白き闇からの誘い 6-8 魔の海域

 魔獣が憤慨したかのように巨体を揺らした。海が激しく渦を巻き、人間たちが必死で船の柱にしがみつく。魔獣はまるでその島に対抗するかのように、自らもずんぐりと長い体躯のどこやらから、盛大に潮の柱を噴き上げた。


「――余所よそでやれ、余所で!」


 クルーガーが剣を足元の床に突きたて、揺れをこらえながら叫ぶ。テロンはルシカを抱きしめて支えたまま、激しい揺れのなかに立っていた。


 その間にも船は櫂を使い、進んでいた。僅かずつだが、怪物との距離が開いていく。


「このまま進め! 島へ向かうんだ!」


 テロンは大声で叫んだ。魔獣が暴れるせいでごうごうと海が鳴り、波が暴れ狂っている。


 正体のわからない島だ。だが、それは島だった。目指すものなのかはわからないが、目の前に現れた魔獣から逃れるには、島に向かうのが一番だと思われた。あれほどに大きな図体ならば、ちっぽけな船より早く浅瀬に引っかかりそうだ。


「島へ向かえ!」


 もう一度、今度はクルーガーの指示が飛ぶ。


 周囲の轟音に、張り上げた声も掻き消されがちだ。もう一隻の船にも指示を届けなければならない。光も音も、この騒ぎの中では役に立たない。ルシカが咄嗟に作り出した魔導の輝きが、光の信号となって空中を飛ぶ。


 だが、それがいけなかった。魔導の気配に殊更ことさらに敏感なのが魔獣の習性であったのだ。魔獣の、魚眼めいて飛び出した巨大な眼球が、ぎろりとルシカのほうに向いたのがテロンにも見てとれた。魔獣の口元がぐわあああっと膨れあがる。


 ズドンッ!!


 衝撃が大気を震わせた。横殴りに打たれたかのように、鼓膜に痛みが走る。


「きゃああぁぁっ!」


 ルシカがたまらず悲鳴をあげた。空気の塊が、まるで砲弾さながらに甲板上を突き抜けたのだ。マストがギィンと音を立てて軋み、あおりを受けた荷や兵たちが甲板に倒れ、あるいは転がった。だが、それだけだ。魔獣の放った空気の塊はどこもえぐることなく通りすぎ、離れた海面に突き刺さった。


 魔獣は狙いを外したことを知り、ひどく憤慨して大きく身をよじった。扇状の尾を振り、海面を激しく叩きつける。大波が生じ、船にごうごうと押し寄せる。まるで波間で弄ばれる小さな木っ端のように、船は激しく揺れた。甲板の上の人間たちはみな必死で手近な柱や手すりに掴まり、海に投げ出されるのをこらえた。


 だが、海獣の気は治まらなかった。空気を呑み、め、次の気弾を吐き出そうとしている。


「させないっ!」


 ルシカがテロンの腕に抱えられたまま腕を振り上げた。一瞬にして輝く魔法陣が具現化され、巨大な障壁となって空中に展開される。魔法は間に合った。次弾であった空気の塊は、魔導が作り出した障壁にぶち当たり、僅かに傾斜していた障壁によって遥か上方へと飛び去っていった。


 魔物は怒りの唸り声を発した。さらなる濃い魔導の気配。怒りの頂点を超えるにはそれだけで充分だった。


「ルシカ!」


 ルシカが一瞬めまいを起こし、テロンの腕のなかで首を仰け反らせていた。立て続けに使った尋常ではない魔力マナの消費にルシカの体が耐えられなかったのだ。


 だが、すぐにルシカは意識を取り戻し、眼を開いた。閉じかけるまぶたを必死に開き、ふらつく頭を押さえるようにして再び身を起こす。


「ごめんなさい、テロン」


 ルシカが自分の足で揺れる甲板に立とうとした。


「気にするな。ルシカの体くらいは支える、俺に頼るんだ!」


 テロンは叫び、ルシカの体を腕のなかで回した。抱きかかえるようにして背後から支えたのだ。状況を見極め、魔導の技を行使できるように。


「ありがとう。――ここから何としても移動しないと」


 ルシカは胴に回されたテロンの腕に励まされ、しっかりと顎をあげた。船を操る兵たちも必死だ。舵を回し、船が横波を受けて転覆しないように進路を維持している。


 魔獣は後方に離されつつあった。その大きさゆえに小回りが利かないのか、それとも、ちっぽけな船がどうしようというのか理解するのに時間がかかっているのか、苛立ったようにヒレで海面を叩き続けている。


