万色の杖 1-8 魔神

 ルシカたちがたどり着いたのは、他の住居跡とは明らかに異なる場所であった。


 時の流れを感じさせぬほどつややかな門柱は堂々と聳え立ち、小石ひとつ落ちていない石段が上へと続いている。崖の中途に穿うがたれ、掘りきざまれていたのは、屋敷とも見紛みまがう岩の建造物だ。


「保存状態が、他とはまるで違うようだな……」


 クルーガーがつぶやきながら、先頭に立って入り口と思しききざはしの最初の段を踏もうとした。だが、彼は戸惑ったように動きを止め、踏み出しかけていた足を戻して後方のルシカたちを振り返った。


「テロン、ありがとう。もう平気よ」


 ルシカはテロンの腕から離れ、動きを止めていたクルーガーの傍に歩み寄った。


「危険はないわ。あたしがさっき、あとで案内するって言った場所が、ここなの。中に入っても崩れる心配がないし、不思議な空気に満たされていて、ほとんど当時のまま保存されているのよ」


「あ、ルシカ……」


 何事か言いかけたクルーガーだったが、ルシカが何の苦もなく石段を上りはじめたのを見て目を見張り、「いや、何でもない」と頭を掻いた。彼の剣は、腰の鞘に戻してある。


「どうしたんだ、兄貴?」


「いや、気のせいかな。俺が段を上がろうとしたとき、押し戻されたような気がしたからさ」


 テロンは兄の言葉を聞き、かがみこんで階段の表面に触れ、注意深く調べはじめた。


「……仕掛けのようなものはないみたいだ」


 テロンはルシカを追って段を進んだ。首をひねりながら、クルーガーが後に続く。


 通路も柱も壁も、崖と同じもので造られている。この遺跡全体が崖を掘り抜いたものであり、柱や壁だけでなく、主な調度品も、掘り出した岩や土を利用して作られているのであった。


「古代魔法王国が繁栄していた時代のものではないけれど、すごい技術だと思うわ。作られたのは千年以上も前なのに、こうして残っているんだもの」


「なるほど確かに……ここは特別な場所なのだろうなァ。他では風化して判別できなかった彫刻もはっきりと見て取れるし、多くはないが調度品もある」


「ルシカはここに、何度か来たことがあるのか」


「うん。ここには魔獣たちも寄ってこないみたいだから、休憩に立ち寄らせてもらっているの」


 それに……、とルシカは言葉を続けた。


「はじめ、引き寄せられたみたいにここを発見したわ。とても興味深い場所よ。約五千年前から二千年前まで栄えていた、魔導の統べるグローヴァー古代魔法王国。統治していたのは五種族、すなわち人間族、飛翔族、エルフ族、魔人族、そして竜人族。その竜人族のひとびとが住まい、静かな余生を送ったといわれている『静居』の遺跡群……」


「竜人族、か。でも、この卓の彫刻は何だか、エルフ族独特の紋様に似ている気がする。この大陸の南部に栄えていたトレントリアという都のものみたいだ」


「すごい。テロンはよく知っているのね」


「昔、冒険者だったという傭兵隊長に習っていてね。各地の伝承や伝統なんかを少しずつ」


「だが、魔法王国の繁栄を支えていた魔導技術は使われていないんだろう。ここが作られたのは、王国が滅亡した後だと聞いている」


「クルーガーも不思議に思うのね。あたしもそうだった。ここには環境維持の魔法のようなものは展開されていない。けれど、こんなにきれいなまま保たれている……。何かの魔法がこの遺跡の維持に影響しているのは確実だと思うんだけれど、それに関する文献がなくて調べられないの」


「文献ではなく、ここで実際に調べたらいいのではないか」


 クルーガーの言葉に、ルシカは首を横に振って答えた。


「あたし、今までにほとんど出歩くことがなかったの。王宮までのおつかいができるようになったのも最近のことだし、道草ばかり食ってはいられなくて。それに……今は闇の魔神を何とかしなくちゃいけないから」


