万色の杖 1-1 出発

 この現生げんしょう界において一番の面積と人口を有している大陸、トリストラーニャ。


 主要な五種族である人間族、竜人族、飛翔族、エルフ族、魔人族が統治する大小十五もの独立国が存在し、山脈や平原、草原、森林地帯や砂漠地帯など、ひとの住まう領域と自然、そして魔の領域が隣合う大地であった。


 その大陸の北部に、比較的大きな国がある。人間族の王が統治するその国の名を、ソサリア王国といった。


 広大な三角江エスチュアリーにある王都に住まう民たちにとっての一番の自慢は、文字どおりの年月を経てなお光り輝いている巨大な白亜の建造物だ。謎に満ちた歴史をもち、揺るぎない安定と美しさを保つその奇跡の建造物が、王国の中心となる『千年せんねん王宮おうきゅう』である。


「兄貴。準備はいいか?」


 青年のよく通る声が、白亜の回廊に響いた。彼の現在の状況にあわせて低く発せられていたが、素直さと真面目さを感じさせる声音だ。


「こっちはいいぜ。そっちは?」


 もうひとつの声も、先に発せられたものと同一人物かと思われるほどよく似ていた。声の調子ははっきりと違っている。答えたほうは、ニヤリと口もとを笑わせながら発せられたように快活そのものの口調であった。


「もちろんいいさ。はじめよう」


 最初に問いかけたほうは、微笑を含んだように穏やかな口調で応じた。音を立てぬよう慎重に扉を押し開き、長身の体躯とは思えぬほどに洗練された動きで廊下の曲がり角まで駆ける。


 もうひとつの人影もしなやかな動きでそれに続き、回廊の先を油断なく覗き込んだ。


 高い精度の測量技術で造られた美しい廊下は、広い横幅のまま真っ直ぐに続いている。延々と並ぶ硝子ガラスの装飾窓から降りそそいだ太陽の光が、絨毯の敷かれた床にやわらかな色模様を織り成していた。


 およそ十歩ごとに並んでいる、素晴らしい香りを放つ花を飾った瓶と台座が、ほそやかな影を作り出すのみ。身を隠せる場所はほとんどない。


 光に満ちあふれたこの長大な空間は、謁見の間に通じる回廊でもあるのだ。ふたりが先ほどまで居た部屋から外に出るには、どうしてもこの回廊を抜ける必要があった。


「人の気配がないのは幸運だな。俺たちが堂々と王宮を抜け出すわけにはいかない」


 並び立つ長身のひとりがつぶやき、もうひとりが同意するように頷いた。


「謁見までの隙間時間、ってやつさ。目指すのは東門だ。順調にそこまで行けば用意はある」


 広大な王宮の敷地内の東エリアには、独立した建物である円筒形の塔のような建造物、『図書館棟』がある。古代文献や魔法書の管理をしている文官たちが利用するため、その近くに特別な門が設置されているのだ。幾重にも張り巡らされた結界と保護魔法が外部からの侵入者を拒み、魔法による認証システムが施されている。


 王宮に住まう者ならば自由に出入りすることができ、記録も見張りも存在しない。ふたりはそこから抜け出るつもりなのだ。


「ヴァンドーナ殿は不在と聞いている。東門は確かに、いい考えだと思う」


「そうだろ。まァったく、俺たちには幸運の女神でもついているのかな」


「『幸運の神』リマッカならば女神じゃないだろ、兄貴。それで――いけそうか?」


「そうだなァ……中庭のほうまで人影はないぞ。大丈夫だろうさ」


 その呑気な言葉にあきれたように息を吐いたのは、はじめに声をかけた、穏やかな眼差しと落ち着いた印象を感じさせる青年だ。長身で筋肉のよく発達した体格、短く整えた金髪、まるで今日の秋空のように澄んだ青い瞳をしている。武器の類は一切なく、上質であるが飾り気のない動きやすい胴着を身に着けていた。


 ニヤリと口の端をあげて微笑んだほうは、颯爽とした物腰の青年だ。クセのない金髪は長く、邪魔にならないよう背に放ってある。金属製の軽鎧を着込み、腰には長剣を帯びている。その上から濃青の外套マントまとっていた。快活そのものの瞳は、まるで夏空のように晴れ渡った青であった。