 だが、安心するのも束の間、再度空気の塊が吐き出され、後続していたもう一方の船を襲った。甲板の一部が粉々に吹き飛ぶ。そちらには数名の魔術師が乗っているはずだが、一瞬で具現化できる魔導とは違い、詠唱する必要のある魔術では防ぎようがないのだ。


 魔獣はさらに空気を呑み込んでいた。巨体を回して追いかけるより、船を木っ端微塵にしてやることを優先したようだ。


「――ロープを切るんじゃ!」


 それまで無言のまま柱にしがみついていたグリマイフロウ老が唐突に叫んだ。


「ルシカ殿! あやつの吐き出す空気の弾を広く拡散するんじゃッ」


 その意味にクルーガーが気づき、横帆を張ったフォアマストに向かって跳躍した。魔法剣が振るわれ、白刃が空中にひらめく。帆を巻き上げていたロープが切断され、帆布が一斉に落ちて張られた。


 ルシカは腕を振り上げた。魔導の輝きが空中をはしり、後方の船を飛び越えて魔獣との間に輝く魔法陣となって展開される。


 テロンも同時に片手で『衝撃波』を放っていた。渾身の力を乗せ、出来る限りに凝縮した『衝撃波』が矢のように後方の船に飛んだ。船は波に激しく上下していたが、狙いあやまたずロープを巻き上げていた箇所に当たり、その部分を消し飛ばす。後方の船の帆布も一瞬にして張られた。


 ドンッ!!!


 魔獣の気弾が吐き出された。


 ルシカの魔法陣によって拡散されてもなお、凄まじい爆風が二隻の船に突き当たる。帆が音を立てて膨らみ、船が大きくかしぐ。だが兵たちの必死の舵取りの甲斐もあり、船はどちらも姿勢を何とか保ちながら矢のような勢いで進んでゆく。


「面舵いっぱい! 左舷の岩を避けて!」


 ルシカの緊迫した声があがる。小回りの利かない動きはルシカの『遠隔操作テレキネシス』で補い、船はぐいぐいと進んでゆく。けれど、前方の闇のなかからようやくその姿を現した島は――上陸の余地もないような絶壁に囲まれていた。


「大丈夫だ、この先に洞窟みたいな場所がある! そこに入れそうだ!」


 前方に眼を向けていたテロンが叫ぶ。他の者より、闇のなかでも眼が利くのだ。


 クルーガーが細かい指示を舵取りに伝える。ルシカは海底の地形を感じ取り、進路の指示をさらに細かく補填した。


 舵をとっている者は指示に導かれながら、必死に舳先を回した。後方に続くもう1隻も遅れることなくついてくる。


 やがて、目指す場所が見えてきた。雲が割れ、再び月が島とその周囲を照らし出した。


「――後方から、魔獣が追ってくる」


 ルシカが言った。テロンが眼を向けると、後続の船のさらに後ろに、白い波が立っているのが見てとれた。あの不気味に輝く燐光も――。


「チッ!」


 気づいたクルーガーも眼を向け、舌を鳴らした。


「洞窟に入っても、追い詰められるかもしれない」


 テロンが言ったとき、ルシカが応えた。


「大丈夫、このまま進んで!」


 ルシカは自身の魔力マナを解放して、前方に口を開けている洞窟を調べていたのだ。


 それは海触洞であった。内部は広く、かなり奥まで続いている。規模からいって、自分たちの乗っている二隻の戦闘用帆船ブリガンティンはもちろん、後方から追いかけている魔獣ですら入り込めるほど大きなものだった。


 けれど、追ってくる魔獣は入れない――。ルシカにはその確信があった。


「このまま進んで大丈夫。正面までいけば、海底も深い。座礁の心配もないわ」


 ルシカの確信に満ちた言葉に、テロンは安堵した。けれど、すぐに別の緊張を感じた。ルシカの表情は厳しいままだった。何かを見極めようとでもしているかのように、瞬きも忘れて鋭い視線を前方に向けている。


「ルシカ、どうした? 何か別の懸念でもあるのか」


 同じことに気づいたクルーガーが訊いた。


「すぐにわかるわ。自然の洞窟じゃない――この島こそが、目的のひとつに叶っているかもしれないわ。そして……そうね、もしかしたらもうひとつの目的も達成されるかも……」


 確信に満ちて力強く発せられていたルシカの言葉の後半は、不安げな口調に変わっていた。テロンはその視線の先を追い、すぐに理解した。


 波間に木片が漂っていたのだ。船に使われるような、明らかにひとの手で加工された木材である。爆ぜ割れたものであり、その数はひとつやふたつではなかった。


「ラムダーク王国の、行方知れずの船もここに……?」


 そのとき、月の光が途絶えた。周囲は再び闇のなかに沈んでしまう。


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