万色の杖 1-3 出逢い

「え――きゃ……!」


 追いつかれたのかと動転し思わず悲鳴をあげかけたルシカの口を、何かが塞いだ。ルシカがせめて相手を殴ってやろうとこぶしを握ったところで、耳もとに囁いた声があった。


「声を立てないでくれ。敵ではない」


 知らず閉じていた瞳をあげ、視界を掠めるようにして見えたのは青い瞳――。それは網膜に焼きついたように、ルシカに強い印象を残した。


 優しげで穏やかで、まるで今日の空のような――秋の高く澄んだ青空の色彩。彼女の大好きな色だった。


「君を助けたいんだ」


 ルシカを抱えた人物は短く告げると、地面を強く蹴って跳躍した。その衝撃に首が仰け反りそうになり、慌てて全身に力を込めたが……それに気づいた相手がしっかりと胸に引きつけるようにしてくれたので、ルシカはどこも痛めずに済んだ。


 どうやら道の傍にあった大樹の枝上に移動したらしい。周囲は緑の葉や枝に閉ざされ、穏やかな風が周囲をざわめかせながら吹き抜けていく。


 自分を抱えている相手を見上げたルシカだったが、頭上にある太陽の眩しさに邪魔をされ、相手の顔を見ることは叶わなかった。ただ、その腕の強さと力の籠め具合に、こちらを気遣ってくれている優しさを感じることができるのみ。


(誰だろう……敵ではないみたいだけれど)


「来たぞ」


 低い声で囁かれたとき、足元に追っ手の姿が現れた。三人……いや、遅れて来た者がいるから、四人だ。


「どっちへ行ったんだ」


「探せ! 引き離されてはいないはずだ」


「何なら、魔術で……」


 下から聞こえる会話の内容に、ルシカは祈るように眼を閉じた。魔術で探られたら、頭上にいることが簡単にばれてしまう。魔導に敵わぬといわれる魔術であるが、そのくらいの魔法効果は確実に具現化できる。


「俺に任せろ」


 ルシカの不安を感じたのか、相手が安心させるように囁いた。ルシカの体がふわりと浮く。


 気配を感じることができなかったが、どうやらもうひとりの人物が傍にいたらしい――ルシカは人形かぬいぐるみか何かのように、そのもうひとりの腕に受け渡されたのだ。受け渡しの瞬間、眼下に見えたあまりの高さに思わず悲鳴が喉まで出掛かった。


「おっと」


 別の大きな手が、ルシカの唇を塞いだ。


「悲鳴は必要ないぜ。大丈夫だ」


 耳に届いた囁き声は、驚いたことにさっきの者と同じものだ。疑問と混乱のほうが恐怖と警戒を上回り、ルシカはそのままおとなしく動きを止めて口を閉ざした。


(少なくとも魔獣ではないみたい)


 ルシカの細い腰に回されているのは人間の腕だ。背中に当たる違和感は、鎧のように硬い金属のような感触である。そういえば先ほどの人物は、硬くなかったけれど……。受け渡された姿勢が微妙で、相手に後ろから抱きすくめられたようになっていたため、またしても相手の顔は見えなかった。


 気付くと、ルシカを樹上まで上げてくれた人物は居なくなっている。


 ガサッ。少し離れた眼下の茂みで何かが動いた音と気配とを感じ、ルシカは眼を向けた。


(何も居ないみたいだけれど……さっきのひとが居るのかな)


「あそこだ!」


 揺れたと思しき場所を指差して、追っ手のひとりが叫ぶ。他の者たちも各々の武器に手をかけつつ、茂みに向き直った。


 ガサガサガサ……。音が、慌てたように遠ざかっていく。それを四人の追跡者は追いかけていき――やがて、周囲は静かになった。


 ほっとしたルシカの体中から力が抜ける。同時に、今度は背後の、ルシカを抱きすくめたままの人物のほうが気になってくる。どうやらこちらに敵意はないようだが……。


 その者は、ルシカの口を塞いでいたままの手を離した。次いで耳もとで囁かれたのは、よどみのない、とてもきれいな発音の大陸公用語だった。


「もう安心だよ、レディ。こわくはなかったかい?」


「レ、レディ……?」


 あまりに真摯な言いように、ルシカはオレンジ色の目を見開いた。その人物を確かめようと無理に首を曲げて背後に顔を向ける。顔のすぐ横、びっくりするほどの至近距離に、さわやかと形容できる整った相貌があった。まるで夏空を思わせるように澄んだ青い瞳が、こちらを真っ直ぐに覗き込んでいたのである。


(さっきのひととは、違う……いえ、同じ?)