「では行こうか、テロン」


「わかった」


 胴着の青年は頷き、すっと背筋を伸ばした。剣を帯びた青年よりも拳ひとつ分、さらに背が高い。


 ふたりとも育ちの良さが感じられる端正な顔立ちをしていた。髪型や装備、態度や雰囲気は違えど、その顔はそっくりである。それもそのはず、彼らは双子なのだ。


 ソサリア王国の双子の王子、第一王位継承者であり剣を得意とする兄クルーガー・ナル・ソサリアと、その弟であり第二王位継承者の体術家テロン・トル・ソサリアだ。


「待て、テロン」


 クルーガーが、何かを感じたように後方を振り返った。胴着の青年テロンもほぼ同時に振り返っている。


 進むほうとは逆の方向から、きらびやかな鎧を身につけた壮年の武人が独り、いましがたふたりが出て来た部屋へ向けて歩いてきたのである。その扉に手をかけた時点で、部屋のなかに気配がないことに気づいたのであろう。左右に伸びる廊下に向けて隙のない視線を走らせつつ、ふたりが潜む通路にゆっくりと近づいてくる。


「さすがルーファス、部屋に俺たちがいないことがあっという間にばれちまったなァ」


 クルーガーは心底困ったように眉を寄せ、ふぅ、とため息をついた。幼少からのお目付け役は、正直苦手なのだ。


「どうする?」


 テロンが落ち着いた声で兄に尋ねた。もう迷っている猶予はない。相手はすぐそこまで迫っているのだ。彼が落ち着いていられるのは、兄の表情に考えがあることを読み取ったからである。


「俺が引き止める――あの手を使うぞ。テロン、先に行け」


 クルーガーは押し殺した声で囁き、自分の背の荷物を弟に投げて寄こした。そして通路の先に目を向けて進むべき方向を示し、自分はその場に踏みとどまることを決意する――状況を打開するための、おとりとして。


 クルーガーは躊躇ちゅうちょなく、サッと廊下に姿を現した。外套マントが広がるその背後を疾風かぜのようにテロンが動き、武人から死角となる位置を駆け進んで素早く角を曲がった。


「殿下ッ!」


 鎧の武人が目の前に現れた第一王子の姿に驚いて、立ち止まる。


 テロンはふたりの遣り取りを呑気に眺めるようなことはしなかった。一気に廊下を通り抜け、広間の螺旋らせん階段を駆け上がり、青空の広がるバルコニーに出た。


 気持ちの良い天気、輝くような白亜の外壁と彩り豊かな王都の街並み――大きく息を吸い込んだテロンの口もとに、思わず笑みが浮かぶ。


 彼は、迷いのない歩調で広さのあるバルコニーの端まで歩いていった。下には緑の大樹の並木と草の原、そして巡回する警護の兵たちの姿がある。相当な高さがあるので、ここまで見上げる者はいないだろう。今日の陽光に白亜の壁は眩しすぎるのだ。


「いい天気で、助かる」


 ふたり分の荷を抱え直し、テロンは腰までの高さの手すりをひらりと乗り越えた――。


「やァ、ルーファス。ヴァンドーナ殿の帝王学の講義は休みだぞ」


 その頃、クルーガーはルーファスと向き合っていた。目の前の武人は自分の父ほどの年齢の開きがある。


「自習分はすべてきっちり終わらせたから、ちょっと伸びをしに部屋の外へ出ただけさ」


「このあとは私との剣の稽古ですぞ。……まさか、さぼるつもりではありますまいね?」


 クルーガーにとって、ルーファスは剣術の師範だ。ひやりとした緊張が、クルーガーの背筋を伝う。足を少し開いて腰を僅かに落としながら、クルーガーはゆっくりと問いかけた。


「どうしてそう思う?」

 

「今朝早くに、厨房長から、保存食を受け取られていたそうですな」


 王宮の厨房を任されているマルムは口が堅い。おそらくは、その光景を誰か別の者に見られていたのだろう。


「今は荷物なんか、ほら、持っていないだろ?」


 クルーガーは背中を見せた。旅の荷物などひとつも持っていないことを示してみせたのだが――。


「殿下、私は貴方あなたが幼い頃からずっとおそばに仕えてきたのですよ。……この目はまだ曇っておりませぬ。何としてもお止めしますぞッ!」


 言い終わるが早いか、ルーファスは猛然と床を蹴って突っ込んできた。腰の剣をさやごと留め金から外し、クルーガーまでの距離を詰めると同時に閃光のような剣さばきで横なぎに打ち込んでくる。


