生命の魔晶石 3-1 王宮

 古文書に埋まり、埃だらけになってしまったルシカのため、ふたりは王の執務室へ向かう前に彼女の私室に立ち寄ることにした。


 『千年王宮』と呼ばれる白亜の建造物は、大陸のどこにもない独自の構造をしている。優美なアーチや外壁、柱が織り成す構造は巨大な魔法陣を織り成し、美しい外観のみならず、それらがつづる魔導の技によって強固な守護魔法としての力場を形成しているのだ。


 緑あふれる広大な敷地に整然と配置されているのが、大広間のある中央棟、西の棟、東の棟、中庭と回廊、謁見の間のある建物、北の庭園、そして図書館棟だ。


「ここからならば、螺旋階段を上るほうが早いな」


 中央棟の大広間にある螺旋らせん状の階段は、西の棟と東の棟の両方と上階でつながっているので、一段が幅広く上りにくいことを差し引いても、近道として便利なのだ。


「あら、ルシカ?」


 途中で、白い神官衣に身を包んだ女性に会った。胸に着けている聖印はファシエル神のものだ。おっとりとした朗らかな声をかけられ、ルシカがぱっと顔を輝かせた。


「シャールさん!」


「テロン王子、ご無沙汰しております」


 この女性は、いつも礼儀正しい。彼女は礼節を重んじる『癒しの神』ファシエルに仕える神官なのだ。


 肩上で切り揃えた、つややかな黒髪。深海色の瞳、健康的な肌の色をしていて、白を基調にした飾り気の少ない神官衣を乱れなく着こなし、化粧の類もしていない。素のままではもったいないと周囲から声があがるほどに美しい女性だ。


「まあ、ルシカ。いったい何があったんです?」


 シャールは目をまるくして、埃だらけのルシカを見つめた。平気そうに振舞っていたルシカだが、体のあちこちに打ち身や擦り傷がある。それにシャールは気づいたのだった。


 彼女はいつも、ルシカをまるで妹のように心配して気にかけてくれている。もともと誰に対しても面倒見がよく、裏表のない態度と優しい性格をしているので、ルシカも彼女を信頼して、姉のようになついていた。


「古文書整理をしていて、ちょっと埋まっちゃいました。でもすぐに助けてもらったから平気です」


 ルシカは冗談めかした口調で、明るく笑いながら言った。いつも気遣ってくれるシャールに、余計な心配をかけたくないのだろう。


「あらあら」


 シャールは優しく微笑んで首をかしげると、次に胸の聖印に手を当てて祈った。


「『癒しの神』ファシエルよ。傷は痛みを、痛みはいたわりと思い遣りをもたらすもの。されど、いまは癒しをこいねがう。正しき道へと進むために」


 たおやかな手が、ルシカの打ち身だらけの体にそっと触れた。ルシカの全身を透明感のある白い光が包みこむ。


「うわぁ、ありがとう、シャールさん」


 痛みが消え、傷が癒えことを素直に喜ぶルシカに、シャールは言った。


「でもルシカ。気をつけてくださいね。テロン王子がとても心配していらっしゃいますよ。ね、王子」


 予想もしていなかった言葉に、テロンの顔が熱くなった。泳いだ視線が、弾かれたように彼を見上げたルシカの視線と、ぴたりと合った。途端に彼女まで真っ赤になってしまう。


「あらあら」


 シャールは、ふふ、と笑うと、王子に向けて膝を折るように頭を垂れた。


「では、お引き止めしてごめんなさいね。失礼いたします」


「シャールさん、誰かを待っているのですか?」


「実は、父を探してここまで来たのですよ」


「え、あ。ソバッカ殿なら、親父……王に呼ばれていたので、今は執務室だと思います」


「私たちも今から行くところなの」


「まあ、そうだったんですか。ありがとうございます。ではどこかでゆっくり座って待っていますわ」


 いつも穏やかな表情を崩さないシャールは、ほわっとした笑顔でそう言うと、一礼して下に降りていった。


 ふたりはシャールに手を振って別れ、そのまま階段を上りきってルシカの私室に向かった。





「すぐに洗って、着替えるね」


 ルシカは私室に入ると、続き部屋になっている奥へと足早に入っていった。


 彼女が湯を使い、手早く体をきれいにしている間、テロンは彼女の部屋の窓際に設えてあるソファーに座って外を眺めながら、彼女の身支度が整うのを待っていた。


 耳が良いとこういうときに困る、とテロンは心の内でつぶやいた。衣が擦れ合う音や少し遠慮がちな水音が鮮明に聞こえるのだ。彼女の動きまで見える気がして、そわそわと落ち着かない気分になってしまう。


「ごめんね、待たせてしまって」


 湯で体を洗いながら、奥の部屋からルシカが申し訳なさそうな声でテロンに声をかけた。


「いや。こちらこそ、急がせてすまない」


「……さっきね、テロンが来る前に、クルーガーが魔術の本を探しにきていたの。今、おじいちゃんに魔法を習っているんですって」


「ああ、そういえば、そんなことを言っていたな。剣技だけではなく魔法も使えるようになりたいと。剣の通じる相手ばかりではないから、どんなときにも対処できるよう万全でいたいんだそうだ」


