破滅の剣 5-38 浮揚島、復活

 リーファは、あけに染まった自分の手を見下ろし、呆然としていた。手に残る感触におののき、膝が折れそうになる。


 ギャウゥゥゥゥ……!


 ひとではない呻き声と、重量のあるものが倒れた音が耳に届き、リーファは顔を上げた。少し離れた石床の上に、真っ黒の巨大な体躯をもつ怖ろしげな獣が斃れている。側には、テロンとルシカのふたりが互いを支えるように立っていた。


 ふたりとも満身創痍だ。


 身動きの取れなかったテロンは、ルシカの癒しの魔導を受けている間、おのれの肉体の極限を越えるほどに『気』を練っていたのだ。研ぎ澄まされた感覚のように『気』が小さくこごり、衝撃をもたらすものより遥かに威力を高めた『聖光弾せいこうだん』となって、冥界の獣の中心をつらぬいたのである。


 テロンの傷は、かろうじて動けるほどにしか癒されていなかった。獣が再び襲い掛かってくるまでに猶予がなかったのだ。ルシカのほうも、テロンが攻撃に転じるまでの刹那の隙を埋めるため、敵の攻撃にその身を晒したのである。


 元の世界に戻ってゆく闇狼王の体の向こうで、テロンとルシカのふたりが膝をついた。前のめりに、ドサリと倒れる。


 ルシカの胸から、コロコロとガラス球が転がった。内部に封じられた二色の液体が混ざることはなく、その赤色と青色の接する面の揺らめく波形は、もうごくわずかな動きしかなかった。


「アーッハッハッハッハァッ!」


 ルレファンは哄笑した。狂気に衝かれたように。


「これで邪魔者は居なくなったということだ。クックックッ」


 彼は気づいていない。リーファが正気を取り戻していることに。


「そろそろ『きょく』が来る。もう少し、もう少しだ」


 ルレファンがいそいそと落ち着かない様子で、ハーデロスの神像に向き直る。その傍らに立つ少女の表情の変化にはまるで気づいていない。


 リーファは、自分の足元に落ちていた微かな銀色の煌めきに気づいた。


 禍々しい光の中にあってもなお、穢されることのない魂のように儚くも力強い輝き。それは彼女の短剣だった。先ほどまで手にしていた片刃のものではなく、彼女とともに戦ってきたものであり、デイアロスで失くしたはずのものだった。


「持っていて、くれたのか……ティアヌ」


 目の前に倒れ伏した青年の姿を映した琥珀色の瞳に、新たな涙があふれる。だが、リーファは瞳に力を篭め、涙をぐっとこらえた。ティアヌが届けた彼女自身の短剣を、そっと拾いあげる。


「さあ……! 『きょく』の始まりだ」


 壇上で両腕を広げた男に向け、リーファは短剣を振りかぶった。


「悪夢よ、消えて!!」


 リーファは短剣を投げつけた。気配に気づいたルレファンが振り返る。その上腕に、短剣はずぶりと滑り込むように突き刺さった。


 フッ、とルレファンが笑う。意識と肉体が乖離かいりしたかのごとく、まるで意に介していない。


「戻っていたのか……だが、もう遅い。全て、ハーデロスに喰われて消え去るがいい!」


 そのとき、ルシカの傍に転がっていたガラス球の赤と青の液体接合面が、完全に停止した。


「おおおお、『きょく』がはじまった……!!」


 神像に向き直ったルレファンの目が、カッと見開かれる。その瞳に映る闇が反転したような光となり、いで何も見出せぬほどの闇の深遠の先、虚無となった。


「『無の女神』ハーデロスよ。……今こそ我はこいねがう。この現生界にたれ!!」


「駄目ッ!」


 無我夢中で飛び掛かり、リーファはルレファンの背にむしゃぶりついた。ぐらりと傾いだ痩身に腕を巻きつけ、神像から引き離して床に組み伏せようとする。ふたりは激しく揉み合った。


