生命の魔晶石
生命の魔晶石 プロローグ
熱を伴わぬ光に
その人物は、手に、ひとの背丈ほどもある長杖を持っていた。スタッフと呼ばれるその杖は、先端に魔石と呼ばれる石が
「我が力では、どうすることもできない」
低く響いた声は、成人した男のものだ。声に秘められていたのは、深い、深い自責の念。魔導士の男は、苦しみに満ちた瞳を伏せ、心の迷いを噛み締めるように唇の端を
男は、もうずいぶん長い間、その場に
男の前には、棺のようなものが冷たく横たわっている。その周囲には、複雑で高度な魔法陣が描かれていた。凍結の力をもつ幻獣を使役させ、魔法効果として固定し続けるものだ。蒼い光源は、その魔法陣の真上に浮かんでいるのだった。
その冷たく凍るような闇の空間で、ついに男が動いた。
「……我にはどうすることもできぬが、できる者が存在するというならば」
漆黒の髪が揺れ、端正な顔に浮かんだのは固い決意。魔法の光のなかで翠に
「我がものとしてみせようぞ、『万色』の力をもつ者よ……!」
決然と声を響かせ、杖を握る手に力を籠めた男が、ふと自身の背後を振り返る。
今まで何者もいなかったはずの空間に、いつの間にか
「どうだ、心は決まったか?」
「ああ」
魔導士の男が立ち上がる。その表情に、もう迷いはなかった。
「約束通り、我が魔導の力を貸そう。いつ実行するのだ?」
「すぐにでも」
今夜は月のない闇夜。彼らが立てた計画を実行する条件にぴったりであった。
足音もなくふたりの男が立ち去り、空間を支配するものは静寂のみとなった……。
トリストラーニャ大陸の北部に比較的大きな国がある。人間族の王が統治するその国の名を、ソサリア王国といった。
ソサリア王国の王都ミストーナは、大河ラテーナの広大な
ミストーナの北街区にある白亜のソサリア王宮――『千年王宮』の中庭の回廊を、ひとりの青年が歩いている。整った顔立ちに、秋の空を思わせる青い瞳。意思の強そうな口元であるが、目に浮かぶ光は優しかった。
くせのない金の髪は短く整えられ、王宮に住まう者として相応しい上質な織りの衣服を身に纏っていた。物腰にも気品が感じられるが、背が高く、体格は筋肉のよく発達した引き締まったものである。
青年の名は、テロン・トル・ソサリア。このソサリア王国の第二王位継承者だ。
「午後は久しぶりに休めるかもと言っていたが……やはり、まだ図書館棟だろうか」
テロンは足早に歩いていた。陽光に明るく照らされた中庭には、季節の花々が咲き開いている。中でもひときわ目を惹いているのが、よく手入れされた薔薇たちだ。その甘く
「穏やかな日差しだから、見事な色に咲き開いたな。ルシカが見たら喜ぶだろうけど……。ここにもいないみたいだ」
中庭を見渡したあと、テロンは再び歩き出した。白亜の柱が織り成す光の模様に彩られた回廊を、ぐるりと回り込むように進んでいく。
東の図書館棟へと続く通路に入ったところで、テロンは前方から歩いてくる人物に気づいた。
テロン自身とよく似た容姿の青年だ。もしふたりのことをよく知らない者が見たら、同一人物なのではないかと思うほどに。
だが、体格と服装から受ける印象はかなり違っている。前方から来た青年はすらりとした体型をしており、腰には長剣を携えている。金の髪は長く伸ばされ、邪魔にならぬよう背に流してあった。青い瞳は、夏の空を思わせた。
あとひとつ、違う点がある。
前方から歩いてくる青年は、すれ違う女性たちに、にこやかな挨拶を欠かさなかった。爽やかそのものの笑顔で、女性に向かって言葉短くではあるが賛辞までもを添えている。相手の女性たちはとても嬉しそうだ。
「俺にはとても真似できないな……」
テロンは苦い独り言をつぶやいた。真似できるくらいならば、特別な想いを抱いている魔導士の少女に対して、もっと違う態度で接することができるだろう。自分の気持ちを素直に伝えることができれば……。
