白き闇からの誘い 6-16 封印されし魔導

 闇のなかで、ルシカは眼を開いた。おずおずとあげたまぶたの内側で閃光がはしり、痺れるような痛みが全身を駆け抜ける。


「……う……!」


 思わずうなり、身をくの字に折るようにしてこらえ、痛みが薄れるのを待つ。


 気を失っていたのはほんの刹那のことだったらしい。落下にともなう感覚で肌は粟立ち、目眩めまいがして頭が重く、力を込めた手足はズキズキとうずくように痛んだ。目の端に涙の粒を浮かべながらゆっくりと動かしてみると、痛みは消えないが手足は問題なく反応してくれた。


 良かった、失ったり欠けたりはしていない……。ルシカは安堵し、同時にひどく不安になった。


 痛みに目蓋を閉じていたおかげで、幾分か闇に眼が慣れている。床に倒れたまま、首を捻るようにして天井を見上げた。視線の先は闇に沈んで、天井があるのかすらわからない状況だった。


 横向きに伏せたままの体の周囲は、ぼうっと発光しているようだ。ルシカは目の前に広がる床に指をすべらせ、その指を瞳の前に持ってきた。うっすらとした青緑の光を発する粉のようなものが、指先に付着している。その正体にはすぐに思い当たった。


「ヒカリゴケだわ……ここは自然の洞窟なのかしら……?」


 膝を胸に引き寄せるようにしてから、ゆっくりと両腕を突っ張り、体を起こした。立ち上がるとふらついたが、足と腕に感じた痛みが意識をはっきりとさせる。見ると、打ったのかあちこちが赤黒くなっている。落下による衝撃で内出血を起こしたのだろうと思った。


「変ね。『浮遊レビテーション』の魔法を使っていたはずなのに」


 ルシカは怪訝そうにつぶやいて、また頭上を振り仰いだ。どこまであるのか窺い知れないほどの高さである。魔導の技は、落下の途中までは効果を発揮していたに違いない。でなければ今頃死んでいただろうと思われる。しかし、全身の打撲を考えてみると、魔法の効果も着地の瞬間までは続かなかったようだ。


 ルシカはため息をつき、腕が失われていなかったことに感謝しながら、左手を微かに動かした。


 何も起こらなかった。


 事態に気づき、ルシカは冷水を浴びせられたようにゾッと身を竦ませた。もう一度、その動作を繰り返す。やはり駄目だ、発現することができない。


「……どういうこと……何が起こったの……?」


 ルシカはよろめき、心に受けた衝撃と混乱にへたへたと座り込んだ。こんなことは生まれてから一度もなかった。初めてであった。


「魔導が消えている。魔法が……使えない」


 呆然と座ったまま、自分の手のひらを見つめる。


 そんなルシカの様子を、すこし離れた場所に転がる大岩の陰からずっと窺っている者がいた。


 気配を隠し、腰にある剣の柄にいつでも手が届くように全身を緊張させながら。その者の右腕は血に濡れ、赤黒い雫が床にポタポタと落ち続けている。剣は腰の左側に提げられているのであった。





「利き腕をやられるとはな……」


 彼は口のなかで悪態をつき、眼を一点に向けて息をひそめたまま、痛みに耐えていた。全体の線は細いけれど、鍛え上げた戦士の肉体である。いざとなれば左腕だけで剣を扱える訓練は受けていた。


 薄気味の悪い光を発する地面、岩の表面までうっすらと燐光を放っている。周囲に見慣れた部下たちはひとりも居ない。どうやら彼だけが、爆発させた壁と同時に抜け落ちた床の穴に落ち込んだらしかった。壁だけをぶち抜くつもりで、慎重に火薬を仕掛けさせたはずなのに。


「……それにしても」


 彼は油断のない視線を、岩陰から前方の開けた空間に向けていた。そこには淡い色合いをした、細く小さな影がうずくまっている。


 まろやかな肩、やわらかに流れる金の髪、すべらかな白い肌。彼の生まれ故郷の王国では馴染みのない、慎み深く体を覆っている丈の長い異国風の衣服。そして薄闇のなかでもはっきりと判別できる、その不可思議な光を内に秘めた泉のように澄みわたった両の瞳。


 見知らぬ高天井の洞窟めいた巨大な空間。現実感は、彼を置いて何処かに消え失せてしまったようだ。見回せば、周囲の床や壁すべてがぼんやりと発光しているという、ひとの領域から隔てられし魔境の深部。足掻いても決してめることのない夢に落ち込んだときのように、ひどく心許無く、目眩めまいがした。


 娘の正体が地霊なのか妖精なのか、はたまたこの場にかけられているめくらまし――侵入者を罠にめるための魔法の一部なのか。彼に魔法や魔術の知識はなかった。知らぬことであるがゆえに不安は際限なく膨らんでゆく。


 心が乱れたのか、痛みに緊張が薄れたのか。彼の足元で音が鳴った。踏み変えた足の下で、小石が砕けたのである。


「――誰っ!?」


 娘が叫び、顔をあげた。こちらを真っ直ぐに見つめている。完全に見つかったらしい。


 彼は舌打ちし、物陰から歩み出た。全身に緊張をみなぎらせ、バネのように筋肉をたわめながら、相手と真正面から対峙たいじする。


「おまえは、何だ」


 思ったときには、唇が動いていた。


「……何だと問われても、困るのですけれど」


 耳に心地よく響く声が応え、はっきりとした戸惑いとともに彼の耳に届いた。なめらかで淀んだところのないその言葉、高すぎず低すぎもしないその声音せいおん


 燐光のなかで美しく煌めく瞳を彼に向け、ゆっくりとまばたきをしている。あまりに洗練された表情、警戒心のかけらもない眼差し。


 彼は、首や頬の表面にぞわぞわと這い登るものを感じた。恋するように激しく心臓が高鳴り、血が流れるままに放置されていた右腕の傷が激しく痛みを訴えはじめる。これが巧妙なまやかし、そして敵であるのなら……。なんと魅力的で、なんと怖ろしい相手だろう!