「そんなこと、させない……!」


「放せ! 小娘がッ。俺はこの世界を終わりにするのだ。こんな世界、必要ないッ!!」


「必要ないかどうかは、あんたが決めることじゃない!」


 リーファは叫んだ。背に回された男の腕に襟を掴まれ、ぐいと引かれる。容赦のない力に絞められて首と頬を血色に変えられながらも、リーファは手を離さなかった。


「ひ……必要じゃないもの、なんて……この世に存在しない!」


「たわけたことを!」


「わたしも……最初は、自分を要らない子だと思っていた。憎んでいた、ふたつに分かれていた部族を、この世界を、そして……自分自身を」


 ついに振り解かれて床へ叩きつけられたリーファは、けれど少しも怯んだところのない琥珀色の瞳で、頭上にあるルレファンを真っ直ぐに見上げた。


「でも今は違う。そうじゃないって、教えてくれたひとがいた。ティアヌが、そして仲間が――」


 ルレファンは突然、凄まじい形相になって、リーファの体を力任せに蹴りつけた。


 言葉を断ち切られたリーファは、テロンたちの闘っていた後方まで飛ばされた。かろうじて受け身を取ったが、体中が痺れたように動かず、すぐに立ち上がることができない。


「ティアヌ」


 ぎじり、とルレファンが唇を噛んだ。


「ティアヌ、ティアヌ、おまえもティアヌかッ! どうしてあいつばかり、どうしてあいつが俺より上なんだ!」


 血を吐くように次々は発せられる声は、まるで断末魔の悲鳴のように空気を震わせ、激しさを増していく。


「畜生!! みんなティアヌがいいんだ。俺の前を奴が歩くんだ! ……どこまで行っても! どこまで行っても! 俺は、俺は奴を抜くことができないッ!!」


 打ちのめされた瞳で、ついにルレファンは絶叫した。


「うおおおおおおおおおおッ!! 女神ハーデロスよ! 俺の声を聴け。そして応えろ。この世界を、次元を、この俺ごと喰らい尽せぇぇぇッ」


 ルレファンの表情が明らかに一変した。別の存在が乗り移ったかのごとく動きをたがえ、背骨がビクンと跳ねるように大きく仰け反る。そのまま両腕を掲げ、とどろくような声で『神の召喚サモンゴッド』を唱えはじめた。


「いけない……」


 呆然と目を見開いたまま床に座り込んでいたリーファの側から、弱々しい声が発せられた。


 ルシカが『万色の杖』を支えに立ち上がろうとしていた。しかし、全身を襲った激しい苦痛に耐え切れず、再びドッとばかりに倒れ込んでしまう。リーファは身を引き摺るようにルシカの傍に寄り、膝をついた。


 だが、癒しの技をもたぬリーファには、どうすることもできない。聞き取れぬ声で詠唱らしきものをつぶやき続けるかたきの男をキッと見据え、リーファは再び床を蹴った。しかし、彼女の短剣が男へ届く寸前、その呪文は完成したのである……!


 シュオオォン、と沸き立つような音がして、ハーデロスの神像に捧げられた祭器が震えた。『赤眼の石』、『青眼の石』、『虚無の指輪』、『破滅の剣』が互いに共鳴をはじめる。


 『神の召喚サモン・ゴッド』が、ついに発動したのだ。


「な……うわ!」


 リーファは危ういところで後ろへ倒れるように身を転がし、男から離れた。神像から黒いもやのようなものが現れ、リーファの眼前でルレファンの全身を絡め取ったのである。


 黒いものは一瞬で、エルフ族の男の肉体を喰らい尽くした。


 グオオオオオオオオオ……!!!


 幾百もの龍の唸り声のような音が轟き渡り、空間全体を底から震撼させた。神殿の柱や岩壁に亀裂が奔り、細かな砂や石の破片が土煙となって降り積もる。


「……なんてこと……」


 ルシカは倒れたまま、悔しさのあまり強く瞑目したが、すぐに開いてオレンジ色の両の瞳に力を篭めた。腕を突っ張るように動かして、起き上がろうとする。


「『浮揚島』が復活する!」


「ふようとう!? それはどういう――」


 リーファが訊き返そうとするが、凄まじい揺れと周囲を圧する轟音に阻まれてしまう。ルシカは言葉を続けることができなくなった。


 ゴガガガガカガガガガ……!


 振動は、ますますひどく、激しくなっていく。このままでは島全体が粉々に砕けるのではないかと思うほどに。空間全体が悲鳴のような音を発している。


 続いて轟き渡った破砕音が、少女たちの悲鳴を掻き消した。





「お父様……あれを!」


 『はぐれ島』より遠く離れた王都ミストーナの王宮の屋上で、ルシカたちの向かった北東の方角を見つめて祈りを捧げていたシャールが驚きの声をあげた。


「ぬう……!」


 傍らに立つソバッカは、娘が指差した空を見て厳しい表情になった。


 そこには、島が浮いていた。空中高く、まさにゾムターク山脈の高峰をも軽々と飛び越してしまうほどの高さである。太陽の光があふれる昼の空にあってもなお、常闇そのもののように淀む……いや、何も無いが故に光を取り込み穴のように落ち窪んでいるのだった。


 『はぐれ島』クリストア列島最奥の島の真の姿――『無』の神のいしずえ、『浮揚島』がそこにあった。まさに神の視点に相応しく、天高くから地を見下ろすハーデロスの領域は、人々に畏怖をもたらす程度の存在ではなかった。


 それは虚無であった。


 空虚であった。


 人々にとって、それらが意味するものは『死』と変わりがない。それどころか、生まれた意味や存在、全てが最初から何も無かったことになってしまう。


 悪夢が、想像を絶するまでの現実感をもって天空に浮いていた。自分たちの頭上目掛けて、突き進んでくる。


 見上げた人々の心を原始的な恐怖が駆け抜け、まさに心底から震撼せしめた。それが混乱へと取って変わるまで、時間は必要でなかったのである。





 王宮の地下深く、古代都市の遺物を発動させるための魔法陣が敷かれた広間――。


 巨大魔法陣の頂点のひとつに座して瞑目していたヴァンドーナのもとへ、『浮揚島』が現れたという報告が届いた。


「彼らは……ついに間に合わなかったのでしょうか」


 アレーズが美しい顔を不安に曇らせ、揺れる翠の瞳を大魔導士ヴァンドーナに向ける。


「……彼らを信じるだけじゃ。わしらは儂らの、すべきことを果たす」


 『時空間』の大魔導士ヴァンドーナは、四人の同志である魔力マナの操り手たちの顔を見回し、落ち着いた声を発した。ダルメス、メルゾーン、タナトゥス、アレーズ、全員が覚悟を決めた瞳でしっかりと頷く。


 ヴァンドーナは力強い声を響かせた。


「やるぞ! 『障壁シールド』発動!!」


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