急いでいたはずの歩みが、止まってしまう。
前から来る青年がテロンに気づき、笑顔のまま片手をあげて気軽な挨拶を送ってきた。
「よう、テロン!」
「兄貴」
前方から歩いてきた青年は、テロンの双子の兄だ。名はクルーガー・ナル・ソサリア。このソサリア王国の第一王位継承者だ。
「どうしたテロン。誰か探しているのか?」
視線が周囲を彷徨っていたからだろう。兄に問われたテロンは視線を戻し、頷いて答えた。
「ああ。実は、ルシカを探しているんだ」
「ルシカ? それなら早く言えよ。図書館棟にいるぞ。昼に、遺跡から発見された古文書が大量に持ち込まれたとかで、忙しそうにしている。急なことだったから昼食も摂れていないとかで、差し入れがてら様子を見てきたところだ」
「そうだったのか。ありがとう」
礼を言って歩き出そうとしたテロンを、表情を引き締めたクルーガーが呼び止める。
「待て、テロン。何かあったのか?」
「親父がルシカを呼んでいるんだ。俺もちょうど用事があったから、直接伝えにいこうと思ったんだよ」
彼女と話せる好機だから、と口に出せないテロンは急ぎ足にその場を離れた。
図書館棟へと足早に歩いていく弟の背を見送り、クルーガーが首を捻った。彼はルシカの様子を見るために図書館棟を覗きにいく前、ルシカの祖父である大魔導士ヴァンドーナから魔術について学んでいた。思いつきで頼み込んだ魔術の習得にも、ヴァンドーナは嫌な顔ひとつせず付き合ってくれていたのである。
そのヴァンドーナも、至急の相談事ということで王に呼ばれ、部屋を出て行ったのだ。
「父上が、魔導士のふたりに相談とは、尋常事ではないよなァ」
胸をざわりと吹き抜けた不穏な感覚にクルーガーは眉をひそめたが、王子とはいえ呼ばれてもいない場に好奇心のみで出て行くわけにはいかない。だが、宮廷魔導士になったばかりの友人の少女が呼ばれたというのならば、気にするなというほうが無理であった。
ふたりの王子にとって、彼女は友人以上に大切な存在となっているのだった。
「きゃあっ」
ドカバサドカバサバサッ! 大量に物が落ちる音と、少女のものらしき悲鳴が、図書館棟の扉を開いたばかりのテロンの耳に同時に届いた。
「間違いない、ルシカの声だ」
テロンは図書館棟の奥へと急いだ。一階のホールまで響き渡った騒々しい音に、途中の閲覧室にいた人々までもが出てきて、奥にある保管庫へ何事かと集まっていく。
「ル、ルシカ様、すみません! 積み上げてあったのに気づかなくて……」
ひとりの文官が申し訳なさそうに何度も謝りながら、ある一点の場所を掘り起こそうとしている。
周囲にいた他の文官たちも手伝い、積み上がっていた多数の古文書を多少手間取りながらも取り除いていくと、ルシカのものと思われるほっそりした腕がみえた。腕は、積み重なっている古文書のひとつをぐいと押しあげた。ようやく顔が出る。
ぷはっと、まるで水中から顔を出したかのように息を吐いて、宮廷魔導士の少女は咳き込みながらも笑顔をみせた。
「だいじょうぶ、何ともないわ。あたしは平気だから、大切な古文書、できるだけ傷つけないように注意しながら運んでくださいね」
自分より本の心配をしているようだ。テロンは、集まった人々を掻き分けるようにして彼女のもとへようやくたどり着いた。古文書を踏みつけないように気を遣いながら、小柄な彼女を抱き上げるようにして書物の山から救い出す。
「怪我はないか?」
「ありがとう、テロン。……ごめんね」
「なぜ、ルシカが謝るんだ」
「手間を取らせてしまったし、心配をかけちゃったから、かな」
小さな舌をちらっとのぞかせながら、ルシカは照れたように頬を染めた。その言葉に、周囲の文官たちから声があがる。
「いえ! あの、ルシカ様は悪くありません。私が積み上げられていた古文書に気づかず、肩をぶつけてしまったものですから……」
