白き闇からの誘い 6-21 光の道

「魔神が段差から降りたぞ!」


 イルドが前方に意識を集中したまま叫んでいる。海の気配を追っているので、音と振動だけで判断したようだ。


 だが、追ってくる気配がない。後方を振り返ったルシカは驚いた。魔神はその場でもだえ苦しんでいたのだ。地面から照らしてくる青緑の燐光に、苦しそうに身を激しくよじる魔神の姿が浮かび上がってみえる。


「そんなっ、いったい何が!」


 そのあまりの苦しみように、ルシカの駆け走っていた足が止まる。魔神に傷付いてほしいわけではない。もし魔導の技が使えるのならば、今すぐにでも無事幻精界に送り還してやりたい相手なのだ。


「止まるんじゃない、早く逃げるんだ!」


 焦ったイルドがルシカの手を掴み、引いた。けれどルシカは動かなかった。姿勢を崩してよろけながらも、魔神の姿を見つめ続けている。


 さきほど立っていた段の上では、何事もなかったのに。ルシカは必死に考えた。しゅうしゅうと音を立て、まるで表皮が分解でもしていくようだ。魔神の足先がうっすらと消えかかってさえいる。身体が大きいので瞬時に消え去ることはないが、そのせいで苦しんでいるに違いなかった。段を降りてきただけで……何があったというのだろう?


「――あたしはあなたを、元居た世界に還したいだけなの!」


 苦悶する魔神に、ルシカは必死に声をかけた。魔神の立つ地面の燐光が、不穏な感じに強まっている。この地面が原因なのか? だが、段は高い。魔神には登れないだろう。魔導が使えない今のルシカにも不可能だ。


「あたしの力が戻れば、すぐにそうしてあげられる。あたしはあなたをこの世界に縛りつけていたくない。過去に人間がやっていたあなたへの仕打ち、本当にごめんなさい。こっちへ――あたしたちについて来て! 進んで! あなたにも無事であって欲しいの!」


 イルドが驚きに眼を見開いて、ルシカを振り返った。


「何を言っているんだ! あいつは魔神じゃないか。俺たちを殺す気だぞ。あのまま苦しんでいるなら都合がいい。この隙に――」


「駄目よ! どうしても、置いていけないの。あの魔神を帰してあげなくちゃ。彼が住んでいた世界から力尽くでこの世界に繋ぎとめ、ひどい仕打ちをしてきたのはあたしたちの祖先なのよ。遥か過去のこととはいえ、このままにしておけない。必ず無事に帰してあげたいの!」


 ルシカは頑として言い張った。必死のあまり、瞳に涙が浮かぶ。魔神を振り返り、想いを込めた視線を真っ直ぐに向けている。魔神のほうはこちらを凄まじい眼つきで睨みつけていた。まるで、いまの苦しみがこちらによって仕掛けられた罠であると思い込んでいるかように。


「魔神や幻獣を呼び出し、使役させていたのは、あたしたち現生界に住んでいる者たちの祖先、魔導士たちだった。魔法王国が滅びたあとも、そのまま『封魔結晶ふうまけっしょう』に封じられていたり、考えてみればひどい話だと思うわ。だから、何とかして助けたいの」


「魔導士……」


 イルドは戸惑い、呆然とルシカの話を聞いていた。しかし、長くは迷わなかった。顎を引き、決意を込めた瞳でしっかりと頷く。


「……わかった。あいつを何とかして助けてやりたいというのだな。――で、どうすればいい?」


「この空間が魔法を消してしまうなら、あの魔神もここに置いておくわけにはいかない。海へ出る道があるなら……ここから魔法の戻る場所に通じている可能性があるなら、そこまで行きましょう!」


「潮の香りがする場所は、遠くない。試してみよう」


「先に進んでいて! あたしは彼を呼んでみる!」


 叫ぶが早いか、ルシカは再び身を翻した。みるみる希薄になり、驚き、戸惑い、苦しみ暴れている魔神に向かって。だが、いまだ魔神の力は強く、力任せに振り回している腕が周囲の岩を粉々に砕いている。いまや恐れ気もなく突っ込んでゆく彼女の背は、魔神に比べるとひどく小さく儚げだった。


