万色の杖

万色の杖 プロローグ

 青空へ向けた細やかな指先に、小さな水滴が生じる。


 空中にふわりと浮いた水の球を見つめる瞳は、人間族はもちろんであるが、主要な五種族のなかでも大変に珍しい色だ。昇りたての太陽が地上をぬくめる最初の光の色――明るく深みのあるオレンジの色彩である。


「空の色って、大好き」


 黎明から凛と清々すがすがしかったその日は、出発に相応しい、とても気持ちの良い青空になった。瞳に空を映していた少女は、まぶしそうに眼を細めながら、にっこりと笑う。


「とてもきれいで、優しい色。吸い込まれてしまいそうで、胸がドキドキする。たくさんの色が集まった陽光が散じて空いっぱいに広がると、青の色がよく見えるようになるって、おじいちゃんが言ったけれど」


 それだけではない気がする。だって、こんなにも素敵なんだもの――少女は大きく息を吸い込んだ。


 涼やかな大気が、胸いっぱいに満たされる。肺から取り込まれて全身に行き渡る元素は、現生げんしょう界の生命にとって大切な活動エネルギーの源だ。


 少女は、くるりと指先をひるがえした。コポコポと光の輪を描いていた水滴がほどけ、白炎がパッと生じてすぐに消えた。


魔導まどうの知識と意志の力……」


 少女は手を下ろし、また青空へと視線を戻した。雪をいだくゾムターク山脈が視界の端に見える。青空と溶け合いながらもくっきりと分けられた見事な稜線は、まるで銀の筆のひと刷毛のよう。


 山脈から吹くひんやりとした涼やかな風が、少女のやわらかな金の髪を梳くようにさらりと揺らしていった。旅路につく者ならば、上から羽織る暖かいものが必要になる季節である。仕立ててもらったばかりの旅用の衣服を思い出し、少女は跳ねるように立ち上がった。


 三階建ての大きな屋敷のてっぺん、足場には少々心許ない屋根の上である。


 そのとき、遥か下のほうから少女の名を呼ぶ声が聞こえた。深く落ち着いた響きをもっているが、微笑を含んだようにたのしそうな老人の声だ。


「ルシカ、そろそろ時間じゃぞい。おつかいに出掛ける日は、今日ではなかったかな?」


「はぁい、おじいちゃん。いま降りるね」


 ルシカと呼ばれた少女は素直に返事をすると、健やかな肢体をすっと伸ばして真っ直ぐに立った。瞳を伏せ、深い呼吸をひとつして眼をあげると、オレンジ色の瞳の虹彩に、白く輝く星々のような光が数多あまた煌めいた。


 ゆっくりと両腕を伸ばし、空中にすべらせるような動作で円を描く。その動作に導かれるように、自然ではありえないほどに強い光がルシカの周囲に生じる。


 透ける緑の不思議な光は彼女を中心に回るように空中を駆けはしり、類稀なる技術で綴りあげられた織物のごとく優美な紋様と同心円を描いてゆく。


 消えない絢爛けんらんたる花火さながらに、光は空中に咲き開いた――『魔法陣まほうじん』だ。


 魔法という力は、実におもしろい。自然現象では起こり得ない時と場所であっても、思い描いた事象を現実のものとして具現化することができるのだ。何もない空中に炎を生じたり、真っ暗な洞穴内を真昼のように照らしたり、翼がなくとも自由に空中をけることができたり、というように。


 この世界の魔法使いには、ふたつの系統があった。


 魔法を行使する際に呪文を詠唱したり魔道具マジックアイテムや物理的に描いた魔法陣を利用するのが『魔術師』だ。古代魔法王国が滅びたのち、現在魔法を使う者として一番多く存在する。


 そして、詠唱や道具を必要とせず、高めた精神と確かな知識によって森羅万象に干渉し、瞬時に虚空へ描き出した魔法陣を媒介に、魔法を行使するのが『魔導士』であった。魔導士は現在、とても希少な存在である。


 自然の風ではない流れに、少女のやわらかな髪がふわりと持ち上がる。魔導の力場が大気の渦を生じているのだ。少女の足が、まるで重力というくびきから放たれたように宙へ浮く。白き魔導の光を宿した少女の瞳が「やったぁ!」という表情に輝いた。だが――。


「え……わわっ、きゃああぁぁぁッ!」


 少女のほそやかなからだは中空へと跳ねるように舞い上がり、ぐるりと回転して……突然支えを失ったかのように地面に向けて墜落を開始した。三階建ての屋敷の上から地面まで、遮るものひとつない光景に、瞬時に肌が粟立つ。


 魔導の輝きはすでに霧散していた。少女が、見開いたままの瞳に恐怖のいろを浮かべる。


「ルシカ!」


 上へ向けて差し伸ばされた老人の腕。瞬時に輝いた魔法陣が新たな力場を生じ、少女を包み込んだ。まるで見えない巨大な手のひらに包み込まれたかのように落下が止まり、少女は震える睫毛をあげて……ホッと安堵のため息をついた。


「ルシカよ。最上位魔法は使うなと、あれほど言っておいたであろう。『飛行フライ』の魔法は本来、『空間』という名の魔導に属するものじゃ。よもや忘れていたわけではあるまい」


