白き闇からの誘い 6-7 魔の海域
星明かりは望めず、塗りこめたような闇のなかを二隻の船は進んでいた。
ルシカの方向を知る魔導の技のおかげで、迷子になることだけはなさそうだったが、それでも闇に沈む魔の海域は危険に満ちていた。船に乗り込んでいる者たちはみな不安を押し隠した表情で、眼を必死に凝らして海上を監視し、作業のない者たちは祈るように身を縮めていた。
魔獣たちはそれほどまでにいびつで怪奇な、そして敵として考えるならば剣呑で油断のならない姿かたちをしていたのである。
どれほどの距離が稼げたのだろう。体の内部で感じる時間の感覚が、テロンに深夜過ぎの刻限を伝えていた。
ルシカが魔導の力で気配を探りはじめてから、すでにかなりの時間が経っている。未だ進む方向に目指す影は見えず、耳に届くのは船の先端と櫂が暗い水面を割る音、そしてどこかから不気味に響く啼き声のみ。風は完全に途絶えており、帆は全て巻き上げられている。
テロンの目の前には、瞳を半ば伏せたルシカが床に膝をついていた。その静かな面持ちは、まるで精巧に作られた美しい女神像のように心奪われるものであったが、同時に背筋が冷たくなるような不安を感じさせるものであった。
世界で最も
魔導を行使し続けるルシカの体が、いつ限界を超えてしまうのか、テロンには全く予想がつかない。不安のあまり、ルシカの顔を見つめながら幾度唾を呑み込んだことだろう。
ふいに、ルシカの表情が動いた。眉が寄せられ、苦しそうな息をひとつ吐く。……そのままふらりと倒れかかる。
テロンは腕を伸ばし、抱えこむように細い肩と背中を支えた。刹那ではあったが、意識を失っていたらしい。すぐにルシカは目を開いた。
「――はぁ、はぁ……ごめん、何でも、ない」
その苦しそうな呼吸に、テロンは思わずルシカの手を握った。心配のあまり顔色を失ってしまったテロンの視線に気づき、ルシカは渇いた唇を微笑みのかたちにしてみせた。そうして、ゆっくりと身を起こす。掻き消えてしまった足元の魔法陣を戻すべく、再び指先で印を小さく切ろうとする。
「ルシカ……」
「……テロン。そんな顔しないで。こんなに魔の海域に魔獣がたくさんいるなんて思わなかったから、船に近いものを把握してその行動を見極めるのがちょっぴり大変なだけ」
「そんなに多く生息しているというのか……。クソッ、俺の体の
いつもの穏やかなテロンの言動とは思えない口調の激しさに、ルシカはうつむいた。ごめん、と唇だけを動かす。それほどに心配をかけてしまっていることを申し訳なく思ったのだ。
「いや、すまない。ルシカのせいではない。……早く目的の場所に着いてくれれば良いのに」
テロンは奥歯に力を込めた。魔法のことに関しては力になってやれない自分が、たまらなく悔しかった。
「ルシカが感じていた、大きな気配というものの位置……そろそろ着かないのか。少しでも近づいているのか?」
「うん。これが昼間なら、たぶん目視できている頃だと思うの。でもこうも暗いと……あぁ、岩礁や浅瀬はまだ感じられないから安心してね。えっと、たぶん間違いないと思うけれど――大きな気配の正体は『島』だと思う」
ルシカの言葉に、テロンは眼を見開いた。
「島……か。そこが全ての目的地だといいな」
「そうね、テロン」
ルシカはやんわりとテロンの腕を下げて押し戻し、相手の心配を払拭しようとするかのようににっこりと微笑んだ。
「じゃあ、あたし、続けるね。これがあたしの為すべきことだから」
ルシカは再び魔法行使の準備動作をして、素早く魔法陣を完成させた。オレンジ色の瞳のなかに、再び白い魔導の輝きが宿る。空中に広がった魔法陣の光が、すべらかな肌を闇のなかに浮かび上がらせる。
テロンは少し後方に下がり、複雑な思いでルシカの姿を見つめた。本当に少しでも早く目的地に着いてくれれば――と願わずにはいられない。
肉体というものは実に様々な制約に縛られているものだな……テロンは歯がゆく思ってしまう。
けれども肉体というものは、
「けれど、為すべきことは選べる……か」
テロンは口のなかでひっそりとつぶやいた。自分が王子という身分に生まれようとも、王位継承ではなく王国を陰で支えるという生き方を選んだように。そして類稀なる力を継承したルシカが、この自分とともに生きることを受け入れ、今も王国の為に尽力してくれているように……。
ルシカを失くしてしまうわけにはいかない。そんなことは考えられないほどに、彼にとって最も
目の前で、憔悴しながらも必死に魔導の技を行使し続けているルシカ。大勢の乗るこの二隻の安全のため、自分の
テロンの思考が
「……テロン……気づかれている。一体、こちらに向かってこようとしているのが居る」
震える声で言われ、テロンは我に返った。急ぎ立ち上がろうとするルシカが、ぐらりと倒れかける。その体を支え、テロンは一緒に立ち上がった。
「魔獣か」
「ええ、間違いない。相手は気配減じの結界にも惑わされなかった……ごめん」
「それはルシカが謝ることじゃない」
テロンは周囲の兵に聞こえるよう、声を張りあげた。
「襲撃が来るぞ! 伝令! 向こうの船にも伝えるんだ――戦闘に備えろ!」
その言葉に、船上が
「魔獣か!」
「――来る! 左舷の方向よ!」
ルシカの指先が挙がる。急ぎ灯された兵たちの明かりが、その方向に向けられた。
不自然な波音が遠くから近づいてくる。それはすぐに滝でもあるのではないかと思うほどの轟音と化した。暗い闇色の海面の下に、ちろちろと不気味な燐光が現れる。それは
「舵を! 波が来るぞッ」
クルーガーが叫びながら魔法剣を抜いた。その言葉通り、船が横波を受けて大きく揺らいだ。
船上にあった者たちが事態を認識し、ほぼ全員が硬直した。呆気に取られたように口を開いて、
海面下に広がっていた不気味な燐光は、巨大な魔獣の体表に発光する器官であった。信じられないほど頭上高くから、すでに気味の悪い頭部が近づいていたのである。
「
腕のなかで、ルシカが眼を細く
それは、例えようもないほどに怖ろしく邪悪な外観をしていた。青白く揺らめく燐光が、ヌメヌメと光る体表にずらりと並んでいる。
飛び出している巨大な眼球がぎょろぎょろと動いた。目の前にある船に興味を示しているだけなのだろうか。淡い期待がテロンの胸を掠める。けれど、同時に邪悪な殺気を感じてもいた。まさに波間に漂う木っ端を見るような目つき――こちらを
ふいに、厚く垂れ込めていたはずの雲の隙間が開いた。月の光が
そこに見えたのは、巨大な孤島だった。
光に導かれるように、テロンやルシカ、クルーガーたちの視線が島に向けられる。不可思議なことが起こった。島の上部から、濃い霧のような水の柱が噴き上げられたのだ。遅れて、ジュオオォッという凄まじい音が
水の柱は月光を受けて輝き、まるで天への架け橋のように空中高く立ち昇った。だがすぐに水は途絶え、きらきらと輝く光の粒となって島に降り注いでいった。
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