


 リューナとディアンはハイラプラスの体を両脇から支えて抱えるようにして、背もたれのある椅子に座らせた。


「『万色』の力は生命そのもの……限界を超える魔導の力。トルテちゃんの生まれながらの素質と、この魔晶石あっての奇跡……トルテちゃんは助かります、間違いなく」


 銀髪の青年は、喘ぎながら言葉を紡いだ。魔力を操ることのできるふたりの目には、ハイラプラスの魔力が生命維持のラインぎりぎりまで失われていることに気づいた。


「なんであんた……ここまでトルテのために……」


「……言ったでしょう? これは私の責任なのだと……しばらく休めば私は大丈夫です。それに――」


 ハイラプラスは寝台の上で眠り続ける少女に目をやって、愛おしそうに目を細めた。乱れていた呼吸は落ち着いてきたようだ。


「――この黎明の空に昇る太陽のはじめの色の瞳は、我が血族の証なのです。彼女はおそらく、私と同じ血筋の者なのでしょう……私の人生では子を成すことができなくても、他にも親類がこの大陸に居ますから、おそらくは……」


 リューナは目を見張った。思わず、目の前の青年と寝台の少女を交互に見つめる。ディアンも息を呑んでいた。


 呼吸が落ち着いたハイラプラスは、椅子から立ち上がった。背筋を伸ばし、もはやよろけることもなく。


 その様子を見て、いったいどれほどの精神力の持ち主なのだろうかと、リューナは驚嘆した。


「……トルテちゃんは他人の嘘を見抜く力がある。だからこそ、殺されかけたんです」


 ハイラプラスは手に握っていた魔晶石を胸に仕舞い込み、代わりに古びた書物を取り出した。両手のひらに余るほどの大きさだ。厚みは指二本分もある。どこから出てきたのか不思議なくらいだ。


 古いものではあるが、あずき色に優美な金縁の装丁、表面に描かれた魔法陣に綴られている文字は『真言語トゥルーワーズ』だ。それは一字一句が魔法陣のようなものだといわれている文字である。


 つまり、表紙に施されているのは複雑に合成され絡められた魔法陣なのだ。本を開くだけで大変な苦労を強いられる代物である。


「スマイリーには、これを届けてもらったのです。『転移テレポート』で運ぶにはあまりに危険な品でしたので、直に運んでもらったのですよ」


「――そっか。ミッドファルース大陸とこのトリストラーニャ大陸は、クリストア列島でほとんど地続きになっているからね。しかし……すごい距離だよ、ここまで」


 ディアンが口を挟んだ。大陸から大陸を一両日で渡って来るとは……本気になった最上位幻獣の力は恐るべし、というところか。


「ミドガルズオルム王宮が攻撃されたとき、老院に掛け合ってこの禁書の封印を解き、持ち出しの許可を得たのです。間者であると知ってはいましたが、それができる立場にあった者に任せて」


「それって、まさか……」


 ルエイン、という名前が舌の上まで駆け上がった。


「そう、そのまさかの人物ですよ。まだ正体を明かすタイミングではなかったのでしょうけれど、トルテちゃんに見抜かれ諭されて……この禁書を手に入れる前に行動を起こしてしまったのでしょう。激情に駆られやすい性格ですから……」


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