万色の杖 1-2 出発

「おじいちゃんは、いつも何を考えて生きているのかなぁ……」


 天蓋のように頭上を覆う緑の隙間から秋の澄んだ青空を見上げ、ルシカは口のなかでつぶやいた。


 すずやかな風が白や黄色の小さな花々を揺らし、軽やかな音を奏でている。なかば緑に没している小道をミルトの村に向けて歩き進みながら、ルシカは普段から疑問に思っていたことを考えていたのだ。


 祖父である大魔導士ヴァンドーナは、魔導の知識やその力の行使についてはこの上もなく厳しい教師であった。


 だが、それ以外の時間には、深遠なる思考や類稀たぐいまれなる魔導の遣い手とは思えないほど不真面目な調子で、些細ささい悪戯いたずらやジョークを仕掛けてきたり、からかうようなことを言って彼女を戸惑わせるのである。


「でも、特に悪意もないし害があるわけでもないんだよね。……はぁ」


 ルシカはもともと、王都ミストーナの生まれだ。両親は王宮に勤める高位の書記官だった。だが、ルシカが三歳になったばかりのとき、船の事故で帰らぬひととなった。祖父であるヴァンドーナは息子夫婦の忘れ形見となったルシカを引き取り、ミルトの村の郊外にある私邸で育ててくれたのである。ルシカ自身は、ほとんど覚えていないけれど。


「大魔導士ヴァンドーナさま、かぁ」


 隠居して好きにふらふら生きている……ように見える祖父だ。けれど博識で魔法に関する知識も深く幅広く、実力は底知れない。そして偉そうな人や異国の装束の人、魔術師のような服装の人、若い人、幾歳なのかわからないほど年寄りの人、実に様々な訪問者が多くあった。


 祖父はこの大陸でもかなり有名な人物なのだろうと思われる。それは孫であるルシカに対する訪問者たちの態度からも、容易に想像がついた。


 そんな祖父は、ルシカが幼い頃から魔法に関する知識を詰め込んできた。世界のことわりから先文明の遺跡、遺文、歴史、魔法特有の言語から海洋学、天文学に至るまで、ありとあらゆる知識を習得させたのである。


 それは遊びたいさかりの子どもにとって、あまり嬉しくないだろう毎日であった。しかし幼少の頃から村はずれの屋敷で祖父とふたりきりの暮らしが長かったルシカにとって、それは普通のことだったのである。


 思春期になり、ある機会に他の家庭との違いを知ったときは……それはもうショックだったわけだけれど。


「……まあ、もう気にしていないけれど、ね」


 もし、父と母が生きていたら、どんな暮らしだったのだろう。


 厳しい勉強と魔法修行の日々に挫折しかけたとき、書庫の隅に隠れるように座り込んで、そんなことを想像したこともあった。


 だが、ヴァンドーナは孫娘を愛している。厳しい態度もからかうような遣り取りも、そのすべてが彼女を大切に思うからこそ。幼い頃に両親を亡くしたルシカが、わずかでも寂しい思いをしないようにと……。


 それが根底にあるのを知っていたから、ルシカは家を飛び出すこともなく、毎日様々な魔法、魔導の課題に取り組んできた。中位までの魔導の技ならば、ほとんどすべての魔法を使いこなすことができるくらいに成長した。それでも祖父にしてみれば、自分はまだまだ「半人前」なのだ。何故なら、最上位魔法はどれひとつとして成功させたことがないからだ。


 魔法は本来、創造、破壊、時間、空間、召喚、幻覚、察知、透視、封印などという力の『』によって区分されており、魔導士や魔術師は中級までの魔法であればほとんどの種類を使うことができる。


 だが最上級魔法になると、魔導士がどれかひとつ、もしくはふたつまでの種類しか行使できなくなる。魔導士であるならば、その魔法の属する分野を自身の力の『名』として持つことになるのだ。


 つまりルシカは、まだ『名』を持たない半端な状態なのであった。


 それでもようやく半年ほど前から、このソサリア王国の王都ミストーナにある『千年王宮』まで出掛けることを許されるようになった。魔法の品や文献を祖父に託され、王宮の宮廷魔術師に届けに行く「おつかい」である。魔法の品は貴重かつ危険な物が多く、転送の魔法に乗せることができないものが大半であり、何より他人に託して届けてもらうわけにはいかない大切な品ばかりなのだ。


 現在の宮廷魔術師として王国に仕えているダルメス・トルエランは祖父の昔なじみであり、若い頃には冒険者として大陸各地をまわっていたという、気さくな人柄の老人だ。同じ冒険仲間だったという現傭兵隊長のソバッカ・メンヒルとともに、昔の冒険譚をおもしろおかしくルシカに話してくれる。


「今回は、なんの話を聞こうかなぁ。前回聞いたソバッカさんの出身地、東方にあるというドナン大陸の話、おもしろかったな。もっと詳しく聞きたいかも」


 王宮で過ごす時間のことを考えると、ルシカの気分も向上してきた。


 祖父に引き取られてから王都への「おつかい」を任されるようになるまで、屋敷から遠出することは一度もなかった。近くにあるミルトの村にすら出掛けることを許されなかったルシカにとって、王宮へ赴く旅はこの上ない楽しみだったのである。