「でも、あのときとは違うでしょう。魔法剣があるなら、そんなに焦ることもなさそうだけれど」


 数日前、ルシカの祖父ヴァンドーナが、クルーガーに特別な長剣を贈ったのだ。


 魔法の力をもつ特別な剣は、どこかの武器屋で売られていたものではない。希少かつ高価な代物である。行き届いていた手入れと保存状態からみて、とても大切に扱われていたであろうその剣は、もしかしたらヴァンドーナ自身が所有していたものかもしれなかった。


 確かに、魔法の力をもつ剣があれば、そのまま振っても魔法的な存在に対して攻撃することができる。あえて魔法を重ねて付与する必要はないだろうと、ルシカは言っているのだ。


 だが、テロンには兄クルーガーの気持ちがよく理解できた。自分の力不足を感じるときには、現状以上に強くなりたくて居ても立ってもいられないのだ。


 テロンも今、確実に相手を圧倒することのできる力を得ようとして日々の修行に打ち込んでいる。『闇の魔神』との戦いでは、おのれの力不足を思い知らされた。『衝撃波』のような技だけでは、大切な者を護るには足りないと痛感したのである。


「魔力って……誰の中にもあるものなんだよな」


 魔術師や魔導士が行使する魔法の力の源になる『魔力マナ』。それは、この世界が誕生したときに生じ、すべての存在の根源となった始原の力である。魔力のみで存在を保つ生命や物質もあれば、外殻たる実体をもって存在する生命、物質もある。


 魔力は、世界を構成する重要な要素なのだ。


 テロンは、握り込んだ自分のこぶしを見つめた。習得しようとしている技は、魔力が形と流れを変えた『気』によって繰り出されるものである。自分の中にも強くなれるほどの魔力があるのだろうか……。


「ないと、困る。俺は強くなりたい」


 テロンはこぶしをグッと握りしめた。


「お待たせ」


 ルシカの声に、テロンは顔を上げた。


 まだ高い位置にある太陽から届く、あたたかくまばゆい陽光が差す室内に、着替えを済ませたルシカが立っていた。右手には『万色の杖』を携えている。


 陽光を受けてきらめく杖も美しかったが、斜めに差す光を横顔に受けてオレンジ色の瞳をきらきらと輝かせている少女の姿に、テロンは見惚みとれてしまった。


 やわらかそうな金の髪は、きちんとブラシが入ってふうわりと肩にかかり、光を反射して白い首すじと肌を強調していた。湯を使ったので、すべらかな頬は薔薇ばら色に染まっている。細い腰や伸びやかな脚、まろやかな体の線は、丈の長いシンプルな魔法衣であっても好ましく目に映るものであった。


「テロン?」


 金縛りにかかったように動きを止めたテロンを見て、ルシカが首を傾げていた。ようやく我に返ったテロンが、口ごもりながら応える。


「あ、ああ。じゃあ親父のところ……執務室だな、行こうか」


「うん。……でも、何だろうね」


 ルシカはテロンの傍に歩み寄りながら、微かに震える声で言葉を続けた。


「何だか、胸がどきどきするの。良くないことが起きたのでなければいいけれど」


 ルシカの不安を感じ、テロンは考え込んだ。宮廷魔術師を引退し、王都から離れたファンという町に隠居していたはずのダルメスまでもが訪れているのだ。


「只事ではない、ということか。とにかく行ってみよう」


 彼の言葉にルシカが頷き、ふたりは王の待つ執務室に向かった。





 王の執務室には、亡き王妃の好みが今も活かされている。


 重厚で豪華ではあるが上品な感じのインテリアでまとめられており、王都を一望できる窓の前には王の執務机が置かれていた。部屋の中央には座り心地の良さそうなソファーが幾つも、円テーブルを囲むように並べられていた。


「遅くなってしまい申し訳ありません、陛下」


 ルシカが姿勢を正し、一礼した。執務室には、すでに王国の中心的人物が揃っている。


「おお、ルシカ。忙しいなかすまんの」


 一番奥に座っていた壮年の男が、片手をあげてルシカに応えた。現国王ファーダルス・トゥル・ソサリアである。先王の戦乱の時世、身を隠すため冒険者として各地を旅していた経験もあってか、姿勢も体格も良く、気さくな感じの人物であった。


「ルシカ、しばらく見ないうちに大人らしくなったのぅ」


 右奥に座っていた老人が、彼女の姿を見て思わずといった様子で立ち上がっていた。高齢のために背は曲がっているが動きはなめらかで、両眼に秘められた光は思慮深く、明るかった。


「お久しぶりです、ダルメス様」


 ルシカが笑顔になり、衣服のすそを指でつまんで、テロンが驚くほどおしとやかなお辞儀をした。ダルメスも嬉しそうな笑顔で頷きながら彼女に応える。


 ファーダルス王が、ルシカの様子を眺めながら愛おしそうに目を細めていた。友人たちの忘れ形見であるルシカを、実の娘のように大切に思っているのだ。父王は息子にも優しい眼差しを向け、頷いてみせた。


「ご苦労であった。ありがとう、テロン」


 テロンは一礼すると、執務室を退出した。何の話し合いがあるのか興味はあったが、実は彼には、これから体術の師匠であるバルバ・ゾムーナに稽古をつけてもらうという約束があった。


 自分にも必要な内容なら、父からあとで話してもらえるだろう――テロンは自分をそう納得させ、王宮の北側にある庭園に向かった。


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