 彼は右腕を押さえていた左手を放し、その手のひらを腰に残っていた長剣の柄にじりじりと移動させた。娘の目が驚いたように見開かれる。


「待って。怪我をしているのね。傷を診せて」


「騙されないぞ。……このような場所にそなたのような人間がいる訳がないッ!」


 叫び、彼は床を蹴った。崩れ落ちた岩のかけらを蹴散らしながら走り、ひと息に相手との距離を縮める。剣を抜くと見せかけて、身を沈め、足を地面に掠らせるように回して娘の足を払おうとした。


 だが、その動きは予測されていたようだ。敵は彼が突っ込んだとき、とん、と地面を蹴って後方に移動していたのである。闘いを知らぬ普通の娘には、決してありえない動き。やはり敵か。……それともまやかしなのか。


「落ち着いて! 腕の傷が開くわ」


 娘は声をあげ、両腕を前に突きつけた。あ、というように口を開き、戸惑ったように自分の手のひらを見つめる。命の遣り取りをしている只中ただなかとも思えない、恐怖のひとつも感じさせないその態度が、彼の疑心を確信に変えた。


 彼はもはや迷わなかった。地を蹴り、猛然と娘に飛び掛かる。娘は素早く身をひるがえし、彼の狙いから逃れると、背後にあった岩の向こうへ飛び込んだ。





「あぁ、もー……信じられない。なんて短気なひとなの」


 ルシカは胸を波打たせ、止めていた呼吸を再開させた。眉を寄せ、思わず不服そうな顔つきになってしまう。テロンに体捌きを習ったことが、こんなところで役に立つとは思わなかったのだ。


 どうしたものかしら。ルシカは急ぎ、考えを巡らせた。相手は、こちらを害のある相手か何かのように思っているようだ。攻撃を仕掛けてくる勢いのなかに、不安と恐怖に揺れる心が潜んでいることを、ルシカは見抜いていた。


「危険だけれど……そうするしかないかな。このままではいずれ切り捨てられてしまう」


 人さし指を唇から離し、ルシカは顔をあげた。心のなかは相手の暴力に対する恐怖でいっぱいだ。けれどルシカは、他人に心の乱れを感づかせないすべを身に着けていた。そうでないと、テロンとともに外交として他の国に赴くことはできないだろう。


 テロン……。脳裏に浮かんだ青年に、ルシカは心の内で呼びかけた。ごめんね、また勝手に行動しちゃって……きっと心配してるよね。


 無理はしないと彼に約束した。けれど、今はどうしようもなかった。


「ごめん」 


 心のなかで心配そうに眉根を寄せる彼に向けてつぶやき、ルシカは顔をあげた。突き出した岩の向こう、数歩の距離にがれた刃物のような戦士の気配を感じる。息を吐き、吸って、ルシカは待った。両腕をさげ、自身の気配を隠さないまま、差し出すように無防備そのままにして。


 相手が姿を現すと同時に、飛び掛ってきた。腕を掴まれ、固い地面に押し倒される。ほんの刹那の恐怖が胸を掠めたが、ルシカは後悔しなかった。


「捕らえたぞッ!」


 相手は叫び、ルシカの体を床にねじ伏せた腕の筋肉に、容赦のない力を籠めてくる。


 のしかかられ、床に押し付けられた姿勢のまま、ルシカは相手を見た。自分とほとんど変わらない年齢の青年だ。鷹揚として快活そうな様子、真っ直ぐな気質を感じさせる眼差し。勝利したと思い込んで無邪気な笑みを浮かべかけた青年の瞳のなかに、はっきりと戸惑いのいろが浮かぶのをルシカは見た。


 腕と肩が軋み、ルシカの瞳に苦痛の光がかすめる。痛みをこらえ、唇が開く。


 若者が驚いたように眼を見開き、力任せに相手を掴んでいる自分の手を見つめた。そのまま視線を移動させてルシカの細い腕や腰、首筋から鎖骨に至る線をたどる。手のなかの温もり、あまりに細く壊れやすそうな感触に戸惑っているのだ。一方的な暴力を恥じたのか、その瞳が揺れていた。


 騙されないぞといわんばかりであった青年の表情が、一気にやわらいでいく。疑いに満ちて閉ざされていた心に、隙が生じる。


 ルシカはしゃんと顎をあげ、落ち着いた力強い眼差しで、自分を押さえつけている相手の瞳を真っ直ぐに見つめる。


 もう大丈夫ね……ようやく話ができそうだ。彼女は思った。それにしても、このひとはものすごくおびえているのね……喰うか喰われるか、敵ばかりの環境で育ってきたような瞳をして。


「手を放して」


 ルシカは囁くように、ゆっくりと言った。


「あたしはあなたと同じ、人間よ。さっきはどう誤解されたのかはわからないけれど、敵でないことは理解してくれないかしら。あなたに、話があるの」


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