「ごめんなさい、おじいちゃん。今日は成功しそうな気がして……」


 庭に立つ老人の前にふうわりと着地したルシカは、ばつの悪そうな顔で謝った。


「魔導の『名』を知ることを、焦るでない。わしの可愛い孫なのじゃからのぉ、きっと報われる日はくるはずじゃぞい。良いか、ルシカ。何があろうとも、決してくじけるんじゃないぞ」


 老人はそう語り、頷いてみせた。足元まで届きそうなほど豊かな白いひげ、丈の長い濃紺の衣服には、細かく綴られた魔法語ルーンの装飾が施されている。


「ほれ、さっさと仕度をせんか。このままでは雨が降りはじめるぞい」


「えっ!」


 ルシカは慌てて空を見上げ――抜けるような青空を瞳に映した。からかわれたのだと気づく。思わず頬を膨らませた孫娘に、老人は灰色の色彩をもつ瞳を微笑ませ、弾むような口調で言葉を発した。


「さて、では書庫で待っておるからの。儂が風化して骨になる前には来るんじゃぞ。いつものように忘れ物をするでないぞい。『空間』の魔導でホイホイと届けてはやれんからのぉ」


「そ、そんなことないから! ちゃんと準備はしっかりできてますっ」


 からからと愉しそうに笑いながら屋敷の扉を入る祖父に、ルシカはすべらかな頬を赤く染めた。つい、大声をあげてしまう。


「もーっ、おじいちゃんってば! いじわるなんだからっ」


 それはよわい九十を過ぎる祖父と、十六の孫娘との、傍から見ると微笑ましいとすらいえる光景であった。


 祖父はこの歳でもすこぶる元気で、頭脳は明瞭、聡明、そして今も大陸で最高最強とうたわれる魔導士だ。『時間』と『空間』の力をあわせ持つ『時空間』の大魔導士、ヴァンドーナ・ガル・メローニ。


 けれどルシカには、どうにもさっぱり納得することができなかったのである。祖父の世間一般の評判を知らないわけではない。早くに両親を亡くして祖父のもとで暮らしてきたルシカにとって、その幼少の頃から覚えている限りずっと、祖父は毎日飄々ひょうひょうとして、おちゃらけてばかりいたからだ。


 実の孫であるルシカ・テル・メローニも同じ魔導士ではあるが、まだ魔導の『名』を決める最上位の魔法は一度も具現化させたことがない。ルシカにとって、それは重大な悩みの種なのである。


「あたしの『名』って、いつ分かるのかな。魔法についての知識はすべて、習得できているはずなんだけど……」


 しょんぼりしながら自分の部屋に戻ったあと、旅着に着替えて荷物を携え、ルシカは祖父の待つ書庫に入った。


 世界に一冊きりしかないはずの貴重な魔導書や歴史文献の数々が、壁そのものである棚のほとんどを埋め尽くし、そこかしこにある重厚なテーブル上にまで積まれている。吹き抜けになっている天井の窓から、あたたかい日差しが遠慮がちに部屋の床まで届いていた。


「今回届けてもらいたい『おつかいの品』は、これじゃよ」


 ヴァンドーナは慎重そのものの手つきで、こぶしほどの大きさの布包みをルシカに手渡した。「取り扱いには注意するんじゃぞ」と言われ、ルシカの頬がこわばる。


 けれどルシカがその包みを手にした途端、合わせ目がひとりでにスルリとほどけ、色とりどりの光や派手な音が弾け、まぼろしのリボンや花びらが舞い上がった。


「えッ? う、うそ、どうしてそんなっ」


 ルシカは慌てて元に戻そうと手を伸ばし――そんな孫娘の様子を眺めて愉しそうに微笑んでいる祖父に気づいた。


「間違えてしまった。こっちじゃったわい」


 安堵のあまり床にへたり込みそうになりながらも抗議の声をあげかけるルシカに、ヴァンドーナは悪びれもせずもうひとつの布包みを差し出した。


 今度はどうやら本物であるらしく、非常に軽いものではあったが、きっちりと重ねあわされた布の合わせ目に『封印シール』の魔法の輝きが宿っている。


「ん~もうっ、おじいちゃん! あたしが出発する日くらいは真面目にしてほしいですって、今朝もお願いしていたのに」


 ルシカは優しげな弧を描く眉を困ったように互い違いにさせながら、預かった魔法の品を背負いのカバンのなかに丁寧に仕舞った。荷物は極力少なめに、数日の旅に必要な物だけ選んだつもりだ。


 白と青緑色、そして薄桃色を基調にした女の子らしい衣服に、革のブーツ、真新しい旅用の肩掛けケープ。おつかいに出掛ける準備は完璧――忘れ物はない、はずである。


「それでは、おじいちゃん。行ってきます」


 ルシカは門のところで祖父を振り返り、明るい瞳を少しだけ細めて笑顔になった。


「うむ、道中くれぐれも気をつけるんじゃ、ルシカ。宮廷魔術師のダメルス殿にはきちんと挨拶するんじゃぞ。儂はいつでもおまえの無事を願っておる」


 孫娘を心配する言葉は、本物だ。おちゃらけではなく真面目なものである。ルシカは安心した。


 そうしてルシカは、門の傍で見送ってくれる祖父ヴァンドーナに手を振りながら、ミルトの村の郊外にある屋敷を出発したのだった。


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