特別な日 2-2 後編

「テロン! クルーガー!」


 ルシカは眼を見開き、ふたりを案じて声をあげた。広い『転移の間』は、すでに戦闘の場と化していた。


 中央にある階段状の壇の上に描かれている魔法陣、そして五隅に設置されている宝珠オーブ。輝きを失った魔法陣の中央で剣を眼前に構えたクルーガーが立ち、少し離れた場所に腕を押さえたテロンが片膝をついている。そのテロンの背後にあった宝珠と柱は、粉々に砕かれていた。


「危険だ、来るな!」


 扉が開け放たれたことに気づいたテロンが、緊迫した声をあげてルシカたちを止めようとした。


「あれは――『炎狼ファイアウルフ』……!」


 ルシカは厳しい面持ちのまま、眼をせばめた。

 ふたりが対峙しているのは、赤く揺らめく炎で全身を包み込んでいるかのような、馬ほどもある巨大な狼だ。しなやかな体躯――踏みしめた床の表面は変色もしていないが、クルーガーとテロンの衣服には焼け焦げた跡がある。


 濃い魔力マナの気配――生命と肉体そのものが魔法的な生き物であることから、間違いなく魔獣ではなく幻獣であることがわかる。しかも上位種にあたる相手だとルシカは判断した。『炎狼ファイアウルフ』は俊敏で鋭い牙爪を持っている。その体は高熱の炎であり、知能も高いはずだ。あなどれる相手ではない。


「幻獣に通常攻撃は通用しないわ! 魔法じゃないと!」


 叫びながらも、ルシカはすでに精神集中を終えていた。魔導の技を行使するための準備動作を開始する。魔導とは知識だ。世界のことわりの全てを理解することで、自身の魔力と意思のもとに対象の存在形態を変容させる。それが魔導の魔導たるゆえんであった。

 行使する者の意思を押し通すための魔力マナの道筋を確保する、それが準備動作の役割だ。


 ルシカは腕を宙へすべらせるようにして眼前の空間に魔法陣を描き、『武器魔法強化エンチャンテッドウェポン』の魔法を行使した。効果はすぐに現れ、クルーガーの剣とソバッカや兵たちの剣、部屋に存在している全ての剣の刀身に青い粉のようなきらめきが纏わりついた。広い範囲の複数の対象に魔法をかけられるのは、魔導士としての力量の凄まじさだ。


 魔導が行使されたことに気づき、『炎狼ファイアウルフ』が跳びあがった。炎の尾を彗星のように引きながら、ルシカ目掛けて一気に距離を詰める。自分を傷付ける手段をもつ魔法使いを、まごう事なく見極めたのだ。

 怖ろしい形相がルシカの眼前に迫る……!


「――ルシカ!」


 テロンが叫び、クルーガーが跳躍する。


 ルシカは素早く腕を前へ突き出し、『力の壁フォースウォール』と『完全魔法防御パーフェクトバリア』の魔法陣を同時に展開させた。

 力の名である『万色の杖』が、魔導士の手のなかでひときわ強い虹色の輝きを放つ。宙にひらめいた光が空中を駆けはしり、物理と魔法双方の壁たる強固な力場を形成する。


 ギャウンッ!


 魔法の障壁に阻まれ動きを止められた幻獣の体を、テロンの『衝撃波しょうげきは』とクルーガーの剣が捉えた。

 炎そのものの巨大な体躯が吹き飛ばされ、宙を舞う。


 脇腹に傷を付けられた『炎狼ファイアウルフ』はくるりと空中で向きを変え、剣の間合いから離れた場所に降り立った。まさに手負いの獣そのものの眼差しで周囲の人間たちを睥睨へいげいする。


 ウオオオォォォォォォンッ!


 喉の奥からこの世ならざる怖ろしい咆哮を轟かせた。周囲の空気がびりびりと震え、兵たちの剣を持つ手が緩み、ルシカの周囲で剣が落ちる音が幾つも聞こえた。傭兵隊長は剣を構えたままであったが、悪態をついたところをみると、すぐに行動できない状態に陥ったらしい。


「いけない……!」


 『炎狼ファイアウルフ』の咆哮ロアには、硬直や麻痺を引き起こす効果がある。ルシカは咄嗟に自身の内の魔力マナを高めて抵抗しきったが、自分以外の者を護ることはできなかった。


 『炎狼ファイアウルフ』がニタリとわらったような気がした。狼が舌なめずりをすると、血でもすすったかのように赤い口蓋を縁取る黒線の隙間から、ぬれぬれと輝く真珠色の鋭い歯がずらりと見えた。ルシカに向け、狼が跳躍しようと牙を剥き、全身に力を籠めたのがわかる。


 グァウッ!