「そうだな……。勝算は?」


「本来この世界に属していないはずの存在を維持できているのは、はじめにかけられた封印魔法のせい。あれほどの存在を封じて操っていた、封印を施した魔導士本人の力を超えなければ、新たなあるじとして従わせることはできない。倒すことはもっと難しいはず。だからせめて、もう一度封じることができればいいんだけど……」


「ルシカ。君の魔導の力で、封じることはできないか?」


 テロンの言葉に、ルシカは考え込んだ。


「黒水晶は、さっき魔術師が割ってしまったから……。代わりになる結晶石や輝石があるといいんだけど、その辺にある石では無理だろうし。その、えっと……何より、あたしの力では、封印は無理かもしれない……。ごめんね」


「それは君が謝ることではないさ」


「うん……。でも申し訳なくて。もっと力があればいいんだけど、まだ魔導の『名』もないくらいだから……」


「魔導の『名』か。ヴァンドーナ殿が『時間』と『空間』、『時空間』の大魔導士と呼ばれていることに関係があるのか」


 ルシカとテロンの遣り取りに割って入ったクルーガーは、もちろん知識として、魔導士たちに専門の『名』があることを知っている。ひとりにつき、ひとつもしくはふたつの属性の上位魔法が行使できるということを。類稀なる強大な力を持つ魔導士だからこその制約だ。


「未だ『名』を持たぬ、未知数の魔導士……。そうだ、ヴァンドーナ殿は、確かにそう言っていたな」


「中位までの魔法ならどれでも行使できるし、上位魔法もすべて知識としては知っているの。でも最上位魔法は実際に使えたことがなくて」


「この剣に魔法効果を付与エンチャントすることは?」


 腰の長剣の柄を叩きながら問うクルーガーに、ルシカはしっかりと頷いてみせた。


「できると思う。付与は中位の魔法だもの。やってみるね」


 ルシカは目を閉じて精神を集中させた。ふたりの青年に見つめられていることを感じて、緊張と照れに感情が揺れたが、深く細く呼吸をしながら心をたいらかに研ぎ澄ませて、魔法行使のための準備を整える。


 閉じていた目を開いたルシカは、稀有なる色彩の大きな瞳に力を込めて、腕先を宙へ躍らせるように動かした。自身の中の魔力の流れを思い描き、目の前に差し出された剣と同化させるようにイメージを作り上げる。


 魔導とは知識である。世界のことわりを理解し、自身の魔力と意志のもとに対象の存在形態を変容させる。事象を支配し、制御するための魔法陣を織り上げ、望む効果を具現化させるのだ。


 魔導特有の緑の光が腕先の空間に生じ、燃え尽きぬ花火さながらに美しく同心円を描きはじめる。魔法陣が空中に固定されると同時に、剣全体が同じ色の光に包まれた。すぅっと溶けるように光は剣になじみ、うっすらとした輝きを残して光は消えた。『魔法効果付与エンチャンテッドウェポン』がかかったのだ。


 クルーガーは試しに剣を鞘から抜き放ち、注意深く一度、宙を薙ぐように振ってみた。ビュッと小気味良い音が鳴り、近くにあった岩の台のような調度品の表面に剣の軌跡が刻まれる。


「気をつけてね。風の力を付与したの。この地に合った属性だから効果は高いはずよ」


「これなら攻撃が通じるかもしれんな」


 刀身を眼前に掲げて眺めながら、クルーガーがにやりと口もとを笑わせた。


 間近で魔導の技の行使を見たテロンは、目を見張るようにしてルシカを眺めていた。


 完璧な多重円として描かれた魔法陣は美しく、空中に奔った光は優しく温かかった。何より、少女の稀有なるオレンジ色の瞳に現れた生命そのものであるかのような光と、その眼差しに魅せらたのだ。


