白き闇からの誘い 6-9 青と白の回廊

「大丈夫……入り口はもう、すぐそこよ」


 不安を無理に押し殺したようなルシカの声が暗闇に響き、腕を動かした気配があった。虚空に光の粒が生じ、次いで瞬時に手のひらに乗るほどの大きさに育つ。『光球ライトボール』の魔法だ。


 ルシカが作り出した魔導の光は船の舳先に向かって飛び、甲板や海面、そして進行方向の光景を明るく照らし出した。ざぶざぶと泡立つ暗い海の表面と、波飛沫に濡れた数多あまたの岩礁が、影絵めいて闇のなかにくっきりと浮かび上がる。


「ルシカ。魔導の気配は魔獣を惹きつけ――」


 言い掛けるテロンに、ルシカは微笑んだ。


「平気よ。もうすぐ結界を越えるから」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ふと、何か見えない壁のようなものを突き抜けたような感覚があった。テロンが振り返ってみても、何もない。船上にあった者たちも戸惑ったような表情で、同じように周囲を見回している。


「魔獣たちはここから入れない。王宮と同じ魔物返しの結界が展開されているのよ。ほら、あそこ」


 ルシカは、いままさに後方に続いている船が通り過ぎようとしていた、その両脇に海面から突き出していた岩を指差した。奇妙な岩だった。まるで、工匠たくみなる職人の技によって研磨された逸品のように見事な六角柱だ。さきほど自分たちの船が通りすぎたときに気づかなかったのが不思議なほどに、堂々たる様子で海の底からそそり立っている。


「外側からは見えないめくらましの魔法もかかっているわ。だから通り過ぎたとき初めて、こうして眼に見えるようになっていたの。あの柱に設置されている魔法陣が作り出す、一種の障壁よ」


「それはつまり……どういうことだ?」


「あの不思議な柱、巧みに隠されてはいるけれど表面に文様が刻まれている。それが魔導の力場を形成して、招かれざるものやあだなす魔の存在の侵入をはばんでいる。だからこの辺り一帯は穏やかに保たれているの」


 なるほどルシカの言葉通り、船の揺れがゆったりとしたものに変わっている。海底に突き出した岩で渦を巻いていたさきほどとは異なり、深い水深も確保されていた。あたかも船で訪れるもののために整えられたように。


「あたしの瞳には魔導の流れが見えるから……隠された障壁も含めて、ね」


 グアアアォォォォ……!!


 後方で凄まじい咆哮があがり、ザバザバと激しい水音も同時に聞こえた。追ってきたさきほどの魔獣が見えない障壁に阻まれ、その動きを止められたのだ。天に向かって吼えるようにいている。口を開いてこちらに空気の塊を吐こうとしたが、それすらも叶わなかったようだ。


 苛立った魔獣は尾を振り上げ、海面に叩きつけた。だが、激しくうねる波すらも障壁を抜ける際にしずめられ、穏やかなものとなる。船まで届いたときには、こちらの進行を助ける波となっただけに終わった。


 魔獣は長く尾を引く叫び声を発した。


「賭けてもいい。あれは悔しがっている声だな」


 クルーガーが奇妙に落ち着いた声で言った。


 周囲は、いつの間にか柱で囲まれた水路になっていた。玄武岩だろうか、六角柱の形を成した柱が寄り集まり、壁となって水路の両壁を形成している。それは進むにつれて高くなり、やがて船のマストの高さを越えた。ゆうにその倍はあるのではという高さにまで到達し、雲の垂れ込めている闇空は見えなくなった。