 跳びあがったその瞬間。


「させるかッ!」


 ザンッ! とクルーガーがその背に剣を突きたて、狼をその場へ縫い付けた。

 ルシカは驚きに眼を見開いたが、その隙を逃さなかった。


 杖を持つ左腕を振りあげ右の足で素早くステップを刻み描き、光り輝く魔法陣を展開する。白と黄の魔導の輝きが宙を駆けはしり、『炎狼ファイアウルフ』の頭上に到達した。

 ルシカの放った光が、幻獣の全身を絡め取る。『送還センドバック』――本来幻精界の存在である幻獣を、この現生げんしょう界から元の世界へと強制的に送り還す魔法だ。


 狼は全身を束縛する魔法に抗い、瞬間、効果を打ち砕いたかにみえた。剣に刺されていた箇所の肉を自ら引き千切ってクルーガーを振り解き、凄まじい勢いで床を蹴って宙に跳びあがる。


「――な」


 ルシカは魔法への集中を続けながらも蒼白になった。オレンジ色の瞳に、飛びかかる『炎狼ファイアウルフ』の姿が大写しになる。

 だがしかし、その牙と爪はルシカに届かなかった。眼をいっぱいに見開いて、ルシカは眼前に割り込んできた青年の体をおののきながら見つめた。


「……テロンッ!」


「――ルシカ、集中をくな!」


 テロンのあげた声に、危ういところでルシカは魔法効果を維持することができた。


 ルシカはテロンの視線に励まされ、さらなる魔力マナを魔法陣に注ぎ込こんだ。ついに『送還センドバック』は『炎狼ファイアウルフ』の抵抗を退しりぞけ、その効果を完全なものとした。

 『炎狼ファイアウルフ』の燃える炎さながらの体躯が透き通り、宙へとほどけるように消えてゆく。幻精界に戻っていくのだ。役目を完遂させた魔法陣が、空中に染みこむように消える。


 それを見届けた青年の膝が、ガクリと崩れる。背中と肩に凄まじい火傷と噛み傷を負ったテロンの体を、ルシカは全身で抱き支えた。


「テロン!」


「……ルシカ、よくやった。無事で、よかっ……」


「すぐに……すぐに癒すからね」


 ルシカは涙混じりにそう告げると、すぐに腕先で印を切った。白い魔法陣が具現化され、テロンと、その体を抱いているルシカを包み込む。テロンの傷が温かい熱を放ち、溶けるように消えてゆくのを、ルシカも肌で感じ取った。


 完全に回復したテロンが立ち直り、立て続けに魔力マナを消費してふらりと倒れかけたルシカをしっかりと逞しい腕で抱き支えた。この上もなく優しい光をたたえた青い瞳が、ルシカを覗き込むようにして目の前にあった。


「ありがとう、ルシカ」


 テロンが腕のなかの少女をしっかりと見つめ、穏やかな眼差しで微笑んだ。ルシカはすべらかな頬を染め、ようやく言葉を紡ぎだした。


「え……ううん、こちらこそ、無事だったのはテロンのおかげだもの」


「ルシカのおかげさ、やはりルシカは頼りになるな」


 ルシカは一瞬、ポカンと呆けたような表情になった。その言葉が心にようやく染みこんだルシカが、テロンの衣服を握りしめるようにしてその胸に頬を寄せ、ホッと安堵のため息をつく。テロンは励ますようにそっと腕に力を籠めてくれた。


 その光景を眺めていたソバッカが、口髭をたくわえた顔をにっこりと微笑ませた。剣を鞘に収め、口を開く。


「我ら兵たちの出番はありませんでしたな。いやはや、さすがは宮廷魔導士ルシカ殿じゃの。しかし――幻獣相手に何の手段も講じておられなかったとは、無茶にもほどがありますぞ」


 言葉の後半を向けられたクルーガーが、後頭部を掻きながら苦笑した。ふと真面目な顔になり、手にしていた剣の刀身に残っている魔導の輝きを見つめながら、つぶやくように言った。


