白き闇からの誘い 6-20 闇の脅威

 テロンはハッとなった。似たようなものを過去に見た記憶に思い当たったからだ。思わず兄の眼を見ると、クルーガーは静かにテロンの瞳を見返していた。いま思ったことが正解、ということらしい。


「『万色の神殿』に向かうとき、そこに通じる地下道で見た『ヒカリゴケ』とかいうやつと同じものだ。ルシカが言ってたやつだ。だが、ここのは色が違う。おそらくは変種なのだろう」


 テロンは口を開きかけ、ギクリとした。魔獣の頭部がこちらではなく、岩棚のほうを向いたからだ。


「――おいッ! こっちだ化け物!!」


 テロンは大声をあげ、突っ込んでいった。魔獣の巨大な胴に渾身の力を籠めた拳を何度も叩き込む。長い胴体がずるずると動き、魔獣がこちらに向き直る。その動きは、まさに蛇そのものである。これが伝説に聞く『海蛇王シーサーペント』なのかも知れない。博識であるルシカが居れば、正体がわかるのだろうが……。


「こんなやつが徘徊しているような場所に落ちたのか、ルシカは!」


 声に反応した魔獣がゆっくりと首をもたげ、テロンに真っ直ぐに向き直った。僅かに首を捻ったように見えたのは、気のせいか……?


 だが次の瞬間、巨大な頭部がテロンの眼前に迫った。――早い! 巨体とは思えないスピードである。


 バクン! 魔獣の顎が閉じる。素早く地面に身を転がすようにしてからくものがれたテロンが、今の瞬間まで立っていた場所だ。


「とりあえずかじってみようとした――と、そんなところか」


 クルーガーの声が聞こえた。呑気な口調とは裏腹に、魔法を失った長剣を構えて緊張した表情のまま、離れた位置で呼吸を整えている。


 残念そうにうなった魔獣が首を再び宙に持ち上げた瞬間、クルーガーが剣を眼の横に真っ直ぐ構えて突っ込んだ。剣の師範である騎士隊長も、一目置いているほどの突き技である。


 剣は狙いあやまたず、魔獣の柔らかな顎の下に深々と突き刺さった。魔獣にとって、それは針で刺されたほどの痛みだったのかもしれない。だが、クルーガーやテロンたちに完全に注意を向けさせるには充分な攻撃であったらしい。


 ウウルゥゥゥゥゥーッ!


 凄まじく巨大で異質な相手なのだが、その眼球に浮かんでいるのが怒りの光であることがテロンには理解できた。案外、話が通じる相手だったのかもしれないな、とも思ったが、もう遅いだろう――相手は殺気を発しながら、しっかりと小さなふたつの人影を見据えている。


 怖ろしい速度で巨大な頭部が迫る。テロンはそれを広げた両腕と胸で受け止めた。衝撃に一瞬息が詰まるが、全身の筋肉にありったけの力を籠めて何とか持ちこたえる。敵の思わぬ行動に魔獣は驚き、動きを止めた。だが、それはほんの一瞬。首をたわめ、容赦なくテロンの身体を空中に放り出す。そのまま顎を持ちあげ、かっぱりと口を開いた。


 蛇のような牙のある闇色の口蓋が迫る。落下するテロンの身体は、為すすべもなく呑み込まれるかに思われた。


「ハアァァッ!」


 空中で体勢を整えたテロンは気合いを入れ、『衝撃波しょうげきは』を繰り出した。大蛇の口より僅かに逸れた場所に向かって。


 攻撃が狙いではない。テロンの身体の軌道が変わった。毒のような液体がしたたる牙を何とかやり過ごし、口の端を蹴って地面に降り立つ。テロンの傍に駆け寄ったクルーガーは、その牙がテロンを追って降りてきたとき、二本まとめて叩き折ってやろうと剣をグッと握りしめて待った。だが――。


 ふと、魔獣の動きが止まった。首を高くもたげたまま、洞穴が続く遥か先を見ている。


 その巨大な眼が向けられた先には、テロンたちに見える限り何もなかった。ただ上方の闇と燐光めいた光に揺らめく下方の合わさる洞穴がぽっかりと果てなく続くばかりである。何が魔獣の注意を惹いたのか、或いは音か、魔導の気配か……そこまで考えて、テロンはゾッとした。


 ルシカではあるまいか、と思い至ったのだ。彼女の魔導の気配は、魔法を操ることのない彼の眼には窺い知ることもできないが、相当に濃く強い光を放つものなのだろう……。もしかしたら、その気配が目の前の魔獣の注意を惹いたのではないか。そのように思ったのだ。