 船は巨大な回廊めいた空間を、何かに導かれるようにしずしずと進んでいく。


柱状節理ちゅうじょうせつりと呼ばれる地形にも似ておるが……自然の海触洞に似せてあるのか、もともとそのような地形であったことを利用したのか――」


 クルーガーの傍らで、グリマイフロウ老が考え深げに口を開いた。


「そう……これらもすべて人工物よね。すごいなぁ……」


 つぶやいたルシカは驚嘆したような、きらきらと輝く瞳を壁面に向けている。興奮と感動に握りしめた両手を胸に押し当てても、どきどきと高鳴る鼓動を抑えきれないようだ。


 テロンもルシカの視線につられるように眼をあげ、壁面や頭上を眺め渡した。高さは様々であったが、どの部分も六角形の柱が隙間なく立ち並んで壁を埋め尽くし、天井まで続いている。自然が造り出す森の天蓋のごとくアーチを描く天井は、王都にある荘厳なラートゥル大聖堂を思い出させた。ただし、規模は遥かにこちらのほうが大きい。三十リールメートル近くあるメインマストの船が二隻、悠々と通り抜けられるほどであったのだから。


 手すりから身を乗り出して海底を覗き込んで、テロンはまた驚いた。魔法の明かりによって照らされた海面は濃くあざやかな青のいろに輝いており、水は信じられないほどに深く透明度の高いものであった。


 形成されたあと水没した海触洞だとしても、これほどまでに安定した幅と水深を保っているものが天然のものであるとは、テロンにも思えなかった。


 だが、いったいどのような創造主が、このような空間を生み出したというのだろう。テロンは舳先まで歩いた。ルシカも歩み寄ってきて、テロンの傍らに並ぶ。


「水路は、どこまで続くのだろう」


「わからないわ……もう結構奥まで来たんじゃないかな。島の中心に向かっているのかも」


 ルシカが伸び上がるようにして額に手のひらをかざし、通路の先を見定めようとした。けれど、僅かにカーブを描きながら奥へ奥へと続く青の回廊は、圧倒的な規模と秘密めいた雰囲気のまま、果てなどないのではないかと思えるほどにどこまでも船をいざなってゆく。魔法による光源に照らされた柱の壁面は、長い年月に晒された骸骨さながらの白さを反射して、見る者の距離感を失わせている。


 ただ青と白だけが存在する美しい光景が、行き着く先のない永遠のように続いているのであった。


 驚きと感動、そして不安に包まれていた船の上は、やがて静かになった。神秘に打たれて誰もが口数を減らし、ただどこまでも続く先へと視線を投げかけている。


 クルーガーの指示で漕ぎ手たちが櫂を止めたが、船は変わりない速度で進み続けている。海水の流れが船を押しているとは思えない。テロンがその疑問をルシカに問うと、魔導士である彼女はそっと答えた。


「察している通りよ。柱に組み込まれている魔法の力そのものが、船を安全に誘導しているの」


「罠……の可能性はあるか?」


 テロンの言葉に、ルシカは軽く眼を見張り、考え込んだ。


「敵意はまるで感じられないけれど……そうね、警戒しておくことにするわ」


「ああ」


 テロンは慎重な性分だ。何事も疑ってかかっているわけではない。ただ、慎重であるだけだ。思い立ったら行動の兄やルシカとともにいれば、自然と身に着いてくる特性なのである。たいていは杞憂に終わることが多いのもまた事実であったが。


 いつの間にか、水路の向きが変わっていた。そして、唐突に広い空間に出たのである。


「……わぁ……」


 ルシカがポカンと口を開き眼を丸くして、小さく感動の声をあげた。


 広さだけをいえば、大陸有数の規模を誇る王都ミストーナがすっぽりと入るほどであった。ただしここは、あおく深遠なる水底を有する水面がそのほとんどを占め、奥が乾いた陸地になっているようだ。あちこちに大小様々な六角柱が立ち並び、海岸線を細かく区切り、それぞれに独立した入り江を形成していた。


 その先の陸には無数の柱が乱立しており、まるで白い幹だけが残された森のようであった。


 あまりに広大すぎる空間に、ルシカの灯した『光球ライトボール』では限界があった。ただ茫洋と、遥か頭上の岩天井や、まだまだ広がっている水面の一部を認識するのが精一杯である。青と白の織り成す空間に、船は速度を緩めることなく進んでゆく。


 空気は清浄で、濁りもない。声を出すのがはばかられるほどに静謐せいひつで、現実感を失いそうなほどに異世界めいた空間であった。


「――これはすごいな」


 さしものクルーガーも感嘆したように息を吐き、囁くように声を発した。


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