「そうだな。まァ今回、ルシカ抜きで行動した俺たちは怒られても――」


「――仕方ないと、ご自分でもわかっていらっしゃるのでしたら、話が早いですな殿下……!」


「げ、ルーファス……!」


 いつの間にか扉口に、王子たちのお目付け役でもある騎士隊長ルーファスの姿があった。鼻の穴を膨らませ、憤懣やるかたないといわんばかりの顔をしている。踏みしめた石の床が抜けるのではいうほどに穏やかならざる足取りで、部屋のなかにドカドカと進み入ってきた。


「これには深ァ~いワケがあるんだって、ルーファス!」


「問答無用です! 今日こそはみっちりお仕置きですぞッ!」


 いつものごとく、クルーガーはルーファスに追われるようにして『転移の間』から騒々しく駆け出て行った。


 ルシカはまばたきも忘れて、その光景をテロンとともに見送ったのである。





「あぁ、何だか今日はすんごい疲れたぁ……おなか空いた」


 ルシカはふらふらとした足運びで図書館棟まで戻る回廊を歩いていた。すでに太陽は西の彼方へ沈み去り、黒の絹布に銀の粉を振りいたかのごとき満天まんてんの星空が、『千年王宮』の上空をひんやりと静寂のままに覆っていた。


「でもこれから、遅くなっちゃったぶん頑張らないと――」


 深夜すぎまでの作業を覚悟し、大きなため息とともに重い扉を押し開いたルシカは、驚きのあまり眼と口をポカンと開いたまま動きを止めた。


「どうしたの、みんな……?」


 やっとのことで言葉をつむぐ。


 図書館棟の扉の向こうには、ずらりと並んだ笑顔があったのだ。テロンとクルーガーの双子の王子をはじめ、騎士隊長や傭兵隊長、侍女頭のメルエッタや文官たちまでもが集まっていたのである。


「誕生日おめでとう、ルシカ!」


「おめでとうルシカ!」


 テロンとクルーガーが、そっくり同じ声を揃えた。クルーガーは悪戯っぽい微笑みを浮かべ、片眼をぱちんと閉じて寄こした。テロンはルシカと眼が合うと僅かに視線を逸らしながら空いた片手で頬を掻きつつ、耳まで赤く染まった。


 ふたりの背後から進み出た厨房頭のマルムが、赤い小粒の果物を盛ったタルトを捧げ持ち、にこにこと笑いながら懐かしそうに笑った。


「ルシカさま、憶えていらっしゃいますか? 幼き頃にお好きでございましたピナアの実を、香ばしく焼き上げたタルトにたくさん盛り付けてみたんです。どうぞ召し上がってください」


「ここをあなたが離れたときには、こんなにちいさな女の子でしたのに。本当に……美しく、大きく立派になられて」


 いつもは厳しい面持ちのメルエッタまでもが、目の端をきらりと光らせながらにこにこと微笑んでいる。


「え……えと、あれ? これはどういう……」


「ん? ……もしかしてルシカ、自分の誕生日を忘れていたのか?」


 クルーガーの言葉に、ルシカは「あっ」と声をあげた。やっとのことで今日という日――今から十七年前に、自分が生まれたことを思い出したのだ。あまりに忙しい日々を送っていたので、自分の誕生日などという個人的なイベントを、すっかり忘れ果ててしまっていたのである。


「ルシカ――これを受け取ってくれないか」


 テロンが気恥ずかしそうに言ってルシカに差し出したのは、キラリと輝くひと粒のまるい見事な宝石だった。黄金で細工が施され、耳につける宝飾品に加工されている。おそらく王宮で召し抱えている細工師の手による逸品なのだろう。


「急いで加工してもらったんだ。これが、今日の俺たちの冒険の目的さ」


 クルーガーもそう言いながら、握ったこぶしをルシカの前で開いた。テロンの手のひらにある宝石と同じ色、同じ大きさをしている。イヤリングらしく、ふたつでひと揃いになっているらしい。


 つややかな赤い色のたまは、燭台に灯された明かりを反射して、誇らしげに光り輝いている。ルシカの知っているどの宝石よりも煌びやかで優美であり、どの宝石よりもなめらかな表面をしていた。


「『獣谷けものだに』の奥には、魔法王国期からずっと遺されているという遺跡があるんだ。そこに眠る双子の護り石の伝説をソバッカから聞いて、行ってみたんだ」


 クルーガーの言葉を耳にした騎士隊長が、恨みがましい視線を傭兵隊長に向けた。向けられたほうはすでにあさっての方向へと眼を逸らしている。


「ルシカの持っている魔法王国の『五宝物』ほどではないけれど、古代の宝だっていうし、ふたつが対になっている宝玉なんてぴったりだろ?」


「あ……あの、ありが、とう。すごく嬉しい……!」


 ルシカはやっとのことで言葉を喉から押し出した。友人からの心尽くしの贈り物。ルシカはそっと目もとをぬぐった。自分抜きでふたりが出掛けていったのは、この為だったのだ。


