歴史の宝珠 7-28 大切な約束
「あ、リューナ、トルテ。おかえり」
王宮の真っ直ぐな廊下で、まだ眠そうな目をしているディアンに会った。
「ディアン。なんだかまだ眠そうだな」
「寝過ぎたんだよ。久しぶりにたっぷり休んだ気がする。こんな時間に起きたのはいつ以来かな。なんだかもう、おなかぺこぺこ」
「いろいろあったんだし、仕方ないさ」
「そうだね。ハイラプラス殿が、君たちが戻ったら一緒に食堂においでって言っていたよ。……トルテ、どうしたの? なんだか元気ないみたいだ」
リューナはトルテを振り返った。そういえば、王宮に入ってからずっと押し黙っていたような気がする。
「どうした?」
「え、ううん。あたしは元気です、大丈夫。食堂にはあたし、後から行きますね。リューナ、ディアン、先に行っててもらってもいい?」
問われてしまっては、駄目だとはいえない。少年ふたりは顔を見合わせた。
「着替えてくるのかい? じゃあ僕たちは先に行って待ってるね」
ディアンの気遣わしげな言葉に、トルテはにっこり微笑んでみせた。
「うん、ありがとう」
リューナはディアンと食堂に向かいながら、背後を振り返った。トルテが小さく手を振り、ふたりを廊下の先に見送っていた。
廊下には、他にも使用人や文官らしい者などが歩いている。人間とほぼ変わらない外見の竜人族たちだが、背は全体的に少し高めだ。その中でトルテはやけに小さく儚く見える。と、もうひとり人間族の姿が視野に入った。ルエインらしい姿が歩いてくるのが見えたのだ。
トルテも同じく彼女に気づいたようで、頭を少し下げて挨拶をしている。近づいたふたりは、何か話を始めたようだ。
まあいい、あとからふたりで来るのだろう――リューナはそう思いながら視線を前に戻し、ディアンと廊下を曲がった。
「おかえりなさい、リューナ。散歩は楽しかったですか?」
食堂――賓客用のダイニングルームに入ったふたりを、ハイラプラスが迎えた。
「ああ。俺たちに馴染みの庭園がこの時代にもあったなんて驚いたよ。トルテも嬉しかったみたいだ」
「そうでしたか。……ああ、ダルバトリエなら公務がありますからね、ちょっと席を外しましたよ。どうせまた抜け出してくるでしょうが」
「そうなのか。仮にもここの王様なんだろ? 抜け出す、とかそんなんで大丈夫なのか?」
ハイラプラスはくすくすと笑った。
「ここにも老院がありますからね。実質、王は人民をまとめ、その声に耳を傾け、ともに動く、いわば象徴のようなものです。資質としては、信頼され人々を引っ張れる魅力のある人物が求められます。実務はほとんど老院と呼ばれる五省庁の代表者たちが受け持っているので心配なしですよ」
「飛翔族には老院がないんだよ。僕たちのところでは、歴代の王達が実務もこなしている。その為に優秀な秘書官や側近がたくさん傍にいる」
ディアンはそこまで語って、目を伏せた。
「その側近の中から謀反を企てた者が出たんだけどね」
たぶん、それがザルバスとかいうやつと、ドゥルガーというやつなのだろうな。リューナは苦々しげな表情になったディアンの横顔を見つめた。
ふむ、とひとつ唸ったハイラプラスは、リューナに視線を向けた。
「そういえば、トルテちゃんはどうしました? ダルバトリエの代わりに例の魔晶石についての話を伝えなくては、と思っていたのですが……。それに、そろそろスマイリーくんも到着する頃だと思いますので」
「ああ、トルテならすぐに来ると思う」
「そうですか。では、話はトルテちゃんが来るまで待ちましょう」
ハイラプラスは頷き、座っていたテーブルをトントンと叩いた。扉が開かれ、食事が運ばれてきた。
「ふたりとも育ち盛りさんなんですから、食事は待っていられないでしょう? 先に食べながら待っていましょうね」
だが、いくら待ってもトルテが来る気配はなかった。リューナはフォークを置き、席から立ち上がった。
「おかしい。遅すぎる」
「僕もそう思う。様子を見に行ったほうがいいんじゃないかな」
「ふたりとも心配性ですね」
想いを寄せる相手は余計に気になるのでしょうね、若いですねぇ、と青年がつぶやくのが聞こえたような気がして、リューナは顔が熱くなった。
そこへ、甲冑こそ着てはいないが立ち振る舞いが兵士らしい人物が部屋に駆け込んできた。ハイラプラスの傍に駆け寄って耳打ちしようとするのを、ハイラプラス本人が制した。
「どんな報告であれ、ここにいる者たちが聞いても問題ありませんよ。何事ですか?」
「は、はい。実は巨大な狼のような幻獣が一体、この都に侵入しました。隣のプロミテアナ庭園に居るとのことなので外出なさらず。ご注意くださいませ」
「巨大な狼……?」
「それって――まさか!」
「『月狼王』は幻精界の最上位種、彼は人語を解します。そして今トルテちゃんと意識の一部が繋がっている状態――むやみに街中へ入らず郊外で待っているはずなのですが」
リューナの中を嫌な予感がぞわりと背筋を駆け抜けた。言葉を終わりまで聞かず、慌てて部屋を飛び出した。背後で椅子が倒れ、勢いよく全開された扉が派手な音を立てる。
――尋常ではない事が起こったのだ。トルテの身に!
リューナは全力で走った。王宮の通路や、角を曲がった先でぶつかりかけた人々を素早くかわしながら、疾風のごとく走り抜けて外に飛び出す。
王宮から庭園へ続く広場と道に、多くの兵士たちの姿があった。庭園の中心へと向かっている。その位置には赤みがかった闇色の胴と、盛んに動く狼の耳と尾が見えていた。
「間違いない、スマイリーだ。トルテがあそこに!」
確信に近い予感に急かされるように、リューナは庭園の広場に走り込んだ。
そこにあったものは見紛うはずもない、堂々とした『月狼王』の巨躯。スマイリーは石碑の傍で何か大切なものを護るように身を丸め、しきりに地面へ鼻を向けている。
その鼻の先、幻獣の足もとにあるもの――金色が広がり地面に渦巻く模様を成した、まるで散り落ちた花びらのように鮮やかな色彩。虹色に敷き詰められたはずの敷石は、ただ一色の赤に染まっている。
地面に横たわっているのが誰なのか――リューナにはすぐにわかった。
「トルテ! しっかりしろ、トルテッ!!」
つんのめるようにして全力で駆け寄ったリューナは、少女の細い体を膝の上に抱き上げた。その手がぬるりと滑りかける。自分の手を腕を膝を染め、なおも流れる大量の血にリューナは目を見開いた。
震える手で金色の髪を掻き分け、白くすべらかな頬に指で触れてみるが、相手のまぶたはぐったりと伏せられたまま。さきほどキスを交わした唇も、なかば開いたまま動かなかった。
「……トルテ、嘘だろ!?」
リューナはトルテの胸に開いた穴を見た。薄く鋭利なもので一突きにされたように縦に開いた穴は、背中にまで到達していた。そこから、じわりじわりと赤い色が流れ、広がっていく。――止まらない。
リューナはトルテの胸に手を当て、その命を繋ぎ留めようと魔法を使った。ありったけの魔力を、想いを込めて、何度も何度も、祈るように、何度も。
遠くから自分たちの名前を呼ぶ複数の声が近づいてくるのにすら、気づかなかった……。
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