「魔法というものは――」


 テロンがルシカに向けて口を開きかけた時だ。


 どぅんっ! と凄まじい衝撃が空間全体を揺るがせた。瓦礫混じりの烈風が室内にいた三人の間を吹き抜ける。遺跡の外壁が吹き飛んだのだ。


「見ツけタゾオオオぉォッ!!」


「魔神か!」


 テロンが素早く反応した。『衝撃波』を放ち、穿った穴から覗き込むようにしていた魔神を狙う。


 片眼を押さえた魔神は呻き、衝動的に外壁を殴りつけた。外壁だけではなく、内部の床や天井にまで一瞬にして亀裂が奔る。遺跡全体が今にも崩れてしまいそうだ。


 テロンが立ちはだかった隙に、ルシカはクルーガーに押されて部屋の奥へ進んだ。短い廊下の先は、小さな中庭になっている。遥か上に開けられた窓のような間隙から陽の光が差し込む、不思議な場所だ。


「テロン、こっちだ!」


 クルーガーの声に反応してテロンが動き、ふたりを追って通路奥へと飛び込む。その動きを追うように、闇のような腕が突っ込まれた。


 危ういタイミングだった。黒い炎を纏った魔神の腕が、長らく侵食とも無縁であったはずの室内を引っ掻き、無残に破壊していく。


 ルシカは小さな空間を見回した。中庭めいた空間の先には小部屋がひとつあるのみ。もう後がないのだ。『飛行フライ』を行使すれば遥か上の間隙から脱出できるかもしれないが、本来は『空間』に属する魔導の技の最上位魔法である。


「どうしよう……やってみるしか? でもまた失敗したら……!」


 彼女を背後にかばう位置に立っているふたりの背中を見つめ、ルシカは迷った。


 腕で室内を探ることを止め、慎重に距離を開けながら再び魔神が覗き込んでいる。その熾火おきびのような両眼には、はっきりと煉獄のごとき怒りの炎が燃え盛っていた。苛立ちのあまり発せられている低い唸り声が、しゅうしゅうと繰り返されている高温の呼吸とともに、怖ろしい口もとから漏れている。


「床が……これは、まずいぞ」


 クルーガーの声と視線に促され、ルシカたちは足元を見た。不穏な音を響かせながら、ひび割れは急速に大きくなり、最奥の床にまで到達している。今、全体が崩れ落ちれば、三人とも途方もない量の瓦礫に埋まることになってしまう……!


 魔神の咆哮と、破壊音。燃え盛る黒い腕が、再び遺跡内部に突っ込まれた。


「くそっ!」


 クルーガーが剣を叩きつける。狭い空間に烈風が渦を巻き、魔神が苦悶の声をあげながら腕を戻した。魔法を付与した剣の攻撃に効果があったようだ。


「でも、このままでは格好の的だわ」


 魔神は外壁を破壊し、三人を確実に引きずり出そうとしている。ルシカたちは追い詰められるように奥へと進んだが、ついに最奥の小部屋まで下がることになってしまった。焦るルシカの視線が、ふと、違和感のあるものを捉えた。


「兄貴!」


 テロンの呼び掛けにクルーガーが視線で応え、揃って攻撃の構えを整える。タイミングを合わせ、ふたり同時に仕掛けようというのだ。確かにこのままでは、埋まるか引き裂かれるかを待つだけだ。


 ルシカは握った手のひらに爪を立て、焦る気持ちを抑えて瞳に感覚を集中させ、違和感を感じた最奥の壁を探りはじめた。間違いない。違和感の正体は、壁の向こうにある魔力の流れだ。


 亀裂の狭間から、何かが心の奥底に囁きかけてきたような気がした。


「間違いない。この奥に隠された空間があるわ」


 いまにも飛び出しそうになっていたふたりに呼びかけながら、ルシカは亀裂の先にある空間の広さを知ろうと精神を研ぎ澄ませた。自身の魔力を解放して周囲に放つことで、魔導士や魔術師たちはおおよその距離を知ることができる。ルシカはすぐに顔をあげた。


「テロン、ここに衝撃波をぶつけて」


 テロンはルシカの言葉に驚いたが、理由を問うことはしなかった。魔神に突撃しようとしていた構えのまま振り返り、ルシカの指し示した最奥の壁の亀裂へ渾身の一撃をぶつける。