「こんなに可愛い、か弱き女性を追い掛け回すなんて――。なんてやつらだ。君に怪我がなくて良かった」


 親しげに笑いかけてくる相手は、背の高い人間族の青年だ。青い瞳、切れ長の目。クセのない金髪は長く、邪魔にならぬよう背に放ってある。ルシカより幾つか年上であるらしいと思われた。


 整った容姿とすらりとした体格にしてはかなりの筋力があるらしく、片腕だけで軽々とルシカの体重を支えている。


 上質の衣服と細かな装飾のされた軽鎧を身につけ、濃い青色のマントを羽織って黄金色のピンで留めてある。腰には片手持ちの長剣を帯びていた。よく見かける剣より長めで重たそうで、派手ではないが見事な細工が施されている。


 冒険者とは纏っている雰囲気がまるで違う。近隣の村で見かけるような青年とも明らかに異なる。ルシカは戸惑いながら口を開いた。


「あ、た、助けてくれて、どうもありがとう。あなたは誰?」


「俺を知らないのか?」


 相手の青年は一瞬戸惑ったような表情になり、至近距離からまじまじとルシカを見つめた。男性との至近距離での会話に慣れていないルシカの頬が、一気に熱くなる。


「え、えと。どこかでお会いしていましたか? 忘れてしまっていたならごめんなさ――」


 自分の記憶が抜けていたのかと焦ったルシカが言葉を継ぎかけたとき、ふたりがいる樹の下から少々不機嫌そうな声がかけられた。


「兄貴、いつまで待たせる気だ」


(間違いない、さっきの声のひとだ……!)


 ルシカは反射的にそう思った。目の前の人物との僅かな声音の違いを、しっかりと認識したのである。いま枝上でルシカを抱き支えている青年が、その声に笑顔で応える。


「すぐ降りるさ、テロン。さっきの奴らはどうした?」


 テロンと呼ばれた青年は、呆れたように首を振ってため息をつき、気を取り直したように再びルシカたちを見上げて微笑した。


「この先に誘導して、巻いてきた。今頃『獣谷けものだに』の奥に入り込んでいるんじゃないかな」


 低いがよく響く、穏やかな口調。ルシカたちを見上げている青年の瞳は、秋空のように澄み渡った色をしている。顔立ちはルシカを隣で支えてくれている青年とそっくり同じであった。黙って立っていれば、同一人物なのかと錯覚するほどに。


 だが、受ける印象はかなり違っていた。隣の青年はすらりとした体格だが、テロンと呼ばれた青年は筋肉のよく発達した体格で髪が短い。樹上の青年は快活で洗練された印象だが、こちらは意志の強そうな口もと、優しそうな眼差しをしている。


 何故だかとてもなつかしい想いが、ルシカの胸を打った。胸に当てた自分の指先が震えている。こみ上げてくる想いは、安堵なのか、別の何かか……ルシカは、テロンという名の青年の瞳をじっと見つめた。


 テロンもまた、彼女の視線を受け止めるように動きを止めていた。彼が口を開こうとするより早く――。


「驚かせてしまったかな。ちょっと待て」


 ルシカを抱えたままの青年が、ふたりの視線を遮った。彼女を支えていた腕に力を込め、姿勢を変えたのだ。まるで宮廷のお姫様にするようにひざ裏にもう一方の腕を差し入れ、ルシカの体を軽々と横抱きにする。


「わわわっ。ちょっと、何す――」


 驚いて声をあげかけたルシカに気障きざなウインクをひとつして、樹の下で待っていたもうひとりの青年の隣に、優雅な動きでストンと降り立った。


 丁寧に地面に降ろされ、よろめかないように手を取られて気遣われながら、ルシカはようやく大地に真っ直ぐに立つことができた。


 あまりに目まぐるしく変化した光景と緊張の連続に、すっかり目が回ってしまっていたのである。


「あ、ありがとう」


 どきどきと音高く鳴っていた胸を押さえ、顔を上げたルシカはふたりの青年に礼を言った。


 改めて、最初に声を聞いた青年テロンに視線を向ける。筋肉の発達した肉体に動きやすい胴着を着込み、装飾の施された胸当てのみを着けた軽装である。腰には何の武器も帯びていない。剣を携えているもうひとりの青年より、拳ひとつ分さらに背が高かった。