 ずるり、と魔獣が動いた。何かに導かれるような眼つきで。


「――待て!」


 焦ったテロンは思わず声をあげた。だが、もう魔獣は彼のほうに全く興味を持っていない。巨大な体躯の表面を波打たせ、ずるずると凄まじい速度で洞穴の先に向かっていく。


「待てッ!」


 テロンはもう一度声をあげ、すでに尾の部分までもが眼前を通りすぎようとしている魔獣を追い、急いで駆け出した。クルーガーが驚いたようにテロンに首を向ける。


「どうした、テロン! 何故追う!?」


「この先にルシカがいるかも知れないんだ! だとしたら彼女が危ないッ!」


 テロンは叫ぶように応えたが、振り返る余裕はなかった。魔獣の這う速度は、それほどに凄まじいものであった。少しずつ後方に引き離されながらも、テロンは懸命に後を追って全力で走り続けた。





 段上の『闇の魔神』は、記憶にあったとおりの怖ろしい外見をしていた。


 赤黒い瞳がくらき復讐と憎悪の光を宿し、闇のなかでごうごうと燃え盛っている。黒い体表は闇に溶け、闇に繋がり、肌に突き刺さるほどの殺気を纏っていた。その瞳が凄まじい眼つきで何を睨んでいるのか、ルシカにはよくわかっていた。封印した魔導士、その張本人であるルシカ自身なのだ。


 過去の記憶が警鐘を鳴らしている。捕らえられてしまえば、魔導の使えない今の自分はバラバラにされて殺されてしまう――。


 布をぐるぐると巻かれた腕を首から吊り下げられ、ふらつきながらも何とか立ち上がったイルドにも、対抗する手段はない。ルシカとともにじりじりと後ろに進んでいる。それでも腰の剣の柄を左手で確かめながら、厳しい顔つきで魔神を睨みつけていた。


「『闇の魔神』――あいつには、物理的な攻撃が効かないの」


 ルシカは低く囁くように言葉を発した。そこに絶望的な響きが表れてないといいけど、と思いながら。隙を見せたら一巻の終わりなのだ。ルシカは何とか、落ち着き払った態度のまま対峙しているつもりであった。だが、内心は恐怖と不安でいっぱいになっている。


 テロン、クルーガー……ごめんなさい。ルシカは心の内でふたりに何度も謝った。ふたりが危惧していたことが起こってしまったのだ。魔導が使えない状況下で、魔神が開放されてしまった。しかも関係のないはずの者をひとり巻き込んで……。


 『闇の魔神』の瞳はくらい歓喜に満ちているようだ。燃え上がる炎の強さを見ればわかる。他でもない、あたしという魔導士を見つけたからだ。ルシカははっきりと見た気がした――魔神の想像していることを。魔神をちっぽけな水晶の内部に押し込めるような苦痛を与えた魔導士に報復するさまを……。


 ルシカは思った。このままではいけない。復讐の円環を閉じさせてはならないのだ。自分が死んだら、テロンはどんな想いを抱くのだろう。護るといってくれた彼のあずかり知らぬところで、あっさりと殺されてしまうわけにはいかなかった。


 テロンにはずっと心穏やかであって欲しい。世界で一番大切なひとなのだから。


 その為にはどうするべきなのか。無事で帰らなければならないのだ。魔導は失われても知識や感覚が消え去ったわけではない。状況を打開する策はあるはずだ。


「離れないと約束した。何か打開策があるはず……!」


 ルシカは息を詰め、周囲の気配に意識を飛ばした。


 心が静まり、静かになった感覚の網に、引っ掛かったものがあった。風の動き……微かな匂いも感じる。澱んで停滞したこの空間に溜まっているものではない。鼻をくんと動かし、慎重にもう一度確かめてみる。テロンの感覚ほどに優れたものではないけれど、ルシカはせいいっぱいに感覚を研ぎ澄ました。確かに感じる――潮の香りを。


「――イルド。どこかから海の気配がするわ。でもあたしの感覚ではどこからかまではわからないの。あなたにはわかる?」


 ラムダーク王国――周囲を海に囲まれている海洋王国の生まれである者ならば、もっとよく知ることができるかもしれない。そう思ったのだ。


 『闇の魔神』はルシカから視線を外し、段差から覗き込むようにして下の様子を確かめている。こちらへ降りてくるつもりなのだ。急がなければ!


「そうだ! 確かに、潮の香りがする。――こっちだ!」


 イルドが小声で叫び、確かな足取りで移動を開始する。魔神の様子を確かめながらも、ルシカがそれに続く。


 グオォォォォォオオ!!


 魔神がうなり声を発した。空気がびりびりと振動する。続いて、ズゥンッ! という衝撃。魔神がルシカたちと同じ地面に降り立ったのだ。


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