 最奥の壁は、隠された扉だった! 薄い壁が入り口を隠していたのだ。扉ごと音を立てて崩れた向こうに広がった空間を目にし、ルシカたちは息を呑んだ。


「すごい……」


「どういうことだ。薄暗いが洞穴などではない、人工的に造られた通廊だ。不思議な明かりに照らされている……」


「何でもいい! 行けるようなら進むんだ!」


 クルーガーの声に我に返ったルシカは、自分から率先して広大な空間に飛び込んだ。すぐにテロンが続く。飛んでくる瓦礫や魔神の腕を、剣と魔法効果で振りはらいながらクルーガーも後退して、ふたりの後に続いた。


 三人は通廊の奥へ向けて駆け走った。後方で凄まじい衝撃音と破砕音が響き渡り、足元を揺るがせる振動が伝わってくる。振り返ると、先ほどまで居た遺跡と通廊の入り口は瓦礫に埋もれ、薄暗い闇に閉ざされていた。


「危なかったな。遺跡ごと崩されて埋められるところだった」


「だがこの場所は……?」


「この先、ものすごく深くまで続いているわ」


 土埃が収まり、闇に慣れた目を凝らしてみても、通廊の先まで見通すことはできなかった。幅は王宮の廊下より遥かに広く、掘り抜かれたにしては床も壁もなめらかで継ぎ目がなかった。精度の高い測量技術があったのか、どこまでも真っ直ぐに続いている。


「魔法王国の遺跡なのか? それにしても、閉鎖された地中であるはずなのに真っ暗ではない。俺たち、互いの顔が見えているよな」


 ルシカはかがみ込んで、床にそっと指を滑らせた。持ち上げた指先から、白と青が入り混じったような不思議な光がこぼれ落ちる。


「……自然に生息するヒカリゴケの一種だわ。この光で見えているのね」


 魔導士として得たあらゆる知識の中から掘り起こした記憶が、次々と脳裏によみがえる。ルシカは立ち上がり、しばらく通廊の天井や壁を丁寧に見回した。そしてハッとした表情になると同時に声を張りあげる。


「思い出したっ!」


「いきなり声をあげるなよ、ルシカ。驚いたぞ」


 クルーガーの言葉に構わず、ルシカは頬を上気させて言葉を続けた。


「ここは『贈物シストア』の道だわ。失われた神殿に続く通廊! きっとそうよ!」


「シストア……の道? なんだ、それは?」


 首を捻りながらテロンが問う。


「詳しい記録や伝承は、世間にはあまり知られていないはず。おじいちゃんからミルト周辺の歴史を学んだとき、教えてもらったの。ゾムターク山脈には竜人族の遺した遺跡や遺産が多く眠っていて、どこかに『万色の神殿』という遺跡に導く地下通路があるって」


 ルシカは頬を染めて、息を継ぐ間も惜しむように語った。


「シストアとは、古い言葉で贈り物を表す言葉なの。おじいちゃんもメローニ家の先代から伝え聞いた話で、詳しいことを調べる手段がなくて忘れかけていたくらいなんだけど……まさかこんな形で見つかるなんて!」


 テロンがルシカの顔を見つめながら、自身の鼓動の高鳴りを押さえるように胸を押さえている。ヒカリゴケの淡い光のなか、彼女の瞳と笑顔がこの上なく輝いてみえたのだった。


「行ってみるか。この先にあるんだろう? どのみち、入ってきた場所は埋まってしまったし、空気も悪くない。この先に何かがあるってことだ。進むことで道が見つかるかもしれないだろう?」


「ほんとっ? やったぁ!」


 ルシカは子どものように手を叩いて跳びあがった。


「俺にも好奇心はあるんだぜ。気になるし、行ってみることに賛成だ」


 クルーガーも頷いて、ふたりに向かって微笑んでみせた。そのとき後方から、ドスンバタン、ガリガリという凄まじい騒音が伝わってきた。魔神が狭い空間を無理矢理広げながら、入り込もうとしているのかもしれない。


退しりぞくこともできないんだ。早く先へ進んだほうがいい」


 テロンが先頭に立ち、周囲を警戒しながら通廊の奥へと進みはじめた。魔法の光は必要ないと判断したルシカは『光球ライトボール』を使うことなく彼の後に続いた。クルーガーがしんがりを務める。