「――全く無茶なひとだ。やはり噂どおりの人柄のようだ」


 イルドは刹那、口の端を微笑ませた。次いで、すぐに感覚を研ぎ澄ます。海から届く潮の香りがどこから来るのか、再び真剣に探りはじめる。


「聴いて!」


 ルシカは魔神の手前まで駆け寄った。その眼にはっきりと映るまでの至近距離に入り、大声をあげる。両腕を振り回し、何とか注意を惹こうとする。


 魔神の瞳がルシカの姿を捉え、ぎろりとめつけた。口元から怒りのうめきを吐き出しながら、ズゥンと重い一歩を踏み出す。その脚に纏われていた闇の炎が消えかけている。うっすらと向こう側が透けはじめている。魔神の身体が消えうせてしまう前に、何とかしなければ。ルシカは焦った。


「お願い、この場所から離れるのよ。あなたに消えて欲しくないの!」


 刹那、魔神の瞳に怪訝そうないろが宿ったが、すぐにそれは怒りの炎に呑み込まれた。ルシカのほうにまた一歩、踏み出す。灼熱の闇の炎そのもののような腕を伸ばしてくる――。


「こっちだ、ルシカ! 縦穴がある。かなり広いぞ。海水の水溜まりがいくつもある。下は広い空間になっている!」


「空間……外に通じているかもしれないのね。わかった、行きましょう!」


 イルドの呼びかけに、ルシカは走りはじめた。何度も後方を振り返り、魔神がこちらを追っているのを確かめつつ。足元の注意がおろそかになっているのだろう、ルシカは何度も転びかけ、まろびつつも必死に走った。


 やがて、イルドの傍にある縦穴が見えた。魔神でもなんとか入り込めるほどの大きさだ。周囲の岩のくぼみには水溜まりが無数にあり、潮の香りがした。ただし、そこは行き止まりだ。ルシカたちは眼を見交わし、振り返って魔神がついてくるのを確かめると、意を決して縦穴に飛び込んだ。





 そこもまた不思議な空洞であった。倒した円筒の内部のようなかたちをしている。ごつごつと突き出ている岩壁は全てなめらかな手触りで、床も壁も天井ですら海水に濡れていた。まるで巨大な生き物の腸の内部にでも入ったかのように。


 高さがかなりあったが、ふたりは何とか着地に成功した。頭上から迫る気配に思わず飛び退くと、魔神の腕が振り下ろされるところだった。魔神は呻き、こちらを覗き見た。どうやら降りてくるつもりらしい。こちらは踏み潰されてしまうわけにはいかない。ふたりは急ぎ、その場から離れた。


 空洞は緩やかに傾斜している。ヒカリゴケはあまり多くなく、それでもところどころの壁や天井にへばりついていたため、足元の安全を確かめる光は何とか足りた。傾斜を上に向かって駆けはじめる。


 すぐに後方で、ズゥンッ! という音と響きが伝わってきた。魔神もこの通路に降り立ったらしい。転ばないように精一杯注意を払いつつ、ルシカは駆けた。見兼ねたのかイルドが手を伸ばしてくれたが、ルシカは首を横に振り、懸命に走り続ける。背後から迫ってくる足音に急き立てられるように、ルシカたちは走った。


 ウウルゥゥゥゥゥーッ!


 突然何処か遠くから、長く尾を引くき声が聞こえた。新たな脅威なのか? ルシカは緊張したが、その声が何故か他の魔獣たちとは違ったものに聞こえたのだ。この坂の上方向から聞こえたのか、下方向から聞こえたのか――。ルシカは思わず足を緩めた。それで気づいた。


 啼き声は進行方向から聞こえたように感じたが、別の音が下方向からも聞こえている。ごうごうと鼓膜を震わせるような、不吉に迫ってくる音だ。耳や肌に、周囲の空気が圧縮されたような感覚が生じる。さっきまでは感じられなかったものだ。海の匂いも急速に強まっている。


「まさか……?」


 ルシカは総毛立った。つるつると角のない岩ばかりの通路の壁面、まばらにしかえていないヒカリゴケ……それはつまり、怖ろしい運命が後方に迫りつつあることを意味しているのではないか……?


「全力で走って!」


 ルシカは叫んだ。少し先を進むイルドに向けて、そして後方を追ってきているはずの魔神に向けて。そしてもつれ気味になっているルシカ自身の足に言い聞かせるために。


 凄まじい水音が急速に迫ってくる。そして、ついに後方から迫り来る脅威が姿を現した。


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