「気にしないで。こんなにたくさんあるんじゃあ、仕方ないもの。もっと広い場所でできたら良かったんだけど」
テロンに感謝の眼差しを投げかけ、宮廷魔導士の少女は集まってきた他の文官たちと一緒に片づけはじめた。大量の古文書の下敷きから解放されたルシカは、衣服はもちろん、腕も顔も埃だらけになっている。
彼女が忙しいのは、王国内の遺跡で新たに見つかった古文書が図書館棟に次々と運び込まれているからだ。貴重な文献の埃を払い、分類するために解読し……遅々として進まぬ様々な手順に対し、運び込まれつづけている古文書の数は相当なものである。
経年劣化や多少の衝撃ではビクともしない技術で装丁された書物ばかりなので、埋まってしまったルシカが無事であっただけでも幸いだが――。
宮廷魔導士の役割には、古代グローヴァー魔法王国の知的遺産の管理も含まれている。今回の古文書もその遺産の一部なのだ。中には、知られざる歴史や叡智を紐解く貴重な文献もあった。
「ああ~、嬉しいなっと」
鼻歌でも聞こえてきそうなルシカの上機嫌ぶりからも、その価値が
ソサリア王国の宮廷魔導士として就任し、まだ数ヶ月も経っていないが、不満の声はひとつもあがっていない。文官たちは嬉々として彼女とともに日々の作業に当たっている。
決して偉ぶらず、自分から率先して動き、誰に対しても態度を変えない。そして非常に珍しく、強大な力をもつ『万色』の魔導士であるということが、その人気の理由なのだろう。
魔法には本来、創造、破壊、空間、時間、召喚、幻覚などの様々な区分があり、低いレベルの魔法であればどの種類でも行使できるが、最上位の魔法ともなると、どれかひとつ、もしくはふたつまでしか使うことができなくなる。
しかし、たったひとつだけ例外があるのだ。すべての魔法を自在に行使できる、万能かつ特別な存在。それこそが『万色』の魔導士なのだ。
いま、この類稀なる力を有する魔導士は、
他国を圧倒するに十分な叡智、富を生み出す魔法知識。王国にとって、明るい未来の象徴ともいえる少女である。
けれど、当の本人にその自覚はないようだ。忙しいながらも好きな本に囲まれ、皆に慕われ可愛がられながら充実した日々を送っている。文官たちにとって宮廷魔導士の少女は上司である以前に、書物好き知識好きの仲間であり、憧れの対象であった。
片づけを手伝おうとして手を伸ばしたテロンは、図書館棟までルシカに逢いにきた理由をようやく思い出した。
「ルシカ、分類中に邪魔をしてすまない。親父が呼んでいるんだ。今から俺と一緒に来てほしい」
「ファーダルス陛下が?」
ルシカは昇りたての太陽のようなオレンジ色の瞳を見開き、テロンを見上げた。
「わかったわ。テロンと一緒にすぐ行くね」
「ルシカ様」
即答したところに傍らの女性文官に小声で耳打ちされ、慌てて自分の体を見下ろす。
「……急いできれいにするから、部屋に寄っても大丈夫かな」
「それは大丈夫だと思う。まだ、ダルメス殿が到着していないから――」
「えっ。ダルメス様がいらっしゃるのっ?」
慌てた様子から一転して、ルシカは嬉しそうな表情になった。息子のメルゾーンとは一触即発の相手だが、前宮廷魔術師のダルメス・トルエランには尊敬の念を持っているのだ。王宮におつかいで訪問していたときに、魔術についてだけでなく、冒険者としての経験や知恵など、いろいろと為になる話を教えてもらったのだという。
「うん、こうしちゃいられないや」
ルシカは後の作業の指示を文官たちにてきぱきと伝えると、テロンを振り返った。
「テロン、行こう」
「あ、ああ」
埃だらけであっても輝くようなルシカの笑顔に、心臓の鼓動が少し早くなっていることを意識したテロンだった。
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