「古代の遺跡ならば罠があるかもしれない。気をつけて進もう」


「通り過ぎるものを拒まず、何も求めず、何も課さず。けれど預かりものを受けるに相応しければ入り、己が内に秘めた力にて資格を示せ」


「それは何だい、ルシカ」


「さっきヒカリゴケを調べたときに気付いたの。天井のところどころに、『真言語トゥルーワーズ』による記述があるの。魔導士にしか読むことができない表記文字……一語一句が、強大な影響力をもつ魔導の文字よ」


「魔導の文字だって? そんなもの、どこに」


 ふたりの疑問に、ルシカは天井のあちこちを指差した。テロンとクルーガーが目を凝らしながら示された箇所を見つめ、何か記号のようなものが彫られていることを理解して、なるほどと頷く。


「目が良いんだな、ルシカ。常人ならば暗くてよく見えないくらいだろうに。俺たちは目が良いほうだが、うっすらとしか判別できないぞ」


「魔導の文字は、視力とは関係がないの。魔導士の瞳は、魔力を視ることのできる閉じられない目のようなもの。周囲が明るいか暗いか、遠いか近いかではなく、魔力の濃さや強さが可視範囲に影響するわ。もっとも、普段の光景を見るときのあたしの視力は、普通のひとと変わらないと思うけれど」


 テロンが、はっと気付いたように口を開いた。


「そうか、入り口の遺跡が魔法に護られていたように感じたのは、ここの影響ではないのか。兄貴やルシカが、不思議だと言っていただろう」


「かもしれない。でも、護りがあったとしてもすでに入り口は開かれているから、いつ魔神が入り込んでもおかしくない。これだけの広さと高さがあるんだもの。……急いだほうがいいかもしれない」


 三人の背後では、轟音と振動が続いている。テロンは頷き、歩調を速めた。ルシカとクルーガーも合わせるように続く。


「それにしてもさ、テロン。さっきのメルゾーンとかいう魔術師、俺たちに気づかなかったよな。宮廷魔術師になりたくてルシカを排除しようとしているならば、ずいぶんとお粗末じゃないか?」


 それを聞いたルシカがクルーガーを振り返り、無言のまま顔の前に片手を掲げて、懸命に謝る仕草をした。彼女もふたりの正体に気づくことができなかったからだ。


「いや、君の場合は仕方ないさ。事情が事情みたいだったし」


「でもクルーガー。本当にあたしが、その……宮廷魔導士に推薦されているの?」


「ああ。それは事実だ」


 クルーガーはきっぱりと言った。


「君の名は、ルシカ・テル・メローニ。大魔導士ヴァンドーナ・ガル・メローニの実の孫娘であり、我がソサリア王国の正式な書記官であったファルメス・スー・メローニと、その妻フィーナのひとり娘でもある」


 突然の父と母の名前に、ルシカの瞳が揺れる。急いでいるはずの歩調が緩み、自然と止まってしまう。


「俺たちが幼かったとき、ファルメス殿に話を聞いてもらった。息もつけないくらいの速さでしゃべる俺とテロンの話を、頷きながら真剣に聞いてくれたんだったけな。ルーファスから何度もかばってくれたしなァ。……感謝している」


「父と母は……」


 ルシカはうつむき、胸のあたりの衣服をキュッと握りながら言葉を続けた。


「あたしが三歳のとき、船の事故で亡くなってしまった。父と母のことは、ほとんど覚えていない……」


 立ち止まっていたルシカの肩に、戻ってきたテロンがそっと手を置いた。痛みと悲しみを含んだ声で、ゆっくりと言った。


「俺たちの親父は、ルシカの両親の事故に対して責任を感じている。それに、俺たちの母も、俺たちが生まれてすぐ死んでしまった。だから少しだけど、ルシカの気持ちが理解できる。もし君が王宮に来てくれるなら、とても嬉しいんだ。もっと時間をかけて、ルシカとたくさんの話をしたい」