 大きな瞳のルシカに至近距離でじっと見つめられて落ち着かなくなったらしく、テロンは顔を僅かに赤くして横を向いてしまった。


「しかしまた、どうして追われていたんだい?」


 腰に剣を帯びたほうの青年のほうが訊いてきた。


「あたしにもさっぱりわからないの。いきなり矢が飛んできて、びっくりしたから走って逃げていただけ」


 ルシカの至極簡潔な答えに、ふたりの青年が吹き出すように笑う。恥ずかしさと戸惑いに、ルシカは頬を膨らませつつ言葉を続けた。


「でも、どうして助けてくれたの?」


「そりゃあ、こんなに可愛い女性が悪いやつらに追われているのを見て、放っておく男はいないさ」


「またはじまったな。兄貴の悪いクセが……」


 剣を帯びた青年の返答に、テロンと呼ばれたほうの青年が頭を抱えて呻くように言った。


「兄貴? じゃあやっぱり、ふたりは兄弟なのね。こんなに似ているんだもの」


「そう、俺たちは双子なんだ。俺の名はクルーガー、弟はテロン。ミルトという村の郊外に住んでいるはずの魔導士を訪ねるところなのだが、君、知らないか?」


 ルシカは驚いた。


「それって、おじいちゃんのこと? 魔導士って呼ばれるのは、この辺りではおじいちゃんしかいないから」


「じゃあ君が、ルシカ・テル・メローニ? 生ものが苦手で、何もないところですぐつまずいて転んでしまうという、ヴァンドーナ殿の一番弟子なのか!」


「では、やはり……君が」


 クルーガーとテロンのふたりに同時に詰め寄られてしまい、ルシカは茹でられたように耳まで熱くして叫んだ。


「そ、そんな話どこで聞いたんですかっ?」


「ん? 君のおじいさまに」


 クルーガーの言葉に足がふらついたのは、決して疲労からではなかったと彼女は思った。ルシカ自身、外の世界とはあまり関わることなく、普段はほとんど自宅から出ることがなかった。もちろん、屋敷内の庭や森に出ることはあるけれど。


「おじいちゃん……いったいどこでどんな話をばら撒いているのかしら。恥ずかしい……」


 最近、王都まで「おつかい」で出掛けるようになったといっても、宮廷魔術師ダルメスに祖父から預かった品を届けたあと王宮内で話を聞きながら、数日間を過ごすのみ。行き帰りの間にも寄り道はほとんどしていない。


 王宮との特別な繋がりは、祖父ヴァンドーナとダルメスが旧知の仲であるからと聞いている。傭兵隊長であるソバッカとも。そして話を聞くといっても、魔術や魔導の魔法についての先達せんだつの意見やアドバイス、そして若い頃に大陸中を旅していたという冒険話や経験譚だ。だから「おつかい」自体、ルシカが見聞を広め、魔術についての知識も深めるためなのだと思っていた。前回の訪問で国王陛下に会えたのは、単に幸運だったと。


「……あたしの知らないところで、何か特別なことが進行しているのかな……」


 文字どおり頭を抱えるルシカの苦悩ぶりに、クルーガーとテロンは互いの顔を見合わせた。


「ルシカ、すまない。話をさせてくれ」


 兄の視線に促されたように、テロンのほうが口を開いた。自分たちの知っている状況を説明しはじめる。


 現在ソサリア王国に仕えている魔法使い――宮廷魔術師であるダルメスが、自分はもう歳を取りすぎたという理由から隠居を考えているのだという。


「後継者を誰にするか、ソサリア王国にとって恩人であり相談役でもある大魔導士ヴァンドーナ殿とも話し合った結果、孫であり、一番弟子でもある君が推薦されたんだ。経験はこれからだが、実力と知識は相当なものだと聞いている」


 テロンの説明のあとで、クルーガーが口を開いた。


「君には王国から期待がかかっているのさ。で、どんな人物なのかと興味があって。若干十六歳の若き天才魔導士だ。ヴァンドーナ殿の愛孫、しかも女の子だということだし。まあ、いわゆる見学にさ」


 ルシカは呆気に取られたような表情のまま、動くことも忘れて青年たちの話を聞いていた。


(このソサリア王国の宮廷魔術師の後継者? あたしが?)


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