白き闇からの誘い 6-15 封印されし魔導

 白のなかにぽっかりと現れた闇の空間は、まるで冥界に在ると伝え聞く奈落タルタロスへと続いているかのようであった。


 意識を集中し、耳をそばだて、眼を凝らしてみても、深き暗闇の底を窺い知ることはできない。嫌な感じにドクドクと高鳴りだした心臓に、テロンは奥歯をグッと噛みしめた。


 眼前の床に開いた暗闇の内側、光が届いているはずの縁を注意深く見回してみる。降りる手掛かり足掛かりになりそうなものはない。まるで大広間の天井にぽっかりと開いた穴を上から眺めているかのように、下には壁らしきものが存在していない。


 思わず穴に飛び込みかけたテロンの腕を、クルーガーがつかんだ。


「待て、テロン! どうするつもりだ」


「ルシカを追う」


「おまえまで同じように落下してか? まァッたく、相も変わらずおまえは、ルシカが絡むと冷静ではいられなくなるらしいな」


 クルーガーは苦笑しながらも厳しくいさめる眼差しで、テロンを睨みつけた。テロンの頭に集まっていた血が戻っていく。落ち着いてみると、自分が考えもなく行動に走ろうとしていたことが恥ずかしくなる。


「――この穴はどこに通じているんだ!?」


 テロンは振り向きざまに声をあげ、きざはしの先に視線を向けた。だが、そこにいたはずのエトワ――白きものの姿は消えていた。テロンは問いたげな表情で兄のクルーガーを振り返ったが、彼もまた居なくなったものの姿を探して周囲に視線を走らせている。


 思わずエトワの名を呼ぼうと口を開きかけたとき、頭のなかにはっきりと響き伝わった声があった。音ではない声が、緊迫した様子で心に届く。


く、通廊を進まれよ。彼らの前で姿をさらせないのだ。下へ!」


 テロンとクルーガーは素早く眼を見交わし、緩やかに下る階段の先に向き直って躊躇ちゅうちょなく段を駆け下りはじめた。


「どういうことだろう」


「わからん」


 テロンの問いに、素早くクルーガーが答えた。だが言葉が足りなかったかと思い直したのか、走りながら言葉を続ける。


「全てひっくるめて、わからないと言いたいのだ。あのものが何故姿を現せないのかも、この先へ向かわせる意味も……ルシカが無事なのか、も」


 ルシカの安否を思い、テロンは押し黙った。穴の下は暗闇だった。底など見えはしない、どこまで続いているのやら、発した声すら反響しないような。彼女が爆発の真正面に立っていたこともまた確かである。無事なら――意識があり動ける状態ならば、何故『飛行フライ』ですぐに戻って来なかったのか。


 怖ろしい想像に思わず唇を噛んだテロンは、自分を見つめる眼差しに気づいて顔をあげた。思いつめたようなクルーガーと視線が合い、テロンは戸惑ったような表情を浮かべてしまう。


「――ルシカが好きか?」


 低い声で、クルーガーが問うた。いまさら何を、と言い掛けたテロンだが、兄貴のことだ、何か別の意味があるのかもしれないと思い直し、素直に自分の気持ちを喉から押し出す。


「好きだ。愛している。彼女なしでは生きられないほどに」


「そうか……そうだよな」


 クルーガーはつぶやくように言った。その瞳は揺れ、何か苦いものを呑み込んだかのように口の端が震える。だがすぐに力を込めた眼差しをテロンに向け、いつものように余裕然とした表情でニヤリと笑った。


「ならば、無事でいると信じろ。無事ならば必ず見つける、見つけてみせると!」


「……ああ」


 テロンの瞳にも力が戻る。


「もちろんだ」


 ふたりは各々の視線を前方に戻し、駆け続けた。一定間隔で設けられている燭台の灯りが延々と続き、幅の変わらないきざはしが下へ、下へと伸びている。だが、夢のなかのように終わりなく感じられたその光景は、かなり進んだ先で唐突に途切れていた。前方に壁があり、すっぱりと通廊を切り捨てたように無機質な表面で眼前を塞いでいるのである。


「ここから下へ降りるのだ」


 立ち止まったふたりの視線の先、壁の左端を背に、エトワが姿を現した。


 白きものが腕を動かすと、光に照らされた壁の表面に彼の瞳と同じ水色に輝く細やかな線が幾筋もはしった。魔法陣のような紋様を描いた壁の表面に光が収束し、真ん中から縦に割れて左右に開いた。エトワが手振りでふたりを中へといざなう。内部は白い空間になっている。一種の亜空間だろうか。


「デイアロスへ降りた時の昇降機みたいだな」


 クルーガーが言い、肩をすくめた。白い光景を映した瞳を好奇心に煌めかせながら、テロンに視線を向ける。


「行くか?」


「もちろん!」


 テロンは躊躇ちゅうちょなく白い亜空間に足を踏み入れた。クルーガーもそれに続く。最後に入ってきたエトワが腕先を下に向けて指を動かすと、扉が閉じた。


「怒らず聞いて欲しい。あの穴は、我らが仕掛けたもの。万一まんいち壁を崩されたときに侵入者たちを排除するためのトラップなのだ。この孤島はもともと、我らの祖先が到達する前から存在していた自然の産物、魔の海域に属する場所である」