「テロン……」


 うつむいていたルシカは顔を上げた。涙がこぼれるのを我慢していたことで、精神的にも無理をしていたのだろう、ふらりとよろめいてしまう。


 傍に居たテロンが、ルシカの体をしっかりと抱きとめた。そのとき、ルシカの背負い袋から赤い包みがひとつ零れ落ちた。澄んだ軽い音を立てて、床を転がる。


「あっ」


 慌てたルシカがテロンの腕から離れ、床に手をつくようにして包みを拾いあげる。


「これは、あたしがおじいちゃんから預かったおつかいの荷物なの」


「ヴァンドーナ大魔導士から?」


 テロンとクルーガーのふたりは、好奇心に目を輝かせてルシカの手元を覗き込んだ。彼女の小さな両手のひらにすっぽり収まるほどの大きさの、上等な赤い布で包まれた、何やら丸くて固そうなものだ。


「何が入っているんだい? ルシカ」


 クルーガーの問いに、ルシカは首を傾ける。


「わからない。中身が何なのか、あたしは知らされていないから」


 そのとき、包んである布の間から白く薄いものが一枚、滑り落ちた。


「何だろ……。こんなものが一緒にあったなんて。封印の魔導が施されているのに」


 拾いあげてみると、小さく折りたたまれた手紙であった。表面に『ルシカへ』と書かれている。ルシカは首を捻りながらも、注意深くその紙を開き、目で文字を追いながらつぶやくように読み上げた。


「――ルシカ。この手紙が読まれているということは、『万色の神殿』へ到達したということじゃな」


 ルシカは、弾かれたように通廊の奥へ視線を向けた。薄闇を透かし見るように改めて目を凝らすと、少し進んだ先で広大な通廊が唐突に終わっているのが見て取れた。手紙には続きがあった。


「――この布包みには、実はダルメス殿への届け物ではなく、ルシカ、そなたへの贈り物が入っておる。これが何であるかは、ルシカ、そなたにはわかると思う。これを持って神殿へゆけ。そなたがこれから必要になるものが、そこに在る。それは……」


 続きは手紙の一番下に綴られていた。息を吸うことも忘れ、逸る気持ちのまま文字を追う。


『着いてからの、お・た・の・し・み、じゃ』


 ルシカは口を半端に開いたまま動きを止めた。紙を握る手に力が籠もるが、ため息をついて紙を丁寧に折りたたんだ。


 すると、そこには別の言葉が綴られていた。


『どうか無事でいてくれ 幸運を祈る』


「……ルシカ」


 手紙を手にしたまま瞳を揺らすルシカに、テロンが気遣わしげに声をかける。ルシカは首を振って目の端を指で拭うと、布包みに施されていた封印の魔導を解き、開いた。


 中からは、手のひらほどのサイズの半透明の結晶石が出てきた。何とも不思議な手触り、脈動するような虹色の光を内側から発している。複雑な多面体の結晶石だが、テロンやクルーガーはおろか、ルシカでさえ目にしたことがないものだ。


「たぶん……これは『魔晶石ましょうせき』だわ。実際に見るのは初めてだけれど」


 純粋な魔力から成る結晶体である。特に、魔導の輝きを放つ魔晶石は、この世に幾つも存在するものではない。途方もなく希少で貴重な品だ。


 赤い布包みに施された『封印』の魔法は、単に盗難防止や保護のためだけではなかったのだろう。魔導士であるルシカにも、これほどまでに強い魔導の存在を気づかせなかったのだから。


 ルシカは魔晶石を胸の隠しに入れ、導かれるような心地で通廊を進んで両開きの扉の前に立った。竜人族に縁のある遺跡のはずだが、扉は人間族にぴったりの大きさであった。


「……『万色の神殿』……」


 ルシカは、喉をごくりと鳴らした。


 何かの予感だろうか、トクトクと鼓動が早くなっている。この先で運命が変わるような、後戻りできなくなるような、不安と期待が入り混じったような高揚を感じる。


 扉に鍵や封印はなかった。ルシカ、テロン、クルーガーの三人は重厚な石造りの重い扉を押し開け、神殿内部に足を踏み入れたのだった。


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