「ほっほっほ。粋なことをするのぅ」


 呑気そのものの飄々とした声は、聞き違いようもなかった。ルシカは勢い良く背後の扉を振り返った。


「お、おじいちゃん!」


「ルーファス殿、クルーガー殿とテロン殿に『転移の指輪』を貸し与え、魔法陣を自由に発動させることができるようにした共犯者はこのわしじゃよ。面倒じゃったのでな、『獣谷』の入り口に直接魔法陣を設置してきたのじゃ」


 事もなげに告白する『時空間』の大魔導士ヴァンドーナに、王子たちのお目付け役でもある騎士隊長ルーファスはずっしりと疲れた表情になった。どの国家にも属さぬ、大陸一の実力者――ソサリア王国の良き相談役である大恩人を責めるわけにもいかず、せめてもの恨みとばかりに、力いっぱいの不満を視線に籠めている。


「もーっ、おじいちゃんがそんな場所に設置するから、今回の事件が起こったんじゃない!」


「まァあれだ、まさか宝を手にした瞬間、幻獣が召喚されてくるとは思わなかったし、俺たちの足なら逃げ切れると思っていたんでな」


 クルーガーがにこやかに言い放った。そして何かを思い出したかのように、あからさまな忍び笑いを洩らす。


「む! 兄貴ッ?」


 たちまちテロンが反応して、上擦った声をあげる。


「あ、そうか」


 思い当たったルシカが思わずポンと手を打ち合わせ、すぐにテロンを気遣って手を下ろした。


「あの谷には、テロンの苦手なミ……もいるのに。無理をしてまで、このプレゼントのためにがんばって……?」


「そうそう、でっかいのがいたんだよ。ぬしみたいなのが。そいつと遭遇しちまったとき、テロンは斜面のひとつを崩しちまったんだぜ。おかげで俺まで生き埋めになるところだった。力加減を考慮しないなんてよっぽど苦手なんだな」


「そ、それは言わない約束だっただろ!」


 真っ赤になるテロンの表情を見て、ルシカは胸がいっぱいになった。


「ありがとう、ふたりとも! ――みんな、だ~いすきっ!!」


 嬉しくて笑顔を弾けさせ、ルシカはテロンとクルーガーの首に跳びついた。ふたりの首にそれぞれの腕を絡めるような具合になったので、三人は固まりになって周囲に集まっていた者たちの輪の中で踊るようにくるくると回った。


 この上もなく楽しそうな笑い声はそこにつどったひとびとの全員に広がり、あたたかな雰囲気が図書館棟の内部をいっぱいに満たした。改めて食事が運ばれて飲み物が振舞われ、世俗とは無縁である図書館棟のホールが、この夜だけは楽しそうな祝いのパーティ会場となったのであった。


 喜びのために瞳を潤ませていたルシカがマルムの自信作であるピナアのタルトを受け取り、勧められるままもぐもぐと頬張る。甘酸っぱい味に感激したルシカは満面の笑顔になった。


「おいひぃれす。ありがとれふ、これもだいすきになりほふ」


「食べるか泣くか喋るか、どれかひとつにしろよ、ルシカ。――なァ、テロンもそう思うだろ」


 魔導士の少女に突っ込みを入れつつ、座って杯を傾けていたクルーガーも笑顔になっている。その周囲でヴァンドーナとソバッカが何やら愉しげな会話に花を咲かせ、杯を握りしめたルーファスがふたりに割って入るように何かを力説していた。ドッと響く笑い声。


 ルシカはそんな仲間たちを眺め渡し、オレンジ色のあたたかな色彩の瞳を微笑ませた。自分の居場所を見つけたような安堵を感じ、鼓動の高鳴る胸にそっと手を当てる。


 ふと自分に向けられた視線に気づいて顔を向けると、穏やかな微笑みで見守ってくれているテロンと眼が合った。

 照れたように笑って眼を逸らしたふたりはすぐに視線を戻し、互いに想いを込めた瞳でにっこり微笑みあったのである。


 これは、魔導の力を継承した少女と王国を背負い立つ前の王子たちの、大切な記憶と想い出の一ページ――。





――特別な日 完――

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