 そして今回、五度目の訪問だ。


 このソサリアを治めている国王陛下には、前回の訪問ではじめて会うことができた。国王の忙しい公務の合間に交わした、そのときの会話をルシカは思い出した。


「今度来たときには、大事な話がある」


 現国王ファーダルス・トゥル・ソサリアは、ルシカにそう告げたのであった。


「あれはどういう意味なのかしら。……うーん、ずぅっと気になっているんだよね。早く王宮に着きたいな」


 だが急いで駆け走ろうとも、すぐに王都に到着できるわけではない。


 ソサリア王国には、ふたつの広大な森林地帯がある。ひとつは、王都ミストーナのある王国北部の広大なカクストア大森林、そしてもうひとつが、王国中央から南部に広がる大森林アルベルトだ。その大森林アルベルトは、ゾムターク山脈の南西部によってさらに南と北に分断されている。ミルトの村は、ゾムターク山脈の南側に位置しているのだ。


 つまり、王都ミストーナまでは本来、ゾムターク山脈を迂回して大森林アルベルトの南と北の全領域を通り抜け、大河ラテーナを渡ったあと、さらに北に進んでいく街道を進まなければならない。途中に大きな都市が幾つもあり、街道は整備されて治安も悪くないとはいえ、休むことなく歩き続けてもおよそ一週間はかかる道のりであった。


 ヴァンドーナとルシカが住んでいる郊外の屋敷からミルトの村を反対側に抜ければ、隊商も利用している大陸中央街道に出る。あとは街道沿いに進むことで王都までは迷うことのない旅路となる。


 だが、ルシカはミルトの村を前にして立ち止まり、北に連なっているゾムターク山脈の方向に目を向けた。


 そこには、もうひとつ別の選択肢が存在するのだ。近道、という名の。


 ゾムターク山脈を迂回せず、谷になっている場所を抜けるルートである。通常は一週間かかる王都までの道のりを、その半分に短縮することができるのだ。だが、そのルートは決して安全なものではない。


「危険なのはわかっているけれど……でもやっぱり、こっちにしようかな」


 ルシカはその近道を使うことにした。前回も前々回も無事に抜けることができたのだから、今回も大丈夫だろうと思ったのである。


「誰も……見ていないよね?」


 ルシカは周囲に視線を走らせ、他人の目がないことを確認した。やましいことがあるわけではない。気軽に後をついてくる旅人がいたら心配だから、というのが理由だ。この道の危険を回避するためには相応の覚悟が必要となる。もし、彼女にならって近道をするならば、腕に覚えのある戦士か魔法使いでないと非常にまずい。


 人目はなかった。それもそのはず、この道を通るものはヴァンドーナの屋敷を訪れる者か、隣国のラシエト聖王国へ向かおうとして迷い込んでくる旅人くらいだ。しかも後者についての心配はほとんど無いといってもよい。ソサリア王国とラシエト聖王国は、いまでこそ和平条約を結んでいたが、あまり親密な交流があるわけではない。なんといっても、先王の時代に激しい戦争をしていた相手国なのである。


 だからルシカの心配は、いつも空振りなのだ。


 ゾムターク山脈の近道は、崖登りというほどではないが平坦な道でもない。途方もない規模の亀裂が走り、その谷間のようになっている底部分を通過するのである。崩落した箇所は足場が悪かったが、坂は緩やかで、崖登りや回り道をするよりは遥かにマシであった。


「早く着けば、王宮でゆっくりできるかな?」


 その谷間への入り口――そろそろ坂になりはじめる地点まで到達したとき。ルシカはちょっとした段差に足を引っ掛け、見事にすっ転んでしまった。


いたあぁ……。コホン。足元をよく見ていなかったなぁ。考え事をしていると危ないよね、うん」


 人目もないはずなのに、鼻と額をぶつけたルシカが照れたように独りつぶやいた、そのとき。


 ストン! 転んだままの頭上を何かが通り過ぎ、すぐ傍にあった木の幹に鋭く刺さった。びぃぃぃん、と不穏に揺れるその物体は、よく見ると一本の矢である。


「うわわわっ? まさか狙われているの?」


 ルシカは急いで起きあがり、矢が飛んできたと思われる方向に眼をやった。視線の先で人影のようなものが動き、茂みが揺れた気がした。


 ルシカが眼を凝らしてもう一度よく見ようとしたとき、動きのあった場所からわずかにずれた位置で、弓弦ゆづるの鳴る音が響いた。


 ビシッ! 反射的に身を引いた場所を通過した矢が、離れた地面に当たって撥ねる。ルシカはポカンとしてその光景を見つめた。


「え? えええぇぇぇッ!」


 我に返ったルシカは慌てて駆け出した。腕の立つ狩人や暗殺者ではなさそうだ。矢の狙いは甘かったように思えた。


「……どうして、あたしなんか狙うの。足音、いち、に、さん――相手……三人、かな」 


 ルシカは全速力で走りながら、ちらりと後方を振り返ってみた。だが、ゾムターク山脈のふもとの山道である。くねくねと曲がっているので、木々に隠され、追跡者の姿は見えない。けれど確実に、追ってくるのが気配と足音で分かる。


 突然襲われたショックでルシカの心臓は早鐘のように激しく打ち響き、いきなりの全速力に耐えかね、足が早くも痛みはじめている。ルシカは目眩めまいを覚えた。


「……このままじゃ、すぐに追いつかれちゃう」


 だからといって人里離れたこんな場所で助けを求めて叫んでみても、助けが来る見込みはない。そんなことをすれば敵にこちらの居場所をはっきりと知らせてしまうことにもなりかねない。魔導の技を使うことも考えたが、全力で駆け走っている状態では精神集中も準備動作もままならない。


 からからになった喉を何とかしようと唾を呑んだ瞬間、目の前の光景がぶれた。ぐらりと突然支えを失ったかのようにからだが傾き、ルシカは自分がまた転んだのかと思った。


 そうではない。力強い誰かの腕が、ルシカを抱えあげたのだ。


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