 その一撃は剣を半分抜いた刀身で受け止め、クルーガーは後方に跳び退って次の斬撃をかわした。


「ちょッ、待て待て、ルーファス!」


 慌てたような声を出しつつ、クルーガーも腰に帯びた長剣を鞘ごと外した。師範の剣を弾くように受け流しながら回廊に続く角まで後退し、チラリと横目でその先の様子を確認する。弟の姿はない。すでにその先へと移動したのであろう。


「悪いな、ルーファス」


 クルーガーは愉しそうな笑みを浮かべ、背筋を伸ばして鞘ごと剣を眼前に構えた。練習用のなまくら剣ではない。鞘をかけたままでは重く振り回しにくいが、それは相手も同じこと。


「どうしても知りたいことがある。それを確認してくるから――数日の間留守にするぞ」


 ダン! 言い終わると同時に、クルーガーは目にも留まらぬ速さで踏み込んだ。ルーファスの眉間に真っ直ぐに剣を突き入れる。


「ぬッ?」


 間一髪それをかわしたルーファスは、がら空きになったクルーガーの胴めがけて剣を真横から振るっていた。その動きを予想して跳躍していたクルーガーの体は、すでにその場になく――。


 ルーファスの剣は、真横にあった棚の上の花瓶に当たっていた。白く可憐な季節の花々が、剣の風圧でパッと宙に舞い散り、甘く爽やかな香りが花弁とともに振りまかれる。


 あまりに鋭い斬撃に、瞬間真横にきれいに切断された花瓶だったが……上の部分がそのまま床に落ち、派手な音を立て砕けたのであった。


「あ~あ、メルエッタさんに怒られてしまうなァ」


 クルーガーがニヤリと笑い、騎士隊長がもっとも苦手な侍女頭の名前を挙げた。


「むむぅ……!」


 苦渋に満ちた表情になり、一瞬動きを止めたルーファスに、クルーガーは逡巡しゅんじゅんなく背を向けた。そのまま突っ走って、広間の螺旋らせん階段を駆け上がり、すでに開け放たれていたバルコニーへ飛び出す。


「お待ちください、殿下ッ!」


 後方から投げかけられた太く鋭い声が、王子の背を打つ。広いバルコニーを一気に駆け抜け、クルーガーは手すりの手前で立ち止まった。追ってきたルーファスにくるりと向き直る。青い瞳が悪戯っぽく陽光に輝き、何ともたのしげな声で騎士隊長に告げた。


「では、これから冒険の旅に行ってくる」


 そして体を後方へ倒して手すりを越え、ルーファスの視界から消える――。


「で、殿下ッ……!」


 ここは天井の高い大広間の二階なのだ。すなわち、通常の建物の五階分に相当する。常人が落ちれば骨折程度では済まないかもしれないほどの高さである。


 狼狽したルーファスは凄まじい勢いで手すりに駆け寄ったあと、おののきながら下を覗き込んだ。


 地面まで続く飾り柱の途中、バルコニーからでは手が届かないほどの位置に、第一王子と第二王子、ふたりの姿があった。ルーファスはその無事な様子に胸を撫で下ろしたが、次いで奮然とした面持ちで声をあげた。


「て、テロン殿下まで! おふたり揃って王宮を抜け出すつもりですかッ」


 テロンは白亜の外壁に施された見事な装飾に片手を引っ掛け、垂直な壁面に両足を踏ん張っていた。もう片方の手でクルーガーの片手をつかんでいる。自分と背の荷物ふたり分、そして兄の重さを支えているのだ。


「サンキュー、テロン。いい連携だ」


 頭上にある弟の顔を見上げて声をかけたクルーガーは、器用に外壁の装飾を伝うようにして降りていった。地面までの半分ほどの落差はそのまま飛び降りて脚をバネにし、衝撃をやわらげるようにして優美な着地を決めた。