 エトワが口を動かさず、話かけてきた。その間にも、亜空間はどこかへ向かい移動しているらしい。扉だった場所に現れた魔法陣と地図のような絵が、動いている体。


「落ちた先は、自然そのままの洞穴が迷路のように続く暗闇だ。油断のできぬ場所でもある。我らがこの島で管理している区域エリアはほんの一部である。――我らがあのような仕掛けを造ったばかりに。……すまぬ。どうか怒らないで欲しい」


 ルシカが危険に晒される可能性を示唆され、テロンはこぶしを握りしめた。うつむき、床に視線を落とす。


「怒りはしない。だが案じている。ルシカは無事なのか?」


 床を見つめるテロンの視界の外で、クルーガーの声が尋ねる。白きものの思念は僅かに震えながらも、答えを心に直接届けてくる。耳を塞ぐわけにもいかない。


「……わからぬ。床が崩壊した瞬間、魔導の光がひらめいたのは見えたが、それが何の効果をもたらすものだったかまでは理解できなかった」


 テロンは眼をあげた。では、ルシカは何らかの魔法を行使していたのだ。それが身の安全を確保するものであったことを願うばかりである。再び速くなってきた心臓の鼓動を深い呼吸で静めながら、テロンは祈るように目蓋を閉じた。





「やれやれ。振り返りもせず、行ってしもうたわい」


 ふたりの姿はあっという間に見えなくなった。ふたりの若者の駆ける速度は相当なもので、その場に残されたグリマイフロウ老はもちろん、兵たちの誰であってもついて行けるようなものではなかった。老人は舌を鳴らし、いかにも残念そうに長々と息を吐いた。


「わしも行きたかったが、この者たちを放っておくわけにもいかぬからのぉ。はてさて」


 ラムダーク王国の兵たちに向き直り、背筋をぴんとさせて重々しく口を開く。


「わしらはソサリア王国の者じゃ。そなたらラムダーク王国の船を救助するために派遣された。して、この場にいる者で全部か? 他にはあとどのくらい生存者がおるんじゃ?」


 兵たちはほとんど聞いていなかった。彼らの多くはおろおろと落ちつかなげな様子で床の穴を覗き込み、歩き回り、狼狽したようなうめき声をあげていた。


「どうも様子がおかしいの。これ、そこのデカいの! そう、おまえじゃ――何があった?」


「……イルドラーツェン様が……!」


 兵たちのなかでもひときわ立派な鎧を着込んだ男は、開口一番そう叫んだ。片眉をあげる老人に、尋常ではない慌てぶりで穴を指し示し、地面にぽっかりと口を開いた暗闇の傍に膝をついた。


「落ちてしまわれたのだ、この穴に! あぁ、我らも急ぎ後を追わねば……!」


「これッ! 莫迦ばか者が、ちょっと待たんか!!」


 穴に飛び込もうとするその兵を、グリマイフロウ老が叱り飛ばした。老人とは思えない大声量の叱責に、思わず皆の動きが止まる。


「おぬしが穴に飛び込んでどうするつもりじゃ! どこまで通じておるのかもわからんのに、みすみす死に急ぐことはなかろうに!」


 かみなりのように響くその声に、「しかし!」と兵たちから声があがる。自分より遥かに体躯の大きい屈強そうな兵たちを前に、ひとりきりであるグリマイフロウの老人は腰に手を当てて胸を反らし、一歩も引かなかった。


「まずは落ち着くのじゃ」


 グリマイフロウ老が低く声を響かせると、ざわめいていた兵たちは互いの顔を見回しながらもひとり、またひとりと静かになった。


「そなたたちの中から、ひとりがこの穴に落ちたのは理解した。安否も気になるところじゃろう。だが、一緒に落ちたのはソサリア王国の宮廷魔導士ルシカ様じゃ。そして救いに向かったのは、国王陛下であるクルーガー様自らと、その弟君であるテロン様じゃ」


 真剣な面持ちで告げられた老人の言葉に、兵たちは驚き、まだうろうろと歩き回っていた者も動きを止めた。思わず互いの瞳を見交わし、体を揺らしたが、結局そのなかからさきほどの隊長らしき男が進み出た。


「……老人。そなたの言葉はまことであるのか」


「当然じゃ。なんなら証明してみせようぞ。我らの乗ってきた船――ソサリアの軍用船が二隻、この入り江に停泊しておる。まずはそこへ合流しよう。そこで待つのじゃよ」


「待つ、とは……?」


「決まっておろうが」


 老人は歯を剥き出し、ふしゃふしゃと嗤った。


「そなたらの待ち人を、じゃよ。大丈夫じゃ。心配はいらん。ルシカ殿なら一緒に落ちた者にも魔法をかけ、命を護っておることは確実じゃ。類稀なる魔導の力を持つお方なのじゃからな」


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