「兄貴」


 兄が地面に無事たどり着いたのを確認して、テロンが微笑む。背にあった荷物のひとつを落とすと、受け取ったクルーガーは親指を立てて応えた。


 ルーファスはポカンと開いたままだった口を閉め、手すりから身を乗り出すようにして第二王子に非難がましい視線を向けた。


「真面目なテロン殿下もご一緒だとは! ふたりで王宮を抜け出すのはいい加減にお止めください!」


「すまない、ルーファス」


 テロンはばつが悪そうに空いた片手を顔の前に挙げ、謝る手振りをした。そして、自分の荷物を外壁から少し離れた大樹の並木に向けて放り投げる。同時に、足をついていた外壁を蹴り、空中に跳び出した。


 そのあまりの高さと勢いに、ルーファスが息を呑む。


 跳躍したテロンは枝のひとつをつかみ、くるりと身を回転させて勢いを弱め、地面にストンと着地した。その腕のなかに、宙に放っていた彼の荷物が落ちる。


 実にダイナミックなその一部始終に、ルーファスは今度こそ開いた口が塞がらなくなっていた。


「我が弟ながら、信じられないような運動能力だなァ」


 口笛を吹いたクルーガーに、テロンは何事もなかったかのように荷物を背負って歩み寄った。


「それはお互いさまだろ」


 ふたりは互いに眼を見交わし、東に向けて駆け出した。踏み出した二歩目から、すでに常人には追いつくことも敵わないほどの速度である。声を聞いて集まってきた兵たちも、呆気に取られたようにふたりの後ろ姿を見つめるばかり。


「クルーガー殿下あぁッ! テロン殿下ぁッ!」


 後方のバルコニーから響き渡る幼少からのお目付け役の声を振り返り、双子は全力で駆け走りながらそっくり同じに片手を振った。


「悪い! 帰ったら補習はきちんと受けるからさ!」


 その声を聞いた騎士隊長ルーファスは、バルコニーの上で手すりにもたれ、ため息とともにガックリとうなだれた。


「またしても、してやられた……」


 そのつぶやきはすずやかな秋風に掻き消され、流されていく――。


 駆けるふたりの王子の俊足には、いかな兵でも追いつけるものではない。王宮の敷地内の東エリアに到着したときには、後ろに続く人影はなくなっていた。


「馬は?」


 テロンがすぐ横を走る兄に問いかける。


「案ずるな。用意はあるって言っただろう」


 クルーガーが微笑み、片目を閉じて応える。白亜の王宮と王都を区切る東門の前で足を止め、図書館棟のすぐ脇に繋いでいたそれぞれの愛馬を指し示す。クルーガーの葦毛の馬と、テロンの白毛の馬だ。


 ふたりとも全力に近い速度で広い王宮の敷地を駆け抜けてきたのに、息を乱してもいない。ふたりは頷き合い、それぞれの馬に歩み寄った。


「さて、目的地はミルトという村だったな。その郊外にヴァンドーナ殿は屋敷を持っているそうだ」


 愛馬とともに東門を抜けながら、クルーガーが言った。


「ヴァンドーナ殿は、どうやってその屋敷とこの王宮とを行き来しているのだろう」


 テロンが、いつも思っていた疑問を口にする。


「さぁなァ、大魔導士殿の行動は謎だらけだ。その疑問も一緒に持っていこうぜ」


 クルーガーは弟に答えながら鞍にひらりとまたがった。脚で馬の腹を押して合図を送り、進みはじめる。テロンも手綱を握り、馬首を巡らせながらつぶやくように言った。


「十六歳、か……」


 今回王宮から抜け出して兄と確かめにいくのは、十六になるヴァンドーナの孫娘だ。大陸一の力をもつ『時空間』の大魔導士の唯一の教え子、そして宮廷魔導士に推薦されている少女――。


 テロンのつぶやきが聞こえたのだろう、クルーガーがのんびりとした口調で言った。


「どんな娘なんだろうなァ。好みのタイプだといいが」


「まったく兄貴は……」


 呑気な兄の言葉にあきれたように応えつつ、テロン自身もその人物のことを考えると胸が落ち着かない気分になるのだった。


 予感、なのかもしれない。自分の人生で何かが